ユハン・クックエストニア語: Juhan Kukk VR英語版 III/1、1885年4月13日グレゴリオ暦[1]1942年12月4日)は、エストニア共和国の政治家。国家元首である国老(在任:1922年 – 1923年)を務めた。

ユハン・クック
エストニア国老
任期
1922年10月21日 – 1923年8月2日
前任者 コンスタンティン・パッツ
後任者 コンスタンティン・パッツ
リーギコグ議長
任期
1921年11月18日 – 1922年11月22日
前任者 オットー・ストランドマン
後任者 コンスタンティン・パッツ
個人情報
生誕 1885年4月13日
ロシア ロシア帝国エストニア県ケル英語版
死没 1942年12月4日
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国アルハンゲリスク州カルゴポリ
政党 エストニア労働党英語版

略歴編集

タルトゥ科学高校を卒業した後、1904年から1910年までリガ工業学校英語版の商業学部で学び、ドイツでさらなる教育を受けて卒業した。

1917年から1918年までエストニア州政府(1917年エストニア州議会選挙英語版も参照)の財務相を、1918年から1919年までエストニア臨時政府英語版の財務・国有財産相を、1919年から1920年までエストニア共和国の財務相を、1920年から1921年まで商務・工業相を、1921年11月18日から1922年11月22日までリーギコグ議長を[2]、1922年から1924年までエストニア銀行総裁を務めた。また、1920年から1926年までリーギコグ議員を務め、1922年10月から1923年8月までは国家元首たる国老を務めた。

協同組合を広めており、エストニア協同組合連合会会長(Chairman of the Council of the Estonian Cooperation Union)、エストニア消費者組合中央連合会総裁(Director of the Central Union of the Estonian Consumers Union)などを歴任した。

1940年にソビエト連邦内務人民委員部に逮捕され、1942年に獄死した。

勲章編集

出典編集

  1. ^ "Siseministeeriumi loomise lugu 1918–1920" (PDF) (エストニア語). Ministry of Internal Affairs. p. 2. 2012年4月19日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2013年6月8日閲覧
  2. ^ "Riigikogu juhatus". Riigikogu (エストニア語). 2019年10月27日閲覧

参考文献編集

  • Ülo Kaevats et al. 2000. Eesti entsüklopeedia 14. Tallinn: Eesti Entsüklopeediakirjastus, 978-9985-70-064-8

外部リンク編集

公職
先代:
オットー・ストランドマン
リーギコグ議長
1921年 – 1922年
次代:
コンスタンティン・パッツ
先代:
コンスタンティン・パッツ
エストニア国老
1922年 – 1923年
次代:
コンスタンティン・パッツ