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ヨーガ・スートラ』(瑜伽経〔ゆがきょう〕とも)は、インド哲学の1派でヨーガの修行により解脱に至ることを説くヨーガ学派の教典。パタンジャリによって編纂されたと言われるが、彼についてはっきりしたことは分からない[1]。現在の形に編纂されたのは、4-5世紀頃と考えられている[2]

ヨーガとは心の働きを抑制することである」という定義から始まり、三昧に至るまでの具体的方法としての8階梯と、その背景にある思想が述べられる。ヨーガ学派の世界観・哲学の大部分はサーンキヤ学派に依拠するが、最高神イーシュヴァラの存在を認める点が異なる[3]

アーサナ中心の動的ヨーガの要素はないが、動的な現代のヨーガにおいても基本経典として紹介されることが少なくない。

目次

構成編集

4章195節からなる。

  • 第1章(51節) - 概要・定義など
  • 第2章(55節) - 禁戒、勧戒、座法、調気法、制感など
  • 第3章(55節) - 凝念、静慮、三昧など
  • 第4章(34節) - 補足など

内容編集

八階梯編集

アシュターンガヨーガとも(アシュタ=8、アンガ=枝・手足)。現代の動的なアシュタンガ・ヨガ英語版とは異なる。

  1. ヤマ:制戒 - 不殺生・真実語・不盗・不淫・無所有の五戒を守る。これを遵守しても特別なヨーガの状態になるわけではないが、心身が浄化される。[4]
  2. ニヤマ:内制 - 心身を浄め、満足を知り、苦行を実践し、経典を唱え、イーシュヴァラ(自在神)を祈念するという五項目の実践により、心身から日常的なもの、行為の残滓、残り香をすべて取り除く。[4]
  3. アーサナ座法 - ヨーガの実践のために安定した快適な座り方を実践する。姿勢を保つ努力が必要なくなると完全と言える。[4]
  4. プラーナーヤーマ:調息 - 通常呼吸は外界の影響を受けて不規則になるため、呼吸を制御・調整して可能な限りゆっくり行い、最終的に息をしているのかわからない状態にする。これによりプラーナ(生命エネルギー)の流れのよどみがなくなり、明晰さを得る。[4]
  5. プラティヤーハーラ:制感 - 外界の支配から感覚を引き離し、対象と感覚を切り離す。通常はものを五感で捉えているが、プラティヤーハーラで五感が心に従い心と一体となることで、心の本質において直接そのものを把握するようになる。ここまでが瞑想の準備段階に当たる。[5]
  6. ダーラナー:凝念 - 心を凝固させ、不動にし、思いを外界の一点に集中させる。これにより他のものが心に侵入できない状態になる。ダーラナー以降の3段階は一連のもので、質的にはっきりした区別はない。[5]
  7. ディヤーナ:静慮 - ダーラナーで一点に集中した思いの固定を時間的に十二倍に引き延ばす。知覚や認識は対象から引き離され、思いは拡張・伸長して、ヨーガ行者の全人格的思惟が対象本来の実在性・有性に直接触れるようになる。[5]」はディヤーナの転訛語の音写。
  8. サマーディ:三昧 - 前2段階の結果として、思いが一種の停止状態に入り、思う側と思われる側という対立する関係を離れ、心は対象そのものになる。ヨーガ行者は生との関係、時間の支配も離れ、永遠の現在を生きる者となる。この解放された状態を「アーナンダ(喜悦)」という。[5]

歴史編集

国内外のヨーガ研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンは、このような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである[6]佐保田鶴治は、サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』であると述べている[7]。19世紀半ばの時点で、インドの伝統的なヨーガの実践と『ヨーガ・スートラ』の体系のつながりはなくなっていた[8]

紀元後4-5世紀頃に編纂された『ヨーガ・スートラ』[2][9]は、その成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという[2]。『ヨーガ・スートラ』の思想は、仏教思想からも多大な影響や刺激を受けている[10][11]

19世紀にイギリス領インド帝国が成立すると、イギリスの支配下で西欧の影響を受けたインド人知識人たちは、インドには蔑視の対象でない、価値ある伝統的な英知があることを西欧に示そうと活動し、こうしたヒンドゥー教改革運動、ネオ・ヒンドゥイズムの潮流の中で、西洋の知的伝統によって六派哲学の有効性を確立しようとした。六派哲学のひとつであるヨーガ学派のテキスト『ヨーガ・スートラ』は、西欧を意識して純粋理論の要素を強調する形で翻訳された[12]。インドの文化ナショナリズムと絡む形で、オリエンタリズムとインドの教育システムの中で地位を高め、ヨーガの古典と考えられるようになり(対して密教的なハタ・ヨーガは古典の価値に逆らうもの、または価値のないものとみなされた)、大学でもテキストとして用いられ、大学で学んだヴィヴェーカーナンダらネオ・ヒンドゥイズムの活動家に影響を与えたと考えられている[8]。『ヨーガ・スートラ』はヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダや神智学協会ヘレナ・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった[13]

純粋理論の要素ではなく実践的要素が強くなったのは、1890年の神智学協会の援助によるドゥヴィヴェディの訳からである[12]。ヴィヴェーカーナンダは、近代ヒンドゥー思想と19世紀の科学からメスメリズムまで様々な西洋の概念を混ぜて実践的な『ラージャ・ヨーガ』を構築したが、シングルトンによると、その際に当時アメリカで広く普及していた神智学協会のウィリアム・Q・ジャッジによる大衆向けの『ヨーガ・スートラ』の訳が用いられた[12]。『ラージャ・ヨーガ』における『ヨーガ・スートラ』の解釈はそれまでより実践的であり、プラーナ(呼吸)とプラーナーヤーマ(調息)に関してハタ・ヨーガの生理学的要素が加えられた。ヨーガを実践しプラーナを制御することで「ほとんど全能、ほとんど全知」になることが可能であると主張されており、当時のアメリカで霊的な高みに上るための身心技法として人気を博した[14]

『ヨーガ・スートラ』はヨーガの古典、基本経典として重視されるようになり、現代のヨーガへの理解に大きな影響を与えている。

イスラーム世界への影響編集

『インド誌』(1030年)を著したアブー・ライハーン・ビールーニーによってはじめてイスラーム系言語に翻訳された[15]。この書はあまり広く読まれなかったが、16世紀にアブル・ファズルがインド哲学諸派の解説で、忠実・簡潔に紹介し、同時代のヨーガ実践者たちの思弁と実践的に肉体と魂の鍛錬法はイスラームの知識人や修道者の関心を集め、14~17世紀の著名なスーフィー文人に帰せられる修道論や雑録などにまぎれこみ、18~19世紀のインド・ムスリムによるスーフィー文献にも色濃い影響を与えた[15]

日本語訳編集

  • 佐保田鶴治『ヨーガ根本教典』平河出版社、1973年。ISBN 4-89203-019-8
  • 佐保田鶴治『解説ヨーガ・スートラ』平河出版社、1983年。ISBN 4-89203-031-7
  • スワミ・サッチダーナンダ『インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)』伊藤久子・訳、めるくまーる、1989年。ISBN 978-4-8397-0045-4
  • 向井田みお『やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガスートラ』アンダーザライト、2015年。ISBN 978-4-904980-12-5
  • 伊藤武『図説 ヨーガ・スートラ』出帆新社、2016年。ISBN 978-4-86103-108-3

脚注・出典編集

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  1. ^ 川崎 1993, p. 116.
  2. ^ a b c 山下 2009, p. 105.
  3. ^ 川崎 1993, p. 120.
  4. ^ a b c d 川崎 1993, pp. 117-118.
  5. ^ a b c d 川崎 1993, pp. 118-119.
  6. ^ シングルトン 2014, p. 35.
  7. ^ 佐保田鶴治『ヨーガ根本教典』平河出版社、1973年、35頁。
  8. ^ a b 河原 2014, p. 96.
  9. ^ 『世界宗教百科事典』丸善出版、2012年。p.522
  10. ^ 佐保田鶴治『ヨーガ根本教典』。p.36
  11. ^ シングルトン 2014, p. 279.
  12. ^ a b c 河原 2014, p. 97.
  13. ^ 河原 2014, p. 35.
  14. ^ 河原 2014, pp. 94-95.
  15. ^ a b 榊和良 「ヨーガの実践とペルシア語訳『ゴーラクシャシャタカ』」東洋文化研究所紀要 163, 108-80, 2013-03

参考文献編集

  • 川崎定信『インドの思想』放送大学教育振興会、1993年。
  • 山下博司『ヨーガの思想』講談社〈講談社選書メチエ〉、2009年。
  • マーク・シングルトン『ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源』喜多千草訳、大隅書店、2014年。
  • 河原和枝「ヨガ : 文化のグローバル化をめぐって」『甲南女子大学研究紀要 人間科学編』第51巻、甲南女子大学、2014年、 89-97頁。

関連項目編集

外部リンク編集