メクレンブルク=シュヴェリーン自由州

ドイツ国(ヴァイマル共和政)の構成国
メクレンブルク=シュヴェリーン自由州
Freistaat Mecklenburg-Schwerin
メクレンブルク=シュヴェリーン 1918年 - 1934年 メクレンブルク州
メクレンブルクの国旗 メクレンブルクの国章
(国旗) (国章)
メクレンブルクの位置
メクレンブルク=シュヴェリーン自由州(桃色)、黄色はメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州
公用語 ドイツ語
首都 シュヴェリーン
州務長官
国家代理官ドイツ語版
1918年 - 1919年 フーゴ・ヴェンドルフドイツ語版
1933年 - 1934年フリードリヒ・ヒルデブラントドイツ語版
州首相
1918年 - 1920年フーゴ・ヴェンドルフドイツ語版
1933年 - 1934年ハンス・エゴン・エンゲルドイツ語版
面積
1925年13.126,92km²
人口
1925年674411人
変遷
ドイツ革命による君主制廃止 1918年11月14日
自由州憲法の成立1920年5月17日
メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州と合邦、メクレンブルク州の成立1934年1月1日
通貨パピエルマルク
レンテンマルク
ライヒスマルク
現在

メクレンブルク=シュヴェリーン自由州ドイツ語 Freistaat Mecklenburg-Schwerin)は、1918年から1934年にかけて存在したドイツ国ヴァイマル共和政)およびナチス・ドイツ自由州である。領域は現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州の一部に相当する。

歴史編集

1918年11月のドイツ革命による君主制廃止の奔流がメクレンブルク=シュヴェリーン大公国にも波及する中、11月14日にメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ4世が退位[1]し、メクレンブルク地域における君主制は隣接するメクレンブルク=シュトレーリッツ大公国と合わせて廃止された。

メクレンブルク=シュヴェリーンとメクレンブルク=シュトレーリッツを合わせたメクレンブルク地方は元々、統一された地域だったため、君主制の廃止を契機とした統一の議論も起こったものの、結局は統一されることなくそれぞれ個別に自由州となり、独自の州憲法を制定して独自の州議会を有した。一方で、上級裁判所についてはロストックにあったメクレンブルク上級控訴裁判所を共有した。

メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州プロイセン自由州の県ほどの大きさしかない小州で、財源も乏しかったことからわずか数年で財政的に行き詰まり、1920年代後半にはメクレンブルク=シュヴェリーン自由州との合邦やプロイセン自由州からの支援取り付けが模索されたが、結論が出ないままであった。その後、ナチ党政権による強制的同一化の過程で国家代理官ドイツ語版が置かれることになると、メクレンブルク=シュヴェリーン及びメクレンブルク=シュトレーリッツの国家代理官となったフリードリヒ・ヒルデブラントドイツ語版が両自由州を合邦させることを決定し、1934年1月1日に約3世紀ぶりにメクレンブルク州として統一された。

1937年に大ハンブルク法ドイツ語版が制定されると、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方にあった飛び地のドームホフ・ラッツェブルクとハマー、マンハーゲン、パンテン、ホルスト、ヴァルトスフェルデをハンブルク都市圏のヘルツォークトゥム・ラウエンブルク地区に譲り、代わりにリューベックからウテヒトとシャッティン (現在のリューダースドルフ地区) を移管された。シュターフェンハーゲン近郊にあったポンメルンの飛地のツェッテミンも移管された。

第二次世界大戦が終結すると、メクレンブルクはソ連の占領下に置かれ、オーデル・ナイセ線以西のポンメルンと統合されてメクレンブルク=フォアポンメルン州となった。

政治編集

州議会編集

君主制が廃された後、1919年2月21日に制憲議会が召集された。1920年5月17日にメクレンブルク=シュヴェリーン自由州憲法が制定され、1920年6月には州議会選挙が実施された。選挙制度は厳正拘束名簿式比例代表制を採用し、ドント方式で議席配分が行われた。

州政府編集

メクレンブルク=シュヴェリーン州政府は、州首相の下に外務省、内務省、財務省、法務省、教育・技術・宗教・医療・総務省、農業・国土・林業省の6省庁を有していた。内閣は州首相と大臣3人とされていたが、州首相・大臣ともは基本的に2省庁を所管する運用がされていたため、たいていは州首相と大臣2人で内閣を構成していた。また、外務省は州首相の所管とされた。ナチ党政権下では各州の自治権が縮小されたため、内閣は州首相と大臣1人となった。

メクレンブルク=シュヴェリーン自由州首相編集

州務長官
州首相
国家代理官ドイツ語版

脚注編集

  1. ^ フリードリヒ・フランツ4世は1918年にメクレンブルク=シュトレーリッツの摂政を兼ねていた。これは同族のメクレンブルク=シュトレーリッツ大公アドルフ・フリードリヒ6世が1918年2月に自殺して、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国の継承者が不在となったからである。