ヨゼフ・プロクシュJosef Proksch または Joseph1794年8月4日 - 1864年12月20日)は、ドイツチェコ人ピアニスト作曲家

ヨゼフ・プロクシュ
Josef Proksch
基本情報
生誕 1794年8月4日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国 リベレツ
死没 (1864-12-20) 1864年12月20日(70歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国 プラハ
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト作曲家

生涯 編集

プロクシュはチェコのリベレツに生まれた。彼は17歳で視力を失うも、ヤン・コジェルフの下で研鑽を積む[1]。彼は1830年プラハに音楽アカデミー(Musikbildungsanstalt)を開校した[1]。彼はピアノのレッスンにおいて、複数の生徒に同時に演奏させるという教育法を用いており、これは100年以上にわたって続けられた。彼の門弟のうち、最も有名なのはベドルジハ・スメタナであり、プロクシュはスメタナに1843年から1847年にかけてピアノと音楽理論を指導していた[1]。プロクシュはプラハで没している。

娘のマリー・プロクシュも著名なピアニスト、作曲家となった。

作品 編集

プロクシュは作曲家としては教育的なピアノ曲を遺している。また、3台のピアノのための協奏曲、ピアノソナタ、ミサ曲カンタータ、そして授業に用いるために多くの管弦楽曲を4台から8台のピアノ用へ編曲している。

  • Versuch einer rationellen Lehrmethode im Pianoforte-Spiel – 50巻 教育用作品 (1841年–1864年)
  • Die Kunst des Ensembles im Pianoforte-Spiel – 7巻 教育用作品 (1859年)

脚注 編集

出典

  1. ^ a b c Černušák, Gracián (ed.); Štědroň, Bohumír; Nováček, Zdenko (ed.) (1963). Československý hudební slovník II. M-Ž. Prague: Státní hudební vydavatelství. pp. 376–377  (チェコ語)