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モハンマド・モサッデクペルシア語: محمد مصدق‎、1882年5月19日 - 1967年3月5日)は、イラン帝国民族主義者政治家。スイスで国際法の博士号を取得したので、モサッデク博士として知られる[1]。同国の首相を2期務め、1951年に石油国有化政策を行った(→アーバーダーン危機も参照)。

モハンマド・モサッデク
محمد مصدق
Mossadeghmohammad.jpg
生年月日 1882年5月19日
出生地 State flag of Persia (1907–1933).svg テヘラン
没年月日 (1967-03-05) 1967年3月5日(84歳没)
死没地 State flag of Iran 1964-1980.svg テヘラン
所属政党 国民戦線
サイン Mohammad mossadegh Signature.svg

在任期間 1951年4月28日 - 1952年7月16日
皇帝 モハンマド・レザー・パフラヴィー

State flag of Iran 1964-1980.svg イラン帝国首相
在任期間 1952年7月21日 - 1953年8月19日
皇帝 モハンマド・レザー・パフラヴィー
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それまでイラン国内の石油産業を独占的に支配し膨大な利益をあげてきた英国資本のAIOC(アングロ・イラニアン・オイル会社、現:BP)のイラン国内の資産国有化を断行した。イラン国民は熱狂的にモサッデクを支持したが、AIOCなどの国際石油資本は、イラン原油をボイコットしイラン経済を締め付け1953年、アメリカのCIAや英国の情報機関、イラン軍の一部、カーシャーニーなどがシャーを担いクーデターを決行、モサッデクを失脚させた。

生涯編集

生い立ち編集

イランの首都となるテヘランで、ガージャール朝の縁戚にあたる名家(第2次世界大戦前は、テヘランの日本公使館はモサッデク一族の不動産を借りていた)に生まれる。フランスに留学しソルボンヌ大学卒業を経て、スイスヌーシャテル大学英語版法学博士号を取得。

政界へ編集

イランへの帰国後にイラン立憲革命に参加、国会議員となりアフマド・カバム英語版内閣で財務大臣となる。パフラヴィー朝成立後の1944年国民戦線英語版を結成、民族主義を標榜しながら政治経済の両面で影響を及ぼしていたイギリスへの抵抗運動を始める。

イラン首相編集

就任編集

1945年8月の第二次世界大戦の終結後、トゥーデ党英語版1949年に非合法化されるとほぼ唯一の反植民地主義的勢力(=反イギリス勢力)となり国民の支持を得、1951年に行われた民主的選挙によりイランの首相に就任した。

石油国有化政策編集

第二次世界大戦においてイランは、北はソ連、南はイギリスに占領され(→イラン進駐)、戦後もイギリスの影響力の強い政権が続き、アングロ・イラニアン石油会社英語版(AIOC)はアバダンの石油を独占し利益を独占、イラン国内に石油による利潤はほとんどもたらされない状態が続いていた。そのような中、以前から存在した石油生産の国有化案を民族主義者モサッデクは「石油国有化政策」へとつなげていった。

イギリスは懐柔案として「アングロ・イラニアン石油会社の利益をイギリスとイランが半々ずつ受け取る」という石油協定の改正を提案するが、モサッデクはこれをイギリスのイラン支配継続の意図をみて断固として反対した。石油国有化はイランの完全な主権回復を主張する運動のシンボルとして国民の支持を得て盛り上がりを増し、1951年の首相就任後に石油国有化法を可決させてアングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻し(イギリスのイラン支配の終結)、石油産業を国有化する。

それによりイギリス、その後ろ盾となるアメリカを始めとした西側諸国から猛反発を受けたことから、対抗するためソ連に接近。1953年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、ソ連と関係を深めていった。このことは西側諸国にイラン共産化の危機感を抱かせたが、実際にはモサッデクは共産化を警戒し、またソ連もモサッデクを「ブルジョワ」と警戒し、積極的に受け入れようとしていなかった。

失脚編集

 
勝利を祝うクーデター支持者たち(1953年)

イラン産石油はイギリスやアメリカの国際石油資本(メジャー)の報復より国際市場から締め出され、それによりイラン政府は財政難に瀕した、モサッデクの政治基盤の国民戦線は様々な勢力の緩い連合体であったため宗教勢力を指導していたアーヤートッラーの離反など国民戦線は弱体化していきモサッデクの支持は失われていく。

アメリカとイギリスは再び石油利権を取り戻すため、CIAにより大量の資金を軍人・反政府活動家などへ投入することで暴力による政府転覆を目指す内政干渉の秘密工作を行い(アジャックス作戦: TPAJAX Project)、その結果1953年8月15日から19日の皇帝派によるクーデターによってモサッデクを含む国民戦線のメンバーは逮捕され失脚した。

これにより、ファズロラ・ザヘディ将軍が首相に就任し、民主的政権からモハンマド・レザー・パフラヴィーの独裁世襲による王政となった。石油産業の国有化は骨抜きにされ、米国資本を中心とする国際石油資本が再度イランに回帰した。

モサッデクは不公正な裁判により死刑判決を受けたが、執行されず3年間投獄され、その後に自宅軟禁となった。晩年は、地域の貧しい農民たちを集め、無料で食事や医療を提供する活動などに力を入れて1967年に死去した。

死後編集

アメリカがクーデターを組織した背景には、当時のイランの共産化への危惧があった。だが民主的に選ばれた政権の転覆はイラン国民の対米感情に癒しがたい傷を残した。

モサッデクの生涯に大国の利害の間で翻弄されるイランの現代史を重ね合わせて見る心情は、イラン国民の間に根強い。列強に抑圧されたイランのシンボルとしてモサッデクは生き続けている。1979年に起きたイラン革命の時には、モサッデクの顔の写真や絵画を掲げて讃えられた[2]

イラン国内では、モサッデクは外国勢力とも宗教勢力とも距離を置き「真の独立」を目指した指導者として知られる。半ば神格化され今も彼を慕う国民は多い。しかし、現在の宗教政権からは「反王政」「反欧米」では一致するが「非宗教的」という点では相容れないため国民の過剰なモサッデク人気は警戒している。

関連項目編集

脚注・出典・参考文献編集

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  1. ^ 高橋和夫 (2002). “モサッデク”. 岩波イスラーム辞典: 999. 
  2. ^ 新・映像の世紀 第4集 世界は秘密と嘘に覆われた 2016年1月24日放送
  3. ^ この事件を題材にした『挑戦』(石原慎太郎)という小説がある。


先代:
ホサイン・エラー
イラン帝国首相
1951年 - 1952年
次代:
アフマド・カバム
先代:
アフマド・カバム
イラン帝国首相
1952年 - 1953年
次代:
ファズロラ・ザヘディ