ヨアヒム・エルンスト (アンハルト侯)

ヨアヒム・エルンストJoachim Ernst von Anhalt, 1536年10月21日 - 1586年12月6日)は、アンハルト=ツェルプスト侯(在位:1550年 - 1570年)、後に単独のアンハルト侯(在位:1570年 - 1586年)。アンハルト=ツェルプスト侯ヨハン4世と、その妻でブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の娘であるマルガレーテの間の次男[1]

ヨアヒム・エルンスト
Joachim Ernst
アンハルト=ツェルプスト
アンハルト侯
在位 アンハルト=ツェルプスト侯:1550年 - 1570年
アンハルト侯:1570年 - 1586年

出生 (1536-10-21) 1536年10月21日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
アンハルト=デッサウ侯領、デッサウ
死去 (1586-12-06) 1586年12月6日(50歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
アンハルト侯領、デッサウ
配偶者 アグネス・フォン・バルビ
  エレオノーレ・フォン・ヴュルテンベルク
子女 一覧参照
家名 アスカーニエン家
父親 アンハルト=ツェルプストヨハン4世
母親 マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク
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生涯 編集

ヨアヒム・エルンストは父の監督下で高度な教育を受けた。1549年2月1日、12歳でヴィッテンベルク大学に入学し、神学者ゲオルク・ヘルトに師事した。1550年に父が死ぬと、彼は兄カール、弟ベルンハルト7世とともにアンハルト=ツェルプスト侯領を継いだ。3兄弟は1553年に叔父のゲオルク3世が男子のないまま死ぬとアンハルト=プレッツカウ侯領を相続し、1561年にもう一人の叔父ヨアヒムからアンハルト=デッサウ侯領を相続した。また1562年には従兄のヴォルフガングにアンハルト=ケーテン侯領を譲らせている。

ヨアヒム・エルンストは典型的なルネサンス君主であり、芸術や文化を奨励した。彼は息子達に家庭教師を付け、ヨーロッパ中を巡るグランド・ツアーに赴かせている。また自分に仕える大法官トビアス・ヒューブナーの息子に、デッサウの宮廷で開催された有名な馬上槍試合について記録するように命じている。

1561年に兄カールが、1570年に弟ベルンハルト7世が亡くなると、ヨアヒム・エルンストは1252年にアンハルト侯領の分割が行われて以来、初めてアンハルト侯領を完全に再統合した[1]。ヨアヒム・エルンストはデッサウに居所を置き続けた。彼は1572年にアンハルト侯領の国法を制定し、1582年にはツェルプストに「Gymnasium Francisceum」という学校を設立している[1]

ヨアヒム・エルンストの死後、アンハルト侯家は長子相続を確立していなかったため、息子達は1603年まで共同統治をおこなった後、侯領を5つに分割相続した[1]

子女 編集

1560年3月3日、バルビ伯ヴォルグガング1世の娘アグネス(1540年 - 1569年)と結婚し、間に6人の子女をもうけたが、1569年に死別した[1]

1571年1月9日、ヴュルテンベルク公クリストフの娘エレオノーレ(1552年 - 1618年)と再婚し[1]、間に10人の子女をもうけた。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f Berent Schwineköper: Joachim Ernst. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 10, Duncker & Humblot, Berlin 1974, ISBN 3-428-00191-5, S. 433 (電子テキスト版).
先代
ヨハン4世
アンハルト=ツェルプスト侯
1550年 - 1570年
カールベルンハルト7世と共同統治
次代
アンハルト侯領に統一
先代
ゲオルク3世
アンハルト=プレッツカウ侯
1553年 - 1570年
カールベルンハルト7世と共同統治
次代
アンハルト侯領に統一
先代
ヨアヒム
アンハルト=デッサウ侯
1561年 - 1570年
ベルンハルト7世と共同統治
次代
アンハルト侯領に統一
先代
ヴォルフガング
アンハルト=ケーテン侯
1562年 - 1570年
ベルンハルト7世と共同統治
次代
アンハルト侯領に統一
先代
新設
アンハルト侯
1570年 - 1586年
次代
ヨハン・ゲオルク1世
クリスティアン1世
ベルンハルト
アウグスト
ルドルフ
ヨハン・エルンスト
ルートヴィヒ1世