ヨハン・エルンスト1世 (ザクセン=ヴァイマル公)

ヨハン・エルンスト1世ドイツ語:Johann Ernst I., 1594年2月21日 - 1626年12月6日)は、ザクセン=ヴァイマル公(在位:1605年 - 1620年)。

ヨハン・エルンスト1世
Johann Ernst I.
ザクセン=ヴァイマル
在位 1605年 - 1620年

出生 (1594-02-21) 1594年2月21日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=ヴァイマル公領、アルテンブルク
死去 (1626-12-06) 1626年12月6日(32歳没)
オーストリア帝国の旗 ハンガリー王国マルティン
家名 ヴェッティン家エルンスト系
父親 ザクセン=ヴァイマルヨハン2世
母親 ドロテア・マリア・フォン・アンハルト
宗教 キリスト教ルター派
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弟ヴィルヘルムらは1626年にヨハン・エルンストの追悼ターラー銀貨を鋳造した

生涯 編集

ヨハン・エルンスト1世はザクセン=ヴァイマルヨハン2世と、その妃でアンハルト侯ヨアヒム・エルンストの娘ドロテア・マリアとの間の長男として生まれた。弟にフリードリヒ、後のザクセン=ヴァイマル公ヴィルヘルム、ザクセン=ヴァイマル公アルブレヒト、ザクセン=ゴータ公エルンスト1世およびベルンハルトがいる。

ヨハン・エルンストは何人かの教師から教育を受けた。1608年より、弟フリードリヒと共にイェーナ大学で学んだ。兄弟は、教官のフリードリヒ・ホルトレーダーおよび後の王室執事長カスパー・フォン・トイトレーベンから教育を受けた[1][2]。1613年から1614年にかけてのフランス、イギリス、オランダを巡るほぼ2年間のグランドツアーで、ヨハン・エルンストの教育期間は終了した。

父ヨハンは1605年に死去し、8人の未成年の息子が残され、皇帝ルドルフ2世アルベルティン家ザクセン選帝侯クリスティアン2世を8人の息子たちの後見人に指名した。1611年にクリスティアン2世が死去した後、ヨハン・エルンストは母ドロテアの助けを借りて、自身が弟たちの後見人となれるよう皇帝に願い出たが、却下された。クリスティアン2世の弟でザクセン選帝侯となったヨハン・ゲオルク1世が後見の役目を引き継いだ。これについては、1612年から1616年まで鋳造された8人の兄弟のコインのクロノグラムにも示されている[3]

1615年、ヨハン・エルンストは成年に達し、ザクセン=ヴァイマルの親政を開始し、未成年の弟たちの後見人となった。摂政として、ヨハン・エルンストはヴァイマルにおいてヴォフガング・ラトケの改革、ヨハンネス・クロマイヤーの教育改革およびヨハン・ヴァイドナーの改革を推進し、1618年よりイェーナヴァイマルにおける印刷権を与えた。1617年8月24日、実りを結ぶ会がヴァイマル城で発足したが、ヨハン・エルンストはその創設者の一人となった。

1620年より、ヨハン・エルンストはプファルツ選帝侯フリードリヒ5世に軍人として仕えた。1620年11月8日に白山の戦いにおいて敗北した後、ヨハン・エルンストは皇帝に対する無条件降伏を拒否した。このためザクセン=ヴァイマル公位を剥奪され、公位は弟たちに与えられた。ヨハン・エルンストはハプスブルク家と対立し、ヴェストファーレンおよびニーダーザクセンにおいて、オランダ騎兵隊の大尉やデンマーク騎兵隊の中将として戦った。ヨハン・エルンストはシレジア征服に参加し、エルンスト・フォン・マンスフェルトに従いハンガリーに向かった。ヨハン・エルンストは1626年12月6日にマルティンにおいて32歳で死去した。

脚注 編集

  1. ^ Ernst Wülcker (1881), “Johann Ernst (dänischer General)” (ドイツ語), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 14, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 352–360 
  2. ^ Ernst Wülcker (1894), “Teutleben, Caspar von” (ドイツ語), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 37, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 616–617 
  3. ^ Lev Goldenberg: Chronogramm und Motto auf den Achtbrüdertalern 1612 und 1613 von Sachsen-Weimar, 2006, pp. 27–29

参考文献 編集

先代
ヨハン2世
ザクセン=ヴァイマル
1605年 - 1620年
次代
ヴィルヘルム