ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
Socijalistička Federativna Republika Jugoslavija[※ 1][※ 2]
Социјалистичка Федеративна Република Југославија[※ 3]
1943 - 1992 ユーゴスラビア連邦共和国
ボスニア・ヘルツェゴビナ
マケドニア共和国
クロアチア共和国 (1990年-1991年)
スロベニア
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国旗 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国章
国旗 国章
国の標語: Bratstvo i jedinstvo
兄弟愛と統一
国歌: スラヴ人よ
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の位置
ヨーロッパにおけるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の位置
公用語 セルビア・クロアチア語[※ 4]スロベニア語マケドニア語
首都 ベオグラード
大統領
1945年 - 1953年(初代) イヴァン・リヴァル
1953年 - 1980年 ヨシップ・ブロズ・ティトー
1991年 - 1992年(最後) スティエパン・メシッチ
首相
1945年 - 1953年(初代) ヨシップ・ブロズ・ティトー
1989年 - 1991年(最後) アンテ・マルコヴィッチ
面積
1982年 256,000km²
1989年7月 225,804km²
人口
1977年 21,560,000人
1982年 22,638,000人
1989年7月 23,724,919人
変遷
建国宣言 1943年11月29日
国際連合加盟 1945年10月24日
解体 1991年6月25日 - 1992年4月27日
通貨 ユーゴスラビア・ディナール
時間帯 UTC 中央ヨーロッパ時間DST: 中央ヨーロッパ夏時間
ccTLD .yu
国際電話番号 +38
先代 次代
ユーゴスラビア王国 ユーゴスラビア王国
トリエステ自由地域 トリエステ自由地域
ナチス・ドイツ ナチス・ドイツ
クロアチア独立国 クロアチア独立国
セルビア救国政府 セルビア救国政府
イタリア王国 イタリア王国
アルバニア王国 (近代) アルバニア王国 (近代)
ブルガリア王国 (近代) ブルガリア王国 (近代)
ハンガリー王国 (1920-1946) ハンガリー王国 (1920-1946)
モンテネグロ独立国 モンテネグロ独立国
ユーゴスラビア連邦共和国 ユーゴスラビア連邦共和国
ボスニア・ヘルツェゴビナ ボスニア・ヘルツェゴビナ
マケドニア共和国 マケドニア共和国
クロアチア共和国 (1990年-1991年) クロアチア共和国 (1990年-1991年)
スロベニア スロベニア
  1. ^ ラテン文字による表記。ユーゴスラビアにおいて、ラテン文字はスロベニア語、およびセルビア・クロアチア語の西部標準形で用いられた
  2. ^ スロベニア語における「社会主義」を意味する形容詞は「Socialistična」であり、「Socijalistička」とは異なる。
  3. ^ キリル文字による表記。ユーゴスラビアにおいて、キリル文字はマケドニア語、およびセルビア・クロアチア語の東部標準形で用いられた
  4. ^ 統一されていたセルビア・クロアチア語は、ユーゴスラビア解体以降、セルビア語クロアチア語ボスニア語に分かれた。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国[* 1](ユーゴスラビアしゃかいしゅぎれんぽうきょうわこく、セルビア・クロアチア語セルビア語クロアチア語ボスニア語スロベニア語[* 2]マケドニア語:Socijalistička Federativna Republika Jugoslavija[* 3] / Социјалистичка Федеративна Република Југославија[* 4])は、第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビア社会主義国家

目次

概要編集

マケドニア社会主義共和国セルビア社会主義共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国クロアチア社会主義共和国スロベニア社会主義共和国モンテネグロ社会主義共和国の6つの国家からなる連邦国家であった。1992年までにセルビアとモンテネグロを残して連邦を離脱し、残された2国は新たにユーゴスラビア連邦共和国を結成し、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国はその歴史に幕を閉じた。ユーゴスラビア連邦共和国は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家であると主張したものの、アメリカ合衆国をはじめ主要各国からその主張は認められなかった。

2008年以降、かつてユーゴスラビアであった地域には、マケドニア共和国セルビアボスニア・ヘルツェゴビナクロアチアスロベニアモンテネグロの6つの国際連合加盟国、およびコソボがある。なお、コソボはもとはセルビアの自治州であるが、コソボの国家承認を行っていない国々からは、今もなおセルビアの自治州であるとみなされている。

第二次世界大戦前のユーゴスラビア王国の領域を元に結成され、1943年ユーゴスラビア民主連邦として建国を宣言した。1946年にはユーゴスラビア連邦人民共和国[1]として正式に国家として歩み始め、1963年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称された。

ヨシップ・ブロズ・チトーの指導の下、ユーゴスラビアは冷戦下において中立政策を維持し、第1回非同盟諸国首脳会議の開催国となるなど、非同盟諸国のなかで中核的な役割を果たした。

1980年代から1990年代民族主義の伸張によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は民族間の不一致が進行し、民族間の不調和と分断、暴力を伴った異民族排斥の流れが進んだ[2] 。その後には、ユーゴスラビア連邦は解体へと進み、ユーゴスラビアからの離脱や新しい国の枠組みをめぐって異民族に対する憎悪が噴出し、大規模な暴力を伴う一連のユーゴスラビア紛争へと発展した。

領土編集

ユーゴスラビア王国同様に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国はイタリアオーストリアと北西で、ハンガリーと北東で、ルーマニアおよびブルガリアと東で、ギリシャと南で、アルバニアと南西で国境を接し、西にはアドリア海に面している。

もっとも目立ったユーゴスラビア王国との領土の違いとしては、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、1954年に隣接するトリエステ自由地域オージモ条約によって解体されたのに伴って、南部のユーゴスラビア軍の管理下にあった「B地区」に属する515.4平方キロメートルを領土としたことである。

1991年から1992年にかけて、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の領土は、スロベニアクロアチアマケドニア共和国、そしてボスニア・ヘルツェゴビナの独立によって大幅に減少した。これらが独立した後も、ユーゴスラビア軍はクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの一部に留まって占領を続けた。1992年、依然連邦に留まっていた2つの国セルビア共和国モンテネグロ共和国は連邦を維持することを決定し、ユーゴスラビア連邦共和国を結成した。

歴史編集

建国編集

第二次世界大戦中、ユーゴスラビアはナチス・ドイツイタリア王国などの枢軸国の支配下に置かれていた。枢軸側との戦いを進めていた共産主義者のパルチザンたちは、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議AVNOJ)の会合をボスニア・ヘルツェゴビナヤイツェJajce)にて1943年11月29日から12月4日まで行った。ユーゴスラビア民主連邦は、このときのAVNOJの会合にて制定されたものである。一方で、枢軸国から逃れていた王党派のユーゴスラビア王国亡命政権との交渉も続けられた。ユーゴスラビアのパルチザンたちは、ゲリラ戦を主体として、第二次世界大戦における枢軸国との苛烈な戦争を戦い抜いた。ナチス・ドイツが1945年に降伏すると、パルチザンたちはユーゴスラビア全域の支配権を確立した。1945年11月29日、ベオグラードで結成された共産主義者主導による内閣の初の閣議によって、ユーゴスラビア連邦人民共和国は連邦国家として制定された。1946年1月31日、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められた[1]。ユーゴスラビア連邦の初代首相にはヨシップ・ブロズ・チトーが選ばれ、大統領にはイヴァン・リバルIvan Ribar)が選出された。1953年、チトーは大統領に選出され、1974年からは終身大統領となった。

このときのチトーともっとも近しい政治家は、エドヴァルド・カルデリEdvard Kardelj)、アレクサンダル・ランコヴィッチAleksandar Ranković)、ミロヴァン・ジラスMilovan Đilas)であった[3]

親ソ連時代編集

ユーゴスラビアが建国されたころ、世界は冷戦に突入していた。冷戦の初期において、ユーゴスラビア連邦は、ヨシフ・スターリンの指揮下にあるソ連と手を組み、1946年8月9日と8月16日にはユーゴスラビアの領空を飛行していたアメリカの航空機を撃墜した。これらは冷戦期において初めての西側諸国の航空機の撃墜であり、アメリカはチトーに対して強い不信感を持ち、アメリカは軍に対してユーゴスラビア侵攻を求めた[4][5]。しかし、ユーゴスラビアとソ連の盟友関係にもかかわらず、スターリンもまたチトーに対して不信感を持ち、それぞれ互いの手法に同意しなかった[4]。ユーゴスラビアは、当時スターリンが唱えていた一国社会主義を支持していた周辺の他東側諸国とは異なり、国境を越えた国際的な革命(国際社会主義希求組織)を組織し、ユーゴスラビアの人々はチトーがふさわしい指導者であり英雄であると見ていた。このことは、故トロツキーにより唱えられていた国際共産主義を思い起こさせ、政敵・故レーニン後継者レース勝者であったスターリンを大きく苛立たせていた。スターリンは、ソ連が全ての東側諸国を支配することを望んでいた[4]。チトーとスターリンの不和は、ユーゴスラビアの経済をソ連や他の東側諸国と結びつけることをチトーが拒否したことによって、いっそう高まっていった。ソ連のプロパガンダ映画製作者たちが、ユーゴスラビアのレジスタンスを描いた映画を作製し、その中でのチトーの果たした役割を矮小化したことが明らかになるに至り、チトーとスターリンの関係は終わった[4]。しかし、映画製作に関連したこの状況は、映画製作者らがソ連のスパイであったことが明らかになった時点でさらに悪化した。このことにチトーは激怒し、1948年、ユーゴスラビアとソ連の危機はスターリンからの最終警告が発されて緊張感が高まった。最終警告では、ユーゴスラビアはソ連の衛星国であったブルガリア人民共和国と直ちに連邦を結成することを求めていた。チトーは自国の独立を損ねるこの求めを拒絶し、スターリンはこれに対してユーゴスラビアの共産主義者をコミンフォルムから追放することで応じた。これによって、ユーゴスラビアとソ連の残されていた関係は全て絶たれた。

土地改革が導入され、多くの人々が土地を獲得した。収穫量の80%の固定価格での強制買取は少なくなった[6]。議会では、農民の利益はドラゴリュブ・ヨヴァノヴィッチ(Dragoljub Jovanović)の手によって守られていたが、ヨヴァノヴィッチは後に逮捕された[7]

ソ連との決別後編集

ソ連の勢力圏と決別してから、ユーゴスラビアでは独自の共産主義社会の構築をはじめ、ティトー主義Titoism)と呼ばれるようになった。チトー主義の政府の指導の下、一定の自由市場経済が認められ、はじめ市場社会主義と呼ばれた。また、ユーゴスラビアはまたワルシャワ条約機構への加入を拒否し、冷戦下において中立の立場をとることになった。ユーゴスラビアは、インドエジプトインドネシアなどとともに、非同盟運動の創設メンバーのひとつとなり、アメリカに対する対決姿勢をとらない中道左派の政策を採り続けた。

ソ連との決別は、ただちに抑圧の終わりを意味するものではなかった。むしろ、ソ連との決別はスターリンに同調的とされた者たちに対する新しい抑圧の嵐を巻き起こした。彼らは、再教育の場とされたゴリ・オトク島(Goli Otok、「不毛の島」)に送られた[8]

ユーゴスラビアの経済は市場社会主義の下で、比較的、自律的であった[2]。共産主義者の政府は私有の自動車会社ザスタバの操業を続けることを認め、ザスタバは国際的に有名な自動車ザスタバ・コラルZastava Koral、広く「ユーゴ」として知られる)を生み出した。1960年代初頭、ユーゴスラビアの経済は繁栄し、外部から見て、ユーゴスラビアの人々はソ連やワルシャワ条約機構の国々よりもはるかに自由であることが知れるところとなった[2][9]

チトーの指導の下、ユーゴスラビアの標語でありそして政治概念である「兄弟愛と統一」は、民族間の緊張緩和のために国家の要として導入された[2]。「兄弟愛と統一」は、「ユーゴスラビア人」(南スラヴ人)は民族的に同質であり、外国による支配の下で単に宗教によって分けられていたに過ぎないものであるとする概念であった。ユーゴスラビアの人々は、ユーゴスラビア王国時代、そして第二次世界大戦下において、民族間の緊張によって分断されていた。ユーゴスラビア王国は、セルビア人主体の、セルビア人の王家の下での国家であった。王国時代、クロアチア人ボシュニャク人ムスリム人)の政治家らの中には、セルビア人による多数派を維持するために彼らをセルビア人に同化しようとするものだとして、セルビア人主体の国家運営に反発していた。彼らは時としてセルビア人たちに対して暴力的な反発を見せ、国王アレクサンダル1世の暗殺へとつながった。第二次世界大戦では、ユーゴスラビアはナチス・ドイツイタリア王国、その他の枢軸国によるユーゴスラビア侵攻によって破壊された。ナチスとイタリアのファシストらはウスタシャが支配するクロアチア独立国をつくり、クロアチア独立国はセルビア人を大規模に虐殺した。また、アルバニア人のファシストは、イタリア軍の支援の下、当時イタリアの保護国となっていたアルバニアやコソボで兵員を集め、セルビア領のコソボの奪取と当地のセルビア人追放を試みた。これに対して、セルビア人の王党派はクロアチア人やボシュニャク人、アルバニア人に対して、セルビア人が受けた損害に対する復讐を求めて虐殺などを行った。これらの民族間の緊張を解消するため、終戦の後、チトーが推進した「兄弟愛と統一」では、いかなる民族も、ひとつの民族だけでユーゴスラビアの中で支配的な立場を築くことができない体制を目指した。また、「兄弟愛と統一」のもうひとつの側面はより現実的なもので、これによって、特定民族の立場からの不満の訴えに対して、これを受け入れたり交渉することを共産主義政権は拒絶した。特定民族の立場からの不満の訴えに対しては、投獄や処刑で応じることが一般的であった。

1960年代初期の問題は、経済的に矛盾のない「政治的な」生産体制の確立と、共産主義政権の内部に生じた一層の地方分権化を求める勢力の拡大であった[10]。これらの勢力は、アレクサンダル・ランコヴィッチ(Aleksandar Ranković)周辺の勢力と対峙した[11]1966年、分権派の勢力(スロベニアのエドヴァルト・カルデリ Edvard Kardelj、クロアチアのヴラディミル・バコリッチ Vladimir Bakarić、セルビアのペタル・スタンボリッチ Petar Stambolićなどがその中心)はチトーの支持を取り付けた。クロアチアのブリユニで行われた党会合で、ランコヴィッチは、入念に準備された非難の訴状と、ランコヴィッチが権力奪取のために結社を組織したとのティトーによる批判に直面した。ランコヴィッチは全ての党の役職を退くことを余儀なくされ、ランコヴィッチの支持者らも党から追放された[12]

1971年、「クロアチアの春」として知られる大規模なクロアチア人による抗議行動が起こった。抗議行動では、ユーゴスラビアの権力構造をセルビア人が独占しようとしているとして政府を非難した[13]。クロアチアの出身であるチトーは、これに対して硬軟両面の対処を取った。抗議行動に参加して民族主義を訴えた多数のクロアチア人を逮捕する一方で、同種の危機の再発を避けるための改革をはじめる政策を打ち出した[14]。ユーゴスラビア国外に逃れていたウスタシャの同調者らはユーゴスラビアでテロやゲリラを通じて分離主義を煽ろうと試みたが[15]、この試みは失敗に終わり、むしろ支持母体であったユーゴスラビアのカトリック教徒たちの反発を招いた[16]

1974年、新しい連邦憲法が批准され、連邦を構成する共和国に対してより強大な権限を認めた。1971年の「クロアチアの春」騒動の目的は基本的に達成された。新しい憲法の条項のひとつでは、憲法によって制約をつけられてはいるものの、それぞれの構成共和国が、連邦からの独立を宣言する権利を認めていた。また、新しい憲法ではセルビアの領内に、構成共和国とほぼ同等の権限を持つコソボ自治州ヴォイヴォディナ自治州を設け、事実上セルビアを分断した。コソボではアルバニア人が多数派となっており、またヴォイヴォディナではセルビア人が多数ではあったもののマジャル人をはじめとする多くの少数民族が混在している。この1974年の改革は概ね、それぞれの共和国、とくにクロアチアの要求や、セルビア領内のアルバニア人やヴォイヴォディナの少数民族たちの要求に応じるものであった。しかし、1974年の憲法はセルビア人からの強い反発を招いた。セルビア人の共産主義者らは改革に反発し、セルビア人たちはこの改革に対して大きく不信感を持った。多くのセルビア人たちは、この改革を、クロアチア人やアルバニア人の民族主義者への譲歩と受け取った。セルビア領内の少数民族地域には構成共和国と同等の地位を持った自治州が設置された一方で、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人地域には同種の自治州は設置されることはなく、また連邦政府がマケドニア人モンテネグロ人セルビア人とは異なる民族として認めたことに対してもセルビア人の民族主義者らは強い不快感を持った。セルビア人の民族主義者らは、マケドニア人やモンテネグロ人が本当に存在していることを示せるような、彼らをセルビア人と区別する民族的・文化的な要因はないと主張した。

チトーの死後と連邦の解体編集

1980年5月5日、チトーは没し、その死は公営放送によってユーゴスラビア全土に伝えられた。チトーの体調が次第に悪化していたことは以前より知られていたものの、その死はユーゴスラビアにとって衝撃的であった。チトーは第二次世界大戦における反ファシズム闘争の英雄とみなされており、戦後のユーゴスラビアの指導的な人物でありユーゴスラビアの象徴であった。チトーを失ったことでユーゴスラビアは一変し、多くの人々がその死を悲しんで泣いた。スプリトのサッカー競技場では、セルビア人とクロアチア人によるサッカーの試合が行われていたが、チトーの死が伝えられると皆、動きを止めて、賛歌「同志チトー、われらはあなたの道を離れないことを誓う(Druže tito Mi Ti Se Kunemo)」を歌った[17]

チトーの葬儀はユーゴスラビアの国を挙げて行われ、その棺はベオグラードに埋葬される前に鉄道によってユーゴスラビア各地を回り、多数の人々が国内を巡回するチトーの棺を見に集まった[18]。棺を見に訪れた人々や、葬儀の参加者の中には、共産主義者同盟に動員された者も含まれているが、大多数は動員とは無関係に、自発的にチトーの死を悲しんで訪れた人々であった[19]

チトーの死後、1980年代のユーゴスラビアでは、それぞれの構成共和国や自治州の共産主義指導者による集団指導体制がとられた[2]

チトーが死去したとき、ユーゴスラビア連邦政府の首班であったのは大統領のヴェセリン・ジュラノヴィッチVeselin Đuranović、1977年より在任)であった。ジュラノヴィッチは、外国からの債務の増大によるユーゴスラビアの国家予算の削減をめぐって、各共和国の指導者たちと対立していた。ジュラノヴィッチはチトーが国家の威信のために拒絶していた通貨の切り下げについて議論した[20]

チトー後の1980年代のユーゴスラビアは、債務の額の増大に直面していたが、ユーゴスラビアとアメリカや、アメリカ主導の「ユーゴスラビアの友邦たち」との良好な関係によって、1983年1984年にユーゴスラビアは債権放棄を受けることができた。しかし、その後も1990年代に連邦が解体されるまでの間、経済問題は続いた[21]

ユーゴスラビアは1984年サラエボで行われた1984年冬季オリンピックの開催国となった。ユーゴスラビアにとってこの大会は、多民族が結束してひとつのチームを組む、チトーの目指した「兄弟愛と統一」の理想が維持されていることを内外に示すものとなった。そして、ユーゴスラビアはソ連によるモスクワオリンピックに次いで、2国目のオリンピックを開催した共産主義国となった。その上、モスクワオリンピックでは西側諸国はボイコットしたものの、サラエボオリンピックでは西側諸国も参加している。

1980年代後半に入ると、ユーゴスラビア政府は共産主義の道から離れ、首相アンテ・マルコヴィッチAnte Marković)の主導のもと、市場経済を目指すようになる。マルコヴィッチは「ショック療法」戦略と称し、ユーゴスラビア経済の民営化を進めた。マルコヴィッチは、連邦を自由経済化、民主化へと移行させるもっとも有能な政治家として人気を得た。しかしながら、ユーゴスラビアが解体を始めた1990年代、マルコヴィッチの政策は未完のまま終わった。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体編集

 
セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領。セルビア人の統一とコソボの自治権廃止を強烈に推し進め、民族間の緊張を高める結果となった。
 
スロベニアのミラン・クチャン大統領。コソボの自治権維持のために尽くし、ミロシェヴィッチと対決する姿勢をとった。コソボのアルバニア人に対する迫害に衝撃を受けたのもその理由のひとつであったが、その姿勢をとることによってスロベニア国内の共産主義者からの支援を得ることも大きな目的であった[22]。クチャンは1991年、スロベニアを独立に導いた。
 
クロアチアのフラニョ・トゥジマン大統領。セルビアとの統一を望んだクロアチア国内のセルビア人による自治要求を拒んだ。それによって、クロアチアの独立に際してクロアチア国内でクロアチア人とセルビア人の間での暴力的衝突に発展した。
 
ボスニア・ヘルツェゴビナのアリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領。ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を後押しし、ボスニアが大セルビアの一部となることを認めないと主張した。ボスニア・ヘルツェゴビナの独立は、ユーゴスラビアへの残留を求めるセルビア人の意に反するものであり、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。
 
ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人共和国(スルプスカ共和国)のラドヴァン・カラジッチ大統領。セルビア人の住む土地がユーゴスラビアから切り離されるのを阻止する攻撃的な政策を採り続けた。ボスニアのセルビア人武装勢力は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争においてジェノサイドをはじめとする数多くの蛮行を働き、カラジッチはそれを指示・支援したとされている。

1980年-1989年編集

チトーの死後、民族主義は再びユーゴスラビアで勢力を増した[2]。特に、コソボにおいてアルバニア人とセルビア人の間で緊張が高まった[2]。これに、コソボの経済問題が加わり、セルビア人たちはセルビア政府に対して、1974年のコソボの自治権付与を撤回するよう求めた。一方で、1980年代、コソボのアルバニア人たちは、1974年憲法によって与えられた自治州としての地位から、セルビアなどと完全に対等でユーゴスラビア連邦からの離脱権も持った共和国の地位に格上げすることを求めていた[2]。セルビア人にとって、コソボがセルビアの一部でなく連邦の構成共和国となることは、セルビアのコソボにおける歴史的・民族的・文化的なつながりを奪われることになる。もしコソボが連邦からも離脱することになれば、その喪失感はより一層大きいものになる。1987年、セルビアの共産主義指導者であるスロボダン・ミロシェヴィッチは、アルバニア人主導のコソボ州政府に対するコソボのセルビア人の抗議運動を沈静化するためにコソボに送られた。ミロシェヴィッチはかつては強固な共産主義の守護者であり、あらゆる民族主義は裏切り行為であるとして非難していた。ユーゴスラビアはクロアチア人等に牛耳られており、セルビア人は抑圧されていると主張する「セルビア科学芸術アカデミーの覚書」に対してもミロシェヴィッチはこれを非難し、「暗黒の民族主義以外の何物でもない」と切り捨てた[23]。しかし、コソボの自治権は、セルビアでは常に不快なものとして嫌われ続けており、ミロシェヴィッチはこの状況を利用して支持を集めるため、それまでの伝統的な共産主義者としてのコソボ問題に関する中立性を放棄した。ミロシェヴィッチはセルビア人たちに対して、「アルバニア人によるセルビア人への迫害は止められるべし」と約束した[2]。ミロシェヴィッチは、セルビアやユーゴスラビアの伝統的な共産主義の指導者たちを非難し、コソボおよびヴォイヴォディナの自治権縮小を求めた。これらの動きによってミロシェヴィッチはセルビア人の間で大きな人気を獲得し、ミロシェヴィッチはセルビアの指導者の地位を獲得した。ミロシェヴィッチとその同調者たちは、ユーゴスラビアの枠内で奪われたセルビアの力を取り戻すとして攻撃的な民族主義政策をとり、セルビアとセルビア人を守ることを約束した[2]1988年の集会で、ミロシェヴィッチはユーゴスラビアの中でセルビアの置かれた立場について、自身の見解を明確に語った。

「祖国でも異国でも、セルビアの敵は束になって我らに立ちはだかっている。彼らに対して伝えよう、『我らは恐れていない』、『我らは戦いを辞さない』と! — スロボダン・ミロシェヴィッチ1988年11月19日[24]

また別のとき、ミロシェヴィッチは個人的に次のように語った。

我々セルビア人は、セルビアの利益のために、合憲・違憲の別に関わらず、合法・違法の別に関わらず、党則に従う・従わないの別に関わらず、あらゆる行動をとる。 — スロボダン・ミロシェヴィッチ[25]

セルビアとモンテネグロで発生した「反官憲革命」と呼ばれる一連の反乱によって、ミロシェヴィッチおよび、ヴォイヴォディナ、コソボ、モンテネグロにおけるミロシェヴィッチの同調者たちがそれぞれ権力の座についた。ミラン・クチャン率いるスロベニアは、このミロシェヴィッチの一派による「反官憲革命」に強く反発し、1988年にこの「革命」を非難するメディア・キャンペーンを展開した。スロベニアの国営新聞はミロシェヴィッチをイタリアのファシスト独裁者ベニート・ムッソリーニと比較する記事を掲載した。ミロシェヴィッチは、これらの批判には根拠がなく、「セルビアに対する恐怖を煽るものだ」として非難した[26]。ミロシェヴィッチの支配下となったセルビアの国営メディアは、クチャンがスロベニアとコソボの分離主義を扇動しているとする主張によって、スロベニア側の動きに応じた。

1989年編集

1989年2月、コソボ代表のアルバニア人アゼム・ヴラシ(Azem Vllasi)が排除され、ミロシェヴィッチの同調者に取って代わられた。コソボのアルバニア人らはヴラシの地位を回復することを求めて抗議行動をし、ヴラシはこの抗議行動を支持した。これに対してミロシェヴィッチとその支持者らは、セルビアやユーゴスラビアに対する反動革命であるとし、ユーゴスラビア政府に対して抗議行動をするアルバニア人を武力で制圧するよう求めた。ミロシェヴィッチのもくろみどおりに、ベオグラードのユーゴスラビア議会の外では、ミロシェヴィッチを支持するセルビア人らによる抗議行動が行われた。この抗議行動は、ユーゴスラビア軍がコソボに入り、セルビア人を保護しアルバニア人の抗議行動を鎮圧することを求めるものであった。2月27日、ユーゴスラビアの大統領評議会のスロベニア代表ミラン・クチャンは、セルビア人らの要求に反対してベオグラードを去り、ヴラシの地位を復することを求めたアルバニア人の抗議運動を公然と支持した[2]1995年に放送された英国放送協会(BBC)のドキュメンタリー「ユーゴスラビアの死」によると、1989年、セルビアとその両自治州、そしてモンテネグロでのミロシェヴィッチによる「反官憲革命」の成功にクチャンは懸念を持ち、コソボでの動きを食い止められなければ、クチャンの率いる小国がミロシェヴィッチ支持者による次の標的となるだろうと指摘した。セルビアの国営放送はクチャンを分離主義者、裏切り者、コソボ分離主義の支持者であるとして非難した[2]

ベオグラードでは、コソボへの介入を求めるセルビア人による抗議行動が続いた。ミロシェヴィッチは、大統領評議会のセルビア代表ペタル・グラチャニン(en:Petar Gračanin)に対して、コソボ問題について議論をしている間、抗議運動を途切れさせないよう命じた。これによって、コソボのアルバニア人の運動を鎮圧するよう求めるミロシェヴィッチの側に多くの支持があることを印象づけ、他の評議会のメンバーたちに同意圧力をかけることを狙っていた。セルビア議会の議長でミロシェヴィッチの強力な盟友であったボリサヴ・ヨヴィッチ(Borisav Jović)は、ユーゴスラビア大統領評議会の議長であるボスニア・ヘルツェゴビナ代表のライフ・ディズダレヴィッチRaif Dizdarević)に会い、ユーゴスラビア連邦政府がセルビア側の要求に従うよう求めた。ディズダレヴィッチはヨヴィッチとの話し合いの中で、「あなたたち(セルビア人の政治家)がデモを組織し、あなたがたがこれをコントロールしている。」と指摘した。ヨヴィッチは抗議行動への関与を否定した。ディズダレヴィッチは抗議運動の参加者たちとの対話を通じて事態を自ら沈静化するよう試みた。ユーゴスラビアの統一を訴え、ディズダレヴィッチは次のように演説した:

我らの父祖たちはユーゴスラビアを建国するために死んだ。我らは民族対立の道へ歩みだしてはならない。我らは兄弟愛と統一の道を行く。 — ライフ・ディズダレヴィッチ、1989年[24]

この声明によって、ディズダレヴィッチは大きな賞賛を受けたものの、セルビア人による抗議運動はなおも続いた。ヨヴィッチはセルビア人の抗議者らに対して情熱的に呼びかけ、ミロシェヴィッチが抗議運動の支援に訪れると告げた。ミロシェヴィッチが到着すると、抗議者らに対して賞賛の意を持って呼びかけ、セルビアの人々が旧来の官憲に対して勝利を収めつつあると述べた。群集の中からは、「ヴラシを逮捕しろ!」との叫び声があがった。ミロシェヴィッチはその声をはっきりと聞こえなかったかのように振舞ったが、群集らに対して、ユーゴスラビアの統一を阻害するいかなる者も逮捕され、処罰を受けると述べた。翌日、党評議会はセルビアの要求を受け入れ、ユーゴスラビア軍はコソボに送られ、ヴラシは逮捕された。

ヴラシの逮捕に続いて、ミロシェヴィッチを支持してヴラシを引きずりおろす動きに加わったコソボのセルビア人たちは、「真実の集会」(en)のためにスロベニアに向かい、クチャンをユーゴスラビアに対する裏切り者として非難し、その退陣を迫るとした[2]。セルビア人の抗議者たちは鉄道でスロベニアに向かったが、クロアチアが国境の移動を封鎖し、抗議者たちがスロベニアに向かうのを阻んだ。

1990年編集

セルビア人の抗議者がスロベニアに向かうのをクロアチアが阻止したことによって、1990年の共産主義者同盟の会合では政治的危機に直面した。ミロシェヴィッチ支配下のセルビアはセルビア人の権利を強く主張し、共産主義者同盟の会合における党員1人1票の制度を求めた[2]。数の上で多数を占めるセルビア人は、1人1票制度によって大きな力を得ることになる。スロベニアとクロアチアはこの動きに反対したものの、セルビアとモンテネグロの代表者らは、スロベニアによる改革案すべてに反対票を投じることでスロベニアに圧力をかけ、新しい投票方式を認めるよう迫った。スロベニアとクロアチアの代表者らはこれを拒否し、共産主義者同盟を去ることを宣言した。その後、共産主義者同盟は崩壊し、ユーゴスラビアの全ての構成国で複数政党制が導入された[2]

1990年以降、ユーゴスラビアのそれぞれの構成共和国で複数政党制による選挙が行われ、共産主義の諸政党は選挙での勝利を収めることができず、政権の座を降りた。代わってほとんどの共和国では民族主義に基づいた勢力が政権を掌握した。各共和国の新しい政府は、ユーゴスラビア内外の自民族を守ることを約束した。クロアチアでは、民族主義者のフラニョ・トゥジマンが政権を握り、クロアチアをミロシェヴィッチから守ると約束した[2]。トゥジマンはその著書によって多くの批判のある民族主義者である。トゥジマンの著書の中では、第二次世界大戦においてウスタシャに殺害されたユダヤ人セルビア人の死者の数を他の説よりも少なくしていた。

クロアチアに住むセルビア人たちはトゥジマンによる民族主義者の政府を嫌い、1990年クニンにてクライナと称する分離主義的な地域政府を組織した。クライナの政府は、クロアチアがユーゴスラビアから分かれるならばクライナはクロアチアから分離してセルビアとともにユーゴスラビアに留まることを求めていた。セルビア政府は、クロアチアのセルビア人による分離主義運動を支持し、セルビア人にとってトゥジマン政権はファシストのクロアチア独立国に等しいと主張した。クロアチア独立国は、第二次世界大戦中にファシストのウスタシャによって支配され、多くのセルビア人を殺害したナチスの傀儡国家である。ミロシェヴィッチは、トゥジマンをクロアチア独立国に関連づける論法を、クロアチア政府に反発するセルビア人の運動を支援する上で用い、セルビアの新聞は、2百万のセルビア人たちが、いかにクロアチアと戦うために備えができているかを書き始めた[27]。クニンのセルビア人たちは、トゥジマンが支配するクロアチア政府に対する反乱を成功させるために、現地の警察官ミラン・マルティッチMilan Martić)の指導に従って、武器の入手ルートの確保を試みた。クニン市長をはじめとするクロアチアのセルビア人政治家らは1990年8月、ユーゴスラビア議会の議長となったボリサヴ・ヨヴィッチに会い、クロアチアのユーゴスラビアからの分離阻止のための行動を連邦議会にとらせるよう求めた。彼らは、トゥジマンの民族主義政権下でセルビア人が危険にさらされると主張した。会合では、軍の指揮官であるペタル・グラチャニンはクロアチアのセルビア人政治家らに対して、分離運動を組織し、バリケードを築き、あらゆる武器を結集する術を伝え、「もし他の武器を集められないのならば、猟銃を使うように」と伝えた。クロアチアのセルビア人による蜂起は「丸太革命」と呼ばれた。これは、彼らが木を切り出して道路を封鎖し、クロアチア人たちがクニンに入るのを阻止し、クロアチア沿岸部(ダルマチア地方)との交通路を遮断したことによる。BBCのドキュメンタリー「ユーゴスラビアの死」では、このときクロアチアのテレビ局は「丸太革命」を「酔いどれのセルビア人が、深刻な問題を矮小化させようとしている」として非難した。しかし、封鎖によってクロアチアの観光業は大きく損害を受けた。クロアチア政府はセルビア人の分離主義者との交渉を拒否し、武力をもってこの動きを鎮圧すると決定した。クロアチアは、反乱の鎮圧のために、武装した特殊部隊をヘリコプターで送った。しかし、彼らがクニンに装備を持ち込もうとしたところ、ユーゴスラビア空軍が妨害に現れ、ヘリコプターの進入を阻むために戦闘機が来て、基地に戻らなければ撃墜すると警告したと、ヘリコプターのパイロットたちは述べた。クロアチア人たちはザグレブの基地に戻ることを余儀なくされた。クロアチア政府から見れば、ユーゴスラビア空軍によるこの動きは、ユーゴスラビア政府がセルビア人による反乱を支援していることを明らかにしたものであった。

1990年12月、スロベニアで住民投票が行われ、住民の大多数はスロベニアの独立を支持した。セルビアは、いかなる保障もユーゴスラビア中央銀行の許可もないまま、18億ドル相当の紙幣を印刷した[28]。これによって、ユーゴスラビア解体の初期段階が始まった。

1991年編集

1991年初頭、クニンでの危機とともに、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、スロベニアで選挙によって独立寄りの政府が誕生した。スロベニアは住民投票に従っての独立を求めた[2]。クロアチアでは戦闘が発生していた。また、クロアチアの独立路線も明確化してきた。ユーゴスラビアは切迫した崩壊の危機に直面していた。ヨヴィッチは緊急議会を召集し、この中でヨヴィッチとユーゴスラビア軍の参謀総長ヴェリコ・カディイェヴィッチは共同で、国家を破壊する企てが進行中であるとして、次のように述べた:

ユーゴスラビアを破壊するための卑劣な計画が作り上げられている。その第一段階は内戦であり、第二段階は外国の介入である。そして傀儡政権がユーゴスラビア各地に作られる — ヴェリコ・カディイェヴィッチ、1992年3月12日[29]

この声明は、独立を志向する各共和国の政府は西側諸国の手先であり、排除されなければならないということを意味している。クロアチア代表のスティエパン・メシッチはこれに怒って反発し、ヨヴィッチとカディイェヴィッチは大セルビアを実現するために軍の力を使おうとしているとし、「それは戦争だ」と非難したヨヴィッチとカディイェヴィッチは各共和国の代表者らに戒厳令に賛成するよう求め、戒厳令なしではユーゴスラビアは崩壊するだろうとした。この会合では、クロアチアでの危機を終わらせるために、セルビア人を守るための軍事行動をとることを認めさせるための、戒厳令の実施の可否を問うた。採決では、ボスニア代表のセルビア人の反対によって否決された。ボスニア代表は、武力によらない平和的解決の可能性はまだ残されているとして、戒厳令に反対した。評議会はその後まもなく閉会された。ヨヴィッチが大統領評議会の議長としての任期を終えるとヨヴィッチは、次の議長となったクロアチア人のスティエパン・メシッチを妨害し、代わりにミロシェヴィッチに近しいモンテネグロ政府のブランコ・コスティッチ(Branko Kostić)を議長の座にすえた。

1991年5月、クロアチアの独立を問う住民投票が実施された。クロアチア人の多数はユーゴスラビアからの独立を支持する一方、クロアチアに住むセルビア人たちは投票をボイコットした[2]。スロベニアとクロアチアの両国はともに1991年6月25日に独立を宣言した。スロベニアでの衝突は短期間に終わり、ユーゴスラビア連邦はスロベニアの独立を認めた。しかしクロアチアでは、クロアチアに住むセルビア人たちが住民投票をボイコットし連邦に留まることを望んだため、連邦政府は独立を認めなかった。このため、クロアチアとユーゴスラビア連邦の間での戦争が始まった。また、ユーゴスラビア連邦を復旧する交渉は欧州共同体の加盟国とピーター・カリントン(Lord Peter Carington)による議論の間に失敗に終わった。カリントンの計画では、ユーゴスラビアは解体段階にあるものとして、連邦を構成する共和国の独立を他の共和国は認め、代わりにミロシェヴィッチ政権に対してはセルビア国外のセルビア人の保護は欧州諸国が保障するとした。しかしミロシェヴィッチはこの計画に同意せず、欧州共同体はユーゴスラビアを解体する権利を持たず、またこの計画はセルビア人たちをセルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアの4国に分断するものであり、セルビア人の利益に反するものとして反対した。カリントンは、この計画を全ての構成共和国で住民投票にかけることを提案して応じた。モミル・ブラトヴィッチMomir Bulatović)政権下のモンテネグロもはじめはこの計画に同意していた。しかし、セルビアのミロシェヴィッチからの圧力によって、モンテネグロはその立場を変化させ、ユーゴスラビア解体を進めるこの計画に反対した。

ユーゴスラビア分解における異民族嫌悪と民族間の緊張はクロアチアの独立戦争で明確化した。クロアチアとセルビアの双方によるプロパガンダはそれぞれお互いに対する恐怖を与え、彼らが自分たちの中で支持を得るために我々の民族を弾圧し、彼らの死者数を誇張していると宣伝した[30]。戦争初期の数ヶ月の間、セルビア人に支配されたユーゴスラビア陸軍や海軍は、UNESCOの世界遺産に登録されているクロアチアのドゥブロヴニクの町や周辺の村々を包囲した[31]。セルビア側のプロパガンダとして、ユーゴスラビアのメディアは、ドゥブロヴニクの町に「ウスタシャ」の軍や国際テロリストがいることを攻撃の理由として宣伝した[32]。国連の調査では、そのような戦力はドゥブロヴニクにはいないことが明らかにされた[31]。クロアチア軍の戦力は後に増加していった。当時ミロシェヴィッチと盟友関係にあったモンテネグロの首相ミロ・ジュカノヴィッチMilo Đukanović)はモンテネグロの民族主義に訴え、ドゥブロヴニクの制圧によって、モンテネグロの領土をドゥブロヴニクへと拡大できると喧伝した[31]。モンテネグロの民族主義者らは、ドゥブロヴニクは歴史的にモンテネグロに属すると主張していた。そして、現在のモンテネグロの国境は古く無教養なボリシェヴィキの地図製作者によって引かれたものであるとした[31]。同時に、セルビアの政府は、その盟友であるモンテネグロの政府のこのような言説を否定した。セルビアの首相ドラグティン・ゼレノヴィッチDragutin Zelenović)は、ドゥブロヴニクは歴史的にセルビアであり、モンテネグロではないとした[31]。各国のメディアはドゥブロヴニクへの爆撃に強い関心を寄せ、ミロシェヴィッチがユーゴスラビア解体の中で大セルビア建設を目指している証拠として報じた。これらの報道では、ミロシェヴィッチはモンテネグロにおける自派の盟友であるブラとヴィッチとセルビア民族主義者らの支援の下、ドゥブロヴニクの奪取のためのモンテネグロの支援を取り付けようとしているとされた[31]

ヴコヴァルでは、クロアチア人とセルビア人の民族間の緊張は、ユーゴスラビア軍が町に入ったときに暴力に発展した。ユーゴスラビア軍とセルビア人の準軍事組織は市街戦によって町を制圧し、クロアチア人の資産を破壊した。セルビア人の武装勢力はクロアチア人たちに対して蛮行を働き、200人以上を殺害し、その他のクロアチア人たちはヴコヴァルからの脱出を強いられた。これは後にヴコヴァルの虐殺として知られる事件である。このヴコヴァルで行われた蛮行に対して、クロアチア人たちはセルビア人に対する蛮行で応じ、ゴスピチ虐殺と呼ばれた。クロアチア人、セルビア人双方による相手民族に対する蛮行はこの後数年にわたって続くことになる。

1991年から1992年にかけて、多民族が暮らすボスニア・ヘルツェゴビナでも民族間の緊張が高まった。ボスニア・ヘルツェゴビナ議会は多数派のボシュニャク人ムスリム人)と少数派のセルビア人クロアチア人の党派によって分断された。1991年、セルビア人の党派で最大の勢力となったセルビア民主党の指導者で過激な民族主義者のラドヴァン・カラジッチは、ボスニア・ヘルツェゴビナのボシュニャク人の大統領に対して、ボスニア・ヘルツェゴビナのユーゴスラビアからの分離は、同国と同国に住むボシュニャク人にとって破局的なものとなるとして直接警告し、次のように述べた:

この、あなた方のしていることは、良いことではない。ボスニア・ヘルツェゴビナを我が物としようとするあなた方の歩む道は、スロベニアやクロアチアがたどったのと同じ、地獄への高速道路だ。あなた方がボスニア・ヘルツェゴビナを地獄へと導くことはないなどと思っていたら、ムスリム人たちは絶滅に向かうことになるだろう。もしここで戦争になったら、ムスリム人たちに自衛の術はない — ラドヴァン・カラジッチ、1991年10月14日[33][2]

1991年、セルビアのミロシェヴィッチ大統領とクロアチアのトゥジマン大統領が、ボスニア・ヘルツェゴビナをセルビア人とクロアチア人の支配地に分割することでボスニア・ヘルツェゴビナでの戦争を回避しようと秘密裏に交渉をしていた。トゥジマンは、ボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアのクロアチア人たちから、ミロシェヴィッチと交渉したことを非難された[34]

1992年編集

1992年1月、クロアチアとユーゴスラビアは国連の監視の下での休戦に合意した。ボスニア・ヘルツェゴビナの分割をめぐるセルビア人とクロアチア人の交渉は続けられた[35]。公に対しては、セルビアの親体制派のメディアは、ボスニア・ヘルツェゴビナが民主的な政治に基づいて、新しいユーゴスラビアの枠内での新たな有志連合に加わるであろうと報じた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナではこれは真剣に受け取られることはなかった[36]。1992年は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の命運を決定的にした最後の一撃の年であった。この年、セルビア、モンテネグロとともに最後まで連邦に留まっていたボスニア・ヘルツェゴビナの政府が、独立を問う住民投票を実施し、同国のセルビア人たちは投票をボイコットしたものの、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はユーゴスラビアからの分離独立を一方的に宣言した。ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから独立した後、セルビアとモンテネグロは新しいユーゴスラビア国家である「ユーゴスラビア連邦共和国」を結成することを決め、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国はその歴史に幕を下ろした。新しいユーゴスラビア連邦共和国はセルビア共和国モンテネグロ共和国のみから成り、複数政党制による民主国家とされた。これによって、社会主義体制の古いユーゴスラビアは最終的に消滅した。多くの西側諸国は、ミロシェヴィッチの支配下にある新しいユーゴスラビア連邦共和国を、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の正当な継承国家ではないと見ていた。ユーゴスラビア連邦共和国はむしろ、ミロシェヴィッチの志向した大セルビア主義の実現でしかなく、その証にミロシェヴィッチはセルビア大統領の地位にありながら1997年までユーゴスラビアを実質的に支配し、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナにおけるセルビア人の民族自決権を訴え、これらの国々のセルビア人たちがユーゴスラビアに留まる権利を主張しながら、同時にミロシェヴィッチはセルビア領コソボ・メトヒヤ自治州のアルバニア人の民族自決権を認めず、その独立主張を無効としていた。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体後の地域における対立民族間の戦争は1990年代を通して旧ユーゴスラビア地域各地で発生し続け、その中で最後の紛争はマケドニア共和国の政府と同国で少数派のアルバニア人の民族主義者によるマケドニア紛争であり、2001年に戦闘が終結した。

憲法編集

 
旧・ユーゴスラビア連邦議会庁舎

ユーゴスラビアの国家像を定めるのはユーゴスラビア社会主義連邦共和国憲法であり、1963年1974年に改正された。

ユーゴスラビア共産主義者同盟は最初の選挙に勝利し、連邦が存続する間、権力の座に留まった。ユーゴスラビア共産主義者同盟は、ユーゴスラビアを構成する各共和国の共産主義者政党によって構成されている。ユーゴスラビア共産主義者同盟はその政治的立場を党会合で決定する。党会合はそれぞれの構成共和国の共産主義者の代表によって構成され、それぞれの代表による投票によって党の政策を変更する。最後の会合は1990年であった。

ユーゴスラビアの議会は連邦議会と呼ばれ、その庁舎は現在ではセルビア共和国の議会となっている。連邦議会の議員は全て共産主義者によって構成されている。

国家で最高の指導者はヨシップ・ブロズ・チトーであったが、その他にも、特にチトーの死後は重要な政治家たちが居た。1974年、チトーはユーゴスラビアの終身大統領とされた。1980年にチトーが死去した後、単一の大統領職は廃止され、大統領評議会による集団指導体制へと移行した[2]。大統領評議会は連邦の各構成体の代表者から成り、それぞれ各共和国の国益を代表していた。大統領評議会によって連邦全体の政治目標が定められた。大統領評議会の議長は、各国の評議会議員による持ち回り制であった[2]。大統領評議会の議長はユーゴスラビア連邦の国家元首とみなされた。大統領評議会は1991年のユーゴスラビア解体によって廃止された。

1974年、ユーゴスラビア憲法は大幅に変更された。その変更の中には、それぞれの共和国に連邦からの離脱の権利を認めたものや、セルビアを事実上分割し、ヴォイヴォディナコソボの両自治州に、ひとつの共和国とほぼ同等の権利を認めたものも含まれている[2]。ただし、自治州は共和国とほぼ同等の権利をもつものの、連邦からの離脱権は認められていなかった。

外交編集

チトーの指導の下、ユーゴスラビアは冷戦において中立を維持した。ユーゴスラビアは東西両陣営に属さない発展途上国(非同盟諸国)との親密な関係を築いたほか、アメリカや西側諸国とも良好な関係を作った。スターリンはチトーを裏切り者とみなし、公然とティトーを批判した。1968年、ソ連によるチェコスロバキア占領(チェコ事件)の後、チトーはユーゴスラビアとワルシャワ条約機構の国々との国境の防衛線を増強した[37]

1967年1月1日、ユーゴスラビアは、共産主義国として初めて全ての外国人にビザなしでの入境を認めた[38]

同じ年、チトーは中東戦争の平和的解決を推進した。チトーの計画はアラブ諸国にイスラエル承認を求め、代わりにイスラエルは占領地を手放すよう求めた[39]。アラブ諸国はこの和平案を拒絶した。

1967年、チトーはチェコスロバキアの指導者アレクサンデル・ドゥプチェクに対して、このときチェコスロバキアを占領していたソ連を鎮めるために自らプラハに赴く用意があることを伝えた[40]

ユーゴスラビアはエンヴェル・ホッジャが率いるアルバニア社会主義人民共和国とは複雑な関係にあった。初期の頃、ユーゴスラビアとアルバニアの関係は前向きであり、アルバニアはユーゴスラビアと共通の市場に加わり、高等学校の生徒たちにセルビア・クロアチア語を教えることを義務付けた。このとき、バルカン連邦構築計画についてアルバニアとユーゴスラビア、ブルガリアの間で議論されていた。アルバニアはこのとき、自国の脆弱なインフラを整備するために、ユーゴスラビアからの経済援助に重度に依存していた。ユーゴスラビアとアルバニアとの間で摩擦が生じたのは、アルバニアが、自国産の天然資源の対価としてユーゴスラビアから受ける支払いの額が少なすぎると主張し始めたときであった。アルバニア人が多数派を占めるユーゴスラビア領のコソボに関しては、ユーゴスラビアとアルバニアの双方が民族主義者たちの対立の沈静化に努めた。アルバニアのホッジャは、民族主義心情は、国際的な友好関係を希求する共産主義者の理想に反するものとした。しかし、アルバニアの一般世論ではコソボのアルバニア人への強い支持があり、1980年代、ホッジャは時に、ユーゴスラビア政府に反抗するコソボのアルバニア人を支持する旨の扇情的な演説をすることもあった。

軍事編集

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の戦力は、ユーゴスラビア人民軍(JNA)、領土防衛軍(TO)、民間防衛(CZ)、ミリツィア(警察機関)からなり、戦時には戦力を大幅に拡大することができる。(全人民防衛も参照

ユーゴスラビア人民軍編集

ユーゴスラビア王国と同様に、社会主義のユーゴスラビアでも強力な軍事力を保持した。実際に、チトー統治下のユーゴスラビアではソ連、イギリスフランスについでヨーロッパで4番目に大きな戦力を持っていた。

ユーゴスラビア人民軍(JNA)はユーゴスラビアの軍事力の中核となる組織であった。ユーゴスラビア人民軍は陸軍、海軍、空軍からなる。ほとんどの軍事装備や部品は(ライセンス生産を含めて)ユーゴスラビア国内で製造されていた。

常備軍は、第二次世界大戦中のパルチザンによって構成されている。ユーゴスラビアにはまた強力な軍需産業があり、クウェートイラクミャンマーなどの国々に武器を輸出していた。ザスタヴァなどのユーゴスラビアの企業はソ連が設計した兵器をライセンス生産するとともに、自ら設計した武器も生産していた。SOKOユーゴスラビア紛争以前のユーゴスラビアで設計生産された兵器の一例である。

1991年から1992年のユーゴスラビアの解体に伴って、軍は民族ごとに分裂し、末期のユーゴスラビア人民軍はほとんどがセルビア人モンテネグロ人によって占められるようになった。

領土防衛編集

ユーゴスラビア人民軍のほかに、それぞれの構成共和国は独自の領土防衛軍(セルビア・クロアチア語:Teritorijalna obranaスロベニア語:Teritorialna obrambaマケドニア語:Територијална одбрана、略称:TO)を保持した。領土防衛軍は、全人民防衛セルビア・クロアチア語:Opštenarodna odbranaスロベニア語:Splošna ljudska obrambaマケドニア語:Општонародна одбрана、略称ONO)と呼ばれる新しい戦闘教義の枠組みによって設置され、各共和国の防衛を担っていた。これは、チェコスロバキアのプラハの春ソビエト連邦をはじめとするワルシャワ条約機構諸国が軍事介入したチェコ事件の結果を受けて、防衛力の強化のために導入された。全人民防衛は、連邦にあるそれぞれの共和国、自治州、自治体ごとに組織された。

文化編集

ユーゴスラビアで著名な作家としては、ノーベル文学賞を受賞したイヴォ・アンドリッチや、ミロスラヴ・クルレジャMiroslav Krleža)、メシャ・セリモヴィッチMeša Selimović)、ブランコ・チョピッチBranko Ćopić)、マク・ディズダルMak Dizdar)などの名が挙がる。

著名な画家にはジョルジェ・アンドレイヴィッチĐorđe Andrejević Kun)、ペタル・ルバルダPetar Lubarda)、メルサド・ベルベルMersad Berber)、ミリッチ・オド・マチュヴェMilić od Mačve)などがいる。彫刻家では、アメリカのニューヨークにある国際連合本部ビルの前にあるモニュメントを製作したアントゥン・アウグスティンチッチAntun Augustinčić)が知られる。

ピアニストイーヴォ・ポゴレリチヴァイオリニストステファン・ミレンコヴィッチStefan Milenković)は国際的に知られたクラシック音楽の演奏家であり、ヤコヴ・ゴトヴァツは作曲家、指揮者である。ボバン・マルコヴィッチBoban Marković)はジャズ音楽家として名声が高い。

ユーゴスラヴィアの映画には、ダニロ・バタ・ストイコヴィッチDanilo Bata Stojković)、リュバ・タディッチLjuba Tadić)、ファビヤン・ショヴァゴヴィッチFabijan Šovagović)、ムスタファ・ナダレヴィッチMustafa Nadarević)、バタ・ジヴコヴィッチBata Živojinović)、ボリス・ドヴォルニクBoris Dvornik)、リュバ・サマルジッチLjubiša Samardžić)、ドラガン・ニコリッチDragan Nikolić)、ミレナ・ドラヴィッチMilena Dravić)、ネダ・アルネリッチNeda Arnerić)、ラデ・シェルバジヤRade Šerbedžija)、ミラ・フルランMira Furlan)、エナ・ベゴヴィッチEna Begović)などの俳優が登場した。映画監督にはエミール・クストリッツァドゥシャン・マカヴェイェヴゴラン・マルコヴィッチGoran Marković)、ロルダン・ザフラノヴィッチLordan Zafranović)、ゴラン・パスカリェヴィッチGoran Paskaljević)、ジヴォイン・パヴロヴィッチŽivojin Pavlović)、ハイルディン・クルヴァヴァツ(Hajrudin Krvavac)などがいる。ユーゴスラビアの映画では外国の著名な俳優も起用し、アカデミー外国語映画賞にノミネートされた『ネレトバの戦い』ではオーソン・ウェルズユル・ブリンナーを、『スティエスカ』(Sutjeska)ではリチャード・バートンを起用した。また、多くの外国の映画がユーゴスラビア国内で撮影された。ハリソン・フォードロバート・ショウフランコ・ネロなどが演じた『ナバロンの嵐』や、ジャッキー・チェンが演じた『サンダーアーム/龍兄虎弟』、アラン・アーキンジョアンナ・パクラルトガー・ハウアーの演じた『脱走戦線 ソビボーからの脱出』(Escape from Sobibor)は、ユーゴスラビア国内で撮影された。

ユーゴスラビアで開催される文化的催し物には、ドゥヴロヴニク夏祭り(Dubrovačke ljetne igre)、プーラ映画祭Pula Film Festival)、ストルガ詩の夕べ(Struga Poetry Evenings)などがある。ユーゴスラビア・ニュー・ウェイヴYugoslav New Wave)は、ユーゴスラビアの流行音楽を席巻し、また、本物志向のサブカルチャー運動はニュー・プリミティヴスNew Primitives)と呼ばれた。ユーゴスラビアは、社会主義国で唯一、ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加し続けた国であり、1961年から参加していた古参であった(ユーゴスラビアのユーロビジョン・ソング・コンテストも参照)。流行音楽のフェスティバルとしてはスプリト・フェスティバルSplit Festival)が有名であった。伝統音楽で名声のあるアーティストにはタネツTanec)合唱団や、ロマ音楽エスマ・レジェポヴァEsma Redžepova)などがいる。

1990年代のユーゴスラビア崩壊の前は、ユーゴスラビアは基づいた多文化主義の社会であった[2]。そして、それは「兄弟愛と統一」の概念や、ユーゴスラビア人民をよみがえらせたパルチザンによるファシストや民族主義者に対する勝利の記憶によるものであった。ユーゴスラビアでは、第二次世界大戦におけるユーゴスラビアの歴史は、単にユーゴスラビアのパルチザンたちによるファシストに対する勝利であるのみならず、多民族社会のユーゴスラビアを害する「悪」の民族主義者、クロアチア人のウスタシャやセルビア人のチェトニックに対する、「正義」であるユーゴスラビアの人民の勝利であるとされた[2][41]。ユーゴスラビアは自国民に対し、自国を非同盟諸国の指導者と位置づけ、ユーゴスラビアが、正しく、友好的な、マルクス主義の世界を作るためにあるとしていた[42]。アーティストたちは特定の民族を超えて多くの人々の人気を得ており、ボシュニャク人ターボ・フォーク歌手でボスニア・ヘルツェゴビナ出身のレパ・ブレナセルビアなどでも大変人気がある。映画界では1990年代まで民族主義的なものは避けられていた[43]

スポーツ編集

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国には、多くの強いスポーツ社会があった。サッカーバスケットボール、そして1984年の冬季オリンピックの開催地にサラエボが選ばれたときも、人々はこれに熱中した[44]

サッカーの分野では、ユーゴスラビア代表1960年[45]1968年[46]UEFA欧州選手権で準優勝となったほか、年齢別の大会ではUEFA U-21欧州選手権の1978年大会、1987 FIFAワールドユース選手権での優勝経験[47]もあるサッカー強国であった。1980年代後半には、イヴィツァ・オシム監督の下、ドラガン・ストイコビッチデヤン・サビチェビッチロベルト・プロシネチキズボニミール・ボバンスレチコ・カタネッツダルコ・パンチェフを擁し、1990年イタリア大会では準々決勝でアルゼンチンを相手にPK戦に持ち込む健闘を見せた[48]

しかし、この時既にユーゴスラビアの民族・地域間の対立が先鋭化し、ユーゴスラビアの解体が始まっていた。1991年までに行われたUEFA欧州選手権1992の予選を通過したが、同年にはクロアチア、スロベニア、マケドニアが独立を宣言した。本大会を目前とした1992年の春にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、オシム監督の故郷のサラエボも攻撃を受け、これに抗議してオシムは監督を辞任した。残されたセルビアとモンテネグロから成るユーゴスラビアに対して国際連合は制裁を決め、ユーゴスラビア代表は国際大会への参加を禁じられた。これによってユーゴスラビア代表は、欧州選手権を目前にしながら、一戦も戦うことなくその歴史に幕を下ろした。

ユーゴスラビアはハンドボールの強豪国でもあり、ハンドボールユーゴスラビア代表Yugoslavia national handball team)は世界男子ハンドボール選手権1986年に優勝したほか、1970年1974年に第3位、1982年に第2位となる好成績を残している。

水球でも顕著な成績を残しており、水球ユーゴスラビア男子代表en)はオリンピックで3度の金メダル(1968年、1984年、1988年)、4度の銀メダル(1952年、1956年、1964年、1980年)を獲得し、世界水泳選手権では金メダル2つ(1986年、1991年)、銅メダル2つ(1973年、1975年)、FINAワールドカップでは金メダル2つ(1987年、1989年)、銀メダル2つ(1981年、1991年)、銅メダル1つ(1979年)、欧州選手権(European Water Polo Championship)でも1991年の金メダルをはじめ毎回メダルを獲得する常勝チームであった。

連邦の構成体編集

人口編集

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、主要民族(narodi)と少数民族(narodnosti)を区別して認識していた。主要民族にはスロベニア人クロアチア人セルビア人マケドニア人、そしてモンテネグロ人ムスリム人があった。それ以外のマジャル人アルバニア人などは少数民族とされた。

ユーゴスラビアを構成する6つの共和国それぞれに住む、主な民族は次の通りである:

また、このほかに民族自認として「ユーゴスラビア人」があった。これは、自身をユーゴスラビア全体に属するものと位置づけたい者によって使われ、民族間の混血によって生まれた者や、その地方では少数民族となる者などが「ユーゴスラビア人」を自認した。

経済編集

ユーゴスラビアの経済システムは、はじめはソビエト連邦やその他の東側諸国と同様であったが、次第に差異が大きくなり、特に1948年のユーゴスラビアとソビエト連邦の決別後は大きく異なっている。企業は国家が保有するよりもむしろ、社員の協同組合が保有する形をとり、イスラエルキブツのように、労働者による自主管理によって運営された[2]。ソビエト連邦や東側諸国とは異なり、ユーゴスラビアの社会主義経済は完全な計画経済ではなかった。第二次世界大戦におけるユーゴスラビア占領と解放闘争によって、ユーゴスラビアのインフラストラクチャーは壊滅的な損害を受けた。戦前のユーゴスラビアでもっとも発展していた地方でも田舎的であり、国内の産業は大きく損害を受けるか破壊された。

1960年代の経済復興にともなって、ユーゴスラビアの経済は大きく繁栄した。失業率は低く、労働力人口の教育水準は漸増していった。ユーゴスラビアの冷戦における中立と非同盟諸国における指導的な役割のため、ユーゴスラビアの企業は西側諸国、東側諸国の双方に製品を輸出した。ユーゴスラビアの企業はアフリカ、ヨーロッパ、アジアでの重要なインフラ整備や産業プロジェクトに携わった。

ユーゴスラビアでは1960年代より出入国の自由が認められていたため、多くの労働者が西側諸国、特に西ドイツなどに出稼ぎ労働に行った。西側諸国への出稼ぎ労働は、ユーゴスラビアの失業率を低く保つ上で一役買っていたほか、新たな資金、外貨の獲得源ともなっていた。

1970年代エドヴァルド・カルデリEdvard Kardelj)の理論に基づいて、経済の再編が行われた。この理論では、企業の自己決定権や、労働者の働きによって公有企業の収益を分配することが認められた。全ての企業は「労働組織」へと改組された。「基礎組織」は企業を構成する最小単位であり、小企業や、大企業の部署がこれに相当する。それぞれの基礎組織があつまって「労働組織」となり、それらは「連合労働組織」に組み入れられた。連合労働組織は大企業や、産業の特定分野すべてを代表するものであった。もっとも重要な決定はそれぞれの労働組織によって決められ、これによって一定の企業間競争が生まれる。管理職の任命や、労働組織の戦略方針の決定は、その重要性に応じて、時に政治的、あるいは個人的な影響力拡大のために持ち出されることがあった。

企業の意思決定に対して全ての労働者に平等な権利を与えるために、「基礎組織」の制度は厚生、教育などの公共サービスにも適用された。基礎組織を構成する人数は通常、数十人を上回ることはなく、労働者たちによる委員会を持ち、企業は公共サービスの運営管理には労働者たちの同意を必要とした。

ユーゴスラビア紛争と一連の市場縮小、マネジメントの失敗や不透明な企業の私有化によって、1990年代の旧ユーゴスラビア諸国はいずれも大きな経済問題を抱えることとなった。スロベニアだけはユーゴスラビア崩壊期のショックと落ち込みからすぐに立ち直り、経済成長を続けた。クロアチア1990年国内総生産の水準を回復したのは2003年のことであった。それ以外の多くの国々では、2008年に至るも、いまだに1990年の経済水準を回復していない。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の通貨は、ユーゴスラビア・ディナールであった。

域内総生産(GDP) (出典: IMF/World Bank - 1990)

地域 経済
地域 人口 GDP(10億米ドル 一人当たりGDP
1 スロベニア社会主義共和国 1,982,000 13,740 6,940
2 クロアチア社会主義共和国 4,784,000 25,640 5,350
3 ヴォイヴォディナ社会主義自治州 2,021,000 7,660 3,790
4 セルビア社会主義共和国 5,690,000 16,910 2,970
5 ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国 4,364,000 10,870 2,490
6 モンテネグロ社会主義共和国 652,000 1,520 2,330
7 マケドニア社会主義共和国 2,021,000 4,420 2,180
8 コソボ社会主義自治州 1,965,000 3,360 1,840
合計 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 23,451,000 84,120 3,587

多様性を内包した国家編集

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、

といわれるほどの多様性を内包した国家であった。

さらに、「五つの民族」には含まれていない主要民族であるボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア南西部・モンテネグロ西部(サンジャク地方)に多いムスリム人、セルビア南部のコソボ自治州マケドニア共和国西部に多いアルバニア人、セルビア北部のヴォイヴォディナ自治州に多いハンガリー人、またロマ人などが存在した。

セルビア語とクロアチア語は、言語学上は同一言語とみなされている。

「七つの国境」については「七つの隣国」や「七つの不安[50]」、「一つの連邦国家」については「一人のチトー」、「五つの民族」については「五つの主要民族」とした上で「八つの少数民族」が追加されるなど、様々な表現があった。

その他編集

  • ユーゴスラビアの国歌は、1926年以降のポーランド国歌「ドンブロフスキのマズルカ」(Mazurek Dąbrowskiego)とメロディが同じであった。国歌「スラヴ人よ」(Hej, Slováci)は、1834年に作られ、以来汎スラヴ主義の象徴歌、ソコルSokol)体育教育と政治運動の象徴歌、第二次世界大戦期のスロバキア共和国、セルビア、モンテネグロ、ユーゴスラビアの国歌であった。この曲はまたスロバキアの非公式の第二の国歌とみなされている。なお、ユーゴスラビアの「スラヴ人よ」のほうがテンポが遅い[51]

ギャラリー編集

脚注編集

  1. ^ ユーゴスラヴィアの表記もある。
  2. ^ スロベニア語における「社会主義」の語の形容詞形は「Socialistična」であり、公式国名の最初の語にある「Socijalistička」とは異なる。スロベニア語では、後者のスロベニア語を用いた表記もされた。
  3. ^ ガイ式ラテン・アルファベットによるラテン文字表記。スロベニア語およびセルビア・クロアチア語の西部標準形(クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナを主体とする)ではラテン文字が用いられた。キリル文字による表記と完全に対応している。
  4. ^ セルビア語キリル文字およびマケドニア語キリル文字による表記ラテン文字における表記と完全に対応している。

出典編集

  1. ^ a b [1] Proclamation of Constitution of the Federative People’s Republic of Yugoslavia, 31. 1. 1946.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 久保慶一 (2003年10月10日). 引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題. 日本、東京: 有信堂高文社. ISBN 978-4842055510. 
  3. ^ Duncan Wilson, Tito's Yugoslavia, p. 40.
  4. ^ a b c d YouTube - Broadcast Yourself
  5. ^ Cold War Shootdowns
  6. ^ Tito's Yugoslavia, Duncan Wilson p43
  7. ^ Tito's Yugoslavia, Duncan Wilson p44
  8. ^ Yugoslavia's Ruin Cvijeto Job
  9. ^ Barnett, Neil. 2006 Tito. Hause Publishing. P. 14
  10. ^ Nationalism and Federalism in Yugoslavia 1962-1991 S Ramet pp84-5
  11. ^ Nationalism and Federalism in Yugoslavia 1962-1991 S Ramet p85
  12. ^ Nationalism and Federalism in Yugoslavia 1962-1991 S Ramet pp90-91
  13. ^ The Specter of Separatism, TIME Magazine,
  14. ^ Yugoslavia: Tito's Daring Experiment, TIME Magazine, August 09, 1971
  15. ^ Conspiratorial Croats, TIME Magazine, June 05, 1972
  16. ^ Battle in Bosnia, TIME Magazine, July 24, 1972
  17. ^ Borneman, John. 2004. Death of the Father: An Anthropology of the End in Political Authority. Berghahn Books. p165-167
  18. ^ Borneman. 2004. p167
  19. ^ Borneman. 2004. 167
  20. ^ Jugoslavija država koja odumrla, Dejan Jokić
  21. ^ Lampe, John R. 2000. Yugoslavia as History: Twice there was a Country. Cambridge: Cambridge University Press, p321.
  22. ^ Yugoslavia's bloody collapse. C Bennett p106-7
  23. ^ Lampe, John R. 2000. Yugoslavia as History: Twice There Was a Country. Cambridge: Cambridge University Press. p347
  24. ^ a b Death of Yugoslavia. British Broadcasting Corporation (BBC). 1995.
  25. ^ Ramet, Sabrina P. 2006. The Three Yugoslavias: State-Building and Legitimation. Indiana University Press. p598.
  26. ^ Communism O Nationalism!, TIME Magazine, October 24, 1988
  27. ^ http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C0CE5DC1538F93AA2575BC0A966958260&scp=7&sq=Tudjman&st=nyt
  28. ^ http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D0CE1D81638F933A25752C0A967958260
  29. ^ Death of Yugoslavia. British Broadcasting Corporation (BBC). 1995.
  30. ^ http://www.un.org/icty/indictment/english/mil-ii011122e.htm
  31. ^ a b c d e f http://www.yorku.ca/soi/_Vol_5_1/_HTML/Pavlovic.html
  32. ^ http://www.yorku.ca/soi/_Vol_5_1/_HTML/Pavlovic.html
  33. ^ [2]。ここで「ムスリム人」とは、ボシュニャク人として知られる人々のことをさす。
  34. ^ Lukic, Reneo; Lynch, Allen. 1996. Europe from the Balkans to the Urals. The Distintigration of Yugoslavia and the Soviet Union. Oxford: Oxford University Press, p209
  35. ^ Lukic, Reneo; Lynch, Allen. p210
  36. ^ Burg, Steven L; Shoup, Paul S. 1999. The War in Bosnia-Herzegovina: Ethnic Conflict and International Intervention. M.E. Sharpe. p102
  37. ^ Krupnick, Charles. 2003. Almost NATO: Partners and Players in Central and Eastern European Security. Rowman & Littlefield. P. 86
  38. ^ Beyond Dictatorship January 20, 1967.
  39. ^ Still a Fever August 25, 1967.
  40. ^ Back to the Business of Reform August 16, 1968.
  41. ^ Flere, Sergej. “The Broken Covenant of Tito's People: The Problem of Civil Religion in Communist Yugoslavia”. East European Politics & Societies, vol. 21, no. 4, November 2007. Sage, CA: SAGE Publications. P. 685
  42. ^ Flere, Sergej. P. 685
  43. ^ Lampe, John R. P. 342
  44. ^ Lampe, John R. Yugoslavia as History: There Twice was a Country. P. 342
  45. ^ Delaunay's dream comes true”. UEFA (2008年1月1日). 2009年10月18日閲覧。
  46. ^ The Italian job”. UEFA (2008年1月1日). 2009年10月18日閲覧。
  47. ^ Chile 1987: Yugoslavian fireworks”. FIFA. 2009年10月18日閲覧。
  48. ^ 木村元彦 (2005). オシムの言葉 - フィールドの向こうに人生が見える. 集英社. ISBN 978-4797671087. 
  49. ^ New Power, TIME Magazine, December 4, 1944
  50. ^ ユーゴスラビアは「不安」(セルビア・クロアチア語:brigama)に囲まれているといわれた。「brigama」は、ユーゴスラビアを取り囲む国々のセルビア・クロアチア語での頭文字(B-ブルガリア、R-ルーマニア、I-イタリア、G-ギリシャ、A-アルバニア、M-ハンガリー、A-オーストリア)から成っている。
  51. ^ http://www.marxists.org/subject/yugoslavia/music/servie-serbian.mp3

関連文献編集

  • 久保慶一 (2003年10月10日). 引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題. 日本、東京: 有信堂高文社. ISBN 978-4842055510. 

関連項目編集

外部リンク編集