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モリー・ピッチャーMolly Pitcher)は、モンマスの戦い(1778年)で戦ったと言われる、一般に「メアリー・ラドウィグ・マコーリー」(Mary Ludwig Hays McCauley)(1774年10月13日 - 1832年1月22日)であると考えられる女性のニックネームである。しかし、モリー・ピッチャーのいろいろな話は話されるうちに成長したし、多くの歴史家はモリー・ピッチャーを歴史というよりもむしろ民俗と見なしている、あるいは、モリー・ピッチャーは多くの実在の女性から思いついた合成イメージではないかと提案している。この名前それ自体は、戦争中に戦場で男性らに水を運んだ女性に付けられたニックネームとして始まったかもしれない。

モリー・ピッチャー(Molly Pitcher)
Molly Pitcher currier ives.jpg
モリー・ピッチャー モンマスの戦いで リトグラフ
出生名 メアリー・ラドウィグ・ヘーズ(Mary Ludwig Hays)
生誕 1744年10月13日
英領アメリカニュージャージー州トレントン_(ニュージャージー州)
死没 1832年1月22日(1832-01-22)(87歳)
アメリカ合衆国ペンシルベニア州カーライル_(ペンシルベニア州)
埋葬地
(北緯40度11分51秒 西経77度11分17秒 / 北緯40.19744度 西経77.18797度 / 40.19744; -77.18797座標: 北緯40度11分51秒 西経77度11分17秒 / 北緯40.19744度 西経77.18797度 / 40.19744; -77.18797)
所属組織 アメリカ合衆国の旗 アメリカ
戦闘

アメリカ独立戦争

配偶者
  • ウィリアム・ヘーズ(William Hays)
  • ジョン・マコーリー(John McCauley)
  • メアリー・ラドウィグ・マコーリー編集

    モリー・ピッチャーの話のなかの複数の偉業は概して、メアリー・ラドウィグ・マコーリーに帰せられている[1]。モリーは、独立戦争時代のメアリーという名前の女性の、ありふれたニックネームであった。メアリー・ヘーズに関する伝記的情報は歴史家によって集められているし[2]、そのなかには、合理的に信頼し得る彼女の人生の記述を提供している、文化遺産、与えられた名前、ほぼ確実な生年、結婚、子ら、および国勢調査および税金記録が含まれる。

    メアリー・ラドウィグは、ペンシルベニア、フィラデルフィアで生まれた。彼女の生年月日をめぐる論争がいくらかあるが、彼女が葬られている墓地の作り手は、彼女の生年月日を1744年10月13日と表に記入している[3]。彼女には、兄ジョーハーン・マーティン(Johann Martin)を含む、適度な大きさの家庭があった:両親は、マリア・マーガリーサ(Maria Margaretha)と肉屋のジョーハーン・ジョージ・ルードウィグ(Johann George Ludwig)であった。教育は当時の少女の間で普通ではなかったから、彼女が学校に通わなかったあるいは読めるようにならなかったということはありそうである[4]

    父親は1769年1月に死亡し、母親は次の6月にジョン・ヘーズ(John Hays)と結婚した。1777年前半に、モリーは、ペンシルベニア州カーライルの理髪師ウィリアム・ヘーズ(William Hays)と結婚した。大陸軍の記録によれば、彼は1778年にモンマスの戦いで砲兵であった。ドクタ・ウィリアム・アーヴィンは、カーライルの長老派教会の会合の、1774年7月12日の茶法に対する抵抗としてイギリス商品のボイコットを組織した。ウィリアム・ヘーズの名前は、それを施行させたことで訴えられる人々の一覧表に現われている[4]

    バレー・フォージ編集

    1777年に、ウィリアム・ヘーズは、プロクターの第4ペンシルベニア砲兵隊(Proctor's 4th Pennsylvania Artillery)に入隊し、これはプロクターの大陸軍第4砲兵隊(Proctor's 4th Artillery of the Continental Army)になった。1777年の冬に、モリー・ヘーズは、ペンシルベニア、バレーフォージの大陸軍の冬キャンプで夫と合流した。彼女は、マーサ・ワシントン(Martha Washington)に率いられた一団の女性の1人であった。マーサ・ワシントンは衣服と毛布を洗濯し、病気にかかった、そして瀕死の兵士の世話をした。

    1778年前半に、大陸軍は、男爵フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベンの下で訓練した。ヘーズは、砲兵として訓練したし、メアリーとその他のキャンプ随行者らは、原で教練を受けてしている部隊に水を運び、水運搬者として役立った。また、砲兵らは、各発射後ごとに樽から火花と火薬をきれいにするために使用される海綿を浸すために水の供給が必要だった。メアリーがニックネームを付けられたのはこの期間であったし、いつでも彼女に真水を運ばせる必要があるときは、「モリー! ピッチャー!」(「モリー!水差しを!」とも読める)("Molly! Pitcher!")と叫んだ 英語版 [要出典]

    モンマスの戦い編集

     
    モリー・ピッチャー モンマスの戦いで J・C・アーミテージ(J.C. Armytage)による彫板 1859年ころ

    1778年6月にモンマスの戦いで、メアリーヘーズは、兵士らに水を与えて彼らの世話をした。戦いが始まる直前に、彼女は、供給として役立つ泉を見つけたし、戦場の2か所は今、「"Molly Pitcher Spring" 」としてマークがつけられている。彼女は、しばしばイギリス軍の激しい砲火の下、兵士らと砲兵らに水を運んで前半生の大部分を過ごした。

    天気はたいへん暑く、ウィリアム・ヘーズは戦闘中に、負傷してかまたは熱消耗によって、倒れた。彼は戦死したとしばしば報告されているが、しかし彼は生き抜いたことが知られている[4]。彼は戦場から運び出され、メアリーはカノン砲の彼の部署につき、夫の槊杖を使用してカノン砲を「きれいにし、詰め」("swab and load")続けた。或る時点では、イギリスのマスケット・ボール(musket ball)あるいはキャノンボール(cannonball)が、彼女の両脚の間を飛び抜け、彼女のスカートのボトムをちぎった。彼女は、何か「そうねえ、もっとひどくなったかもしれないわね」("Well, that could have been worse")という趣旨のことを言ったとされている[5]

    ジョゼフ・プラム・マーティン(Joseph Plumb Martin)は、つぎのように書いて、回想録で或る事件を思い出している、すなわちモンマスの戦いで、「夫が砲兵に属して、女性が当時、契約のピースに愛着がある女性は、その間ずっと夫とともにそのピースの世話をしていた。カートリッジに手を伸ばし、できるだけ片足を遠くに踏み出している最中に、敵のカノン砲弾が、まさに彼女の両脚の間を通り抜け、ペチコートの下半分すべてを運び去ること以外のなにもしなかった。見たところ平然とそれを眺めて、彼女は、もう少し高く通らなくてよかったわ、この場合、何か他の物を運び去ったかもしれないから、と述べた。」("A woman whose husband belonged to the artillery and who was then attached to a piece in the engagement, attended with her husband at the piece the whole time.While in the act of reaching a cartridge and having one of her feet as far before the other as she could step,a cannon shot from the enemy passed directly between her legs without doing any other damage than carrying away all the lower part of her petticoat.Looking at it with apparent unconcern,she observed that it was lucky it did not pass a little higher, for in that case it might have carried away something else, and continued her occupation.")しかし、砲員らに水を供給するとマーティンが記述している女性の、そしてその女性の夫が死傷病兵になったことの、言及はない。

    その晩、晩(おそ)くに、戦闘は、迫りつつある暗闇のために、止められた。ジョージ・ワシントンとその指揮官らは戦闘が翌日続くことを期待したが、イギリス軍は、夜の間に退却し、ニュージャージー、サンディー・フック(Sandy Hook)まで進み続けた。

    戦闘後、将軍ワシントンは、戦場でカノン砲に装填しているのを見た女性に関して訊ねた。彼はその勇気の記念として、メアリー・ヘーズに下士官として准尉任命辞令を発した。そののち、彼女は「サージェント・モリー」("Sergeant Molly")として知られたが、これは彼女が死ぬまで用いたニックネームである[5]John McCauley

    後半生と死亡編集

     
    カーライルにある墓

    終戦ののち、メアリー・ヘーズと夫ウィリアムは、ペンシルベニア、カーライルに戻った。この期間中、メアリーは、ジョハネス(Johanes)(あるいはジョン(John))という息子を産んだ[4]。1786年後半に、ウィリアム・ヘーズは死亡した。

    1793年に、メアリー・ヘーズは、ジョン・マコーリーと結婚したが、彼は独立戦争のべつの古参兵で、ことによるとウィリアム・ヘーズの友人であるかもしれない。マコーリーは、地元のカーライル刑務所のための石工であった。しかしマコーリーはひどいかんしゃく持ちであったから、結婚は幸せなものではなかったとされている。メアリーの経済的没落の原因はマコーリーで、ウィリアム・ヘーズによってメアリーに遺された報奨の土地(bounty land)200エーカーを彼女に30ドルで売らせた。1807年と1810年の間ときどき、マコーリーは姿を消したし、彼に何が降りかかったかは不明である。

    メアリー・マコーリーは、カーライルで暮らし続けた。彼女は、家を掃除し塗り、窓を洗い、子供と病人の面倒を見る、賃貸の一般的な召使いとして生計を立てた。「サージェント・モリー」("Sergeant Molly")として知られる彼女は、カーライルの路上で、ストライプのスカート、ウールのストッキング、ひだ飾りのついたキャップ帽という姿で、しばしば見かけられた[4]。彼女は、「しばしば兵士のようにののしった」("often cursed like a soldier.")けれども、カーライルの住民にこよなく好かれた[5]

    1822年2月21日に、ペンシルベニア州は、その奉仕に対してメアリー・マコーリーに40ドルの年金を与えた。1832年1月22日にメアリーは、カーライルで、78歳近くで死亡した[6]。彼女は、「モリー・マコーリー」("Molly McCauley")の名前で、カーライルのオールド・グレーヴヤード(Old Graveyard)に埋葬されたし、「モリー・ピッチャー」("Molly Pitcher")の彫像が、カノン砲と並んで、共同墓地に建っている[3]

    マーガレット・コービン編集

    マーガレット・コービン(Margaret Corbin)の話には、メアリー・ヘーズ(Mary Hays)の話と複数の類似点がある。マーガレット・コービンは、ペンシルベニア、フィラデルフィアのジョン・コービン(John Corbin)の妻であった。1776年11月16日に、ジョン・コービンは、イギリス軍下のヘッセン軍(Hessian troops)[イギリスが雇ったドイツ兵]9000の攻撃からマンハッタン北部のフォート・ワシントン(Fort Washington)を守ったアメリカ兵2800の1人であった。ジョン・コービンは負傷、死亡し、マーガレットは彼に代わってカノン砲に付き、砲撃を続け、ついに片腕に重傷を負った。1779年に、マーガレット・コービンは、戦闘における英雄的な行為のためにペンシルベニア州から50ドルの年金を受けた。彼女は、軍事年金を受ける合衆国で最初の女性であった。彼女のニックネームは「キャプテン・モリー」("Captain Molly")であった[4]

    記念物編集

    連邦編集

     
    1928年のモリー・ピッチャーの切手
     
    モリー・ピッチャー・スプリング・メーカー(Molly Pitcher Spring Marker)

    1928年に「モリー・ピッチャー」("Molly Pitcher")は、「"MOLLY / PITCHER"」とある合衆国の郵便切手に重ね刷りで褒め称えられた。その年のもっと早くに、モンマスの戦い150周年を記念する祝賀行事の計画が立てられた。切手収集家らは、記念日をマークする記念切手を郵政省に嘆願した。数回にわたり拒否ののちに、ニュージャージーの国会議員で切手収集家であるアーネスト・アッカーマン(Ernest Ackerman)は、議会の多数派の指導者ジョン・Q・ティルソン(John Q. Tilson)の助力を得た[7]。 郵政長官[1971年まで]ハリー・ニュー(Harry New)は、モリー・ピッチャーの戦闘を特に認める記念切手を発行することを断固として拒否した。ティルソン宛ての電報のなかで、郵便局長ニュー(Postmaster New)は次のように説明した、「しかし、最後には、わたしは、『モリー・ピッチャー』('Molly Pitcher')の名前を帯びている、定期発行ワシントン2セント切手の1000万に訂正印を押すことを承諾している」("Finally, however, I have agreed to put a surcharged title on ten million of the regular issue Washington 2¢ stamps bearing the name 'Molly Pitcher'")[7]

    モリーは最後には、戦闘200周年記念で1978年に発行された郵便葉書に印刷された切手に描かれた[8]

    「モリー」("Molly")は、第2次世界大戦中にリバティー船『モリー・ピッチャー』(SS Molly Pitcher)の命名でさらに賞賛されたが、それは進水し、その後、1943年に魚雷で攻撃された。

    アメリカ国道11号線の、ペンシルベニア、シッペンスバーグと、ペンシルベニアーメリーランド州線との間の延伸は、『モリー・ピッチャー・ハイウェー』(Molly Pitcher Highway)として知られている。

    アメリカ合衆国陸軍の野戦砲兵隊および防空砲兵隊の支部は、モリー・ピッチャーの名の下の名誉協会 オナラブル・オーダー・オヴ・モリー・ピッチャー(Honorable Order of Molly Pitcher)を設立した。会員の身分は、セント・バーバラ(St. Barbara)の年次祭日の間に砲兵の妻らに授与されている。オーダー・オヴ・モリー・ピッチャー(Order of Molly Pitcher)は、野戦砲兵隊の発展に自発的にいちじるしく貢献した個人を賞賛している。

    米軍基地フォートブラッグには、家族のために兵器システム、空挺作戦、および野戦砲兵を披露する、「モリー・ピッチャーの日」("Molly Pitcher Day")という年中行事がある。

    その他編集

    モリー・ピッチャー・イン(Molly Pitcher Inn)は、モンマスの戦いの現場から遠くない、ニュージャージー、レッド・バンク(Red Bank)にあるホテルである。

    モリー・ピッチャー・サーヴィス・プラザ(Molly Pitcher Service Plaza)は、ニュー・ジャージー・ターンパイク・レスト・エリア(New Jersey Turnpike rest area)である。

    テネシー州は、女性古参兵に奉仕を賞賛する認可番号プレートを提供する、合衆国で(ウェストバージニアに先立って)2つめの州となった。そのプレートは、建国以来、戦闘中の女性らを認めて、モリー・ピッチャーを描いている。I-95(ニュー・ジャージー・ターンパイク)で、サーヴィス・エリアは、ニュージャージー、クランベリー・タウンシップ(Cranbury Township)のモリー・ピッチャー・サーヴィス・エリアと命名されている。

    AMC_(テレビ局)のテレヴィジョン・ショー『Turn: Washington's Spies』の、第2シーズン、エピソード9にモリー・ピッチャーへの言及がある。

    References編集

    1. ^ Will the Real Molly Pitcher Please Stand Up? Teipe, Emily J.
    2. ^ The Real Pennsylvania Dutch American, "Molly Pitcher"
    3. ^ a b Molly Pitcher – Original name: Mary Ludwig Hayes McCaauley - Find a Grave
    4. ^ a b c d e f Koestler-Grack, Rachel A. Molly Pitcher: Heroine of the War for Independence. Philadelphia: Chelsea House Publishers, 2006. 0-7910-8622-4.
    5. ^ a b c Rockwell, Anne They Called Her Molly Pitcher. New York: Alfred A. Knopf, 2002. 0-679-89187-0.
    6. ^ "Pitcher, Molly." Encyclopædia Britannica. 13 February 2007.
    7. ^ a b Hotchner, William M. (2008年8月25日). “The scandal surrounding the Molly Pitcher overprint stamp of 1928”. Linn's Stamp News (Amos Press Inc.): pp. 6 
    8. ^ United States Postal Cards UX77, multicolored, lithographed, issued September 8, 1978, in Freehold, New Jersey. Bicentennial of the Battle of Monmouth on June 28, 1778, and to honor Molly Pitcher (Mary Ludwig Hays)

    文献目録編集

    • Bilby, Joseph G., and Katherine Bilby Jenkins. Monmouth Court House: The Battle That Made the American Army. Yardley, PA: Westholme, 2010. 9781594161087 OCLC 495778701(英語)
    • Downey, Fairfax. 1956. "The Girls Behind the Guns". American Heritage. 8, no. 1: 46-48.(英語)
    • Bohrer, Melissa Lukeman. Glory, Passion, and Principle: The Story of Eight Remarkable Women at the Core of the American Revolution. New York: Atria Books, 2003. 0-7434-5330-1.(英語)
    • Raphael, Ray. Founding Myths: Stories That Hide Our Patriotic Past. New York: New Press, 2004. 1-56584-921-3. Raphael regards "Molly Pitcher" as a myth that serves to obscure the actual (though less dramatic) contributions of women to the war effort.(英語)
    • The Real Pennsylvania Dutch American, "Molly Pitcher" – A Documented History. 1-4685-1019-3.(英語)

    外部リンク編集