ヨーゼフ・ラデツキー
ヨハン・ヨーゼフ・ヴェンツェル・フォン・ラデツキー伯爵(Johann Joseph Wenzel Graf Radetzky von Radetz, Jan Josef Václav (H)Radecký z (H)Radče, 1766年11月2日[1] ボヘミア西部・トレーブニッツ(現チェコ・トシェブニツェ Třebnice) - 1858年1月5日)は、オーストリアの貴族で軍人。ラデツキー(フラデツキー)家はハンガリー貴族の流れを引く。
ヨーゼフ・ラデツキー Joseph Radetzky | |
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![]() ラデツキー伯爵 | |
生誕 |
1766年11月2日![]() ![]() |
死没 |
1858年1月5日(91歳没)![]() ![]() |
軍歴 | 1785年 - 1858年 |
最終階級 | 陸軍元帥 |
墓所 | ヘルデンベルク墓地 |
生涯編集
1785年にオーストリア軍に従軍。1788年以来、対トルコ戦争やナポレオン戦争など多くのオーストリアの戦争に参加し、1836年元帥、1849年から1857年までロンバルド=ヴェネト王国の総督を務めた。
1849年3月23日のノヴァーラの戦いにおけるサルデーニャ王国軍への勝利によっても知られる。
ヨハン・シュトラウス1世が1848年に作曲した『ラデツキー行進曲』は、同年に北イタリアの独立運動の鎮圧に向かうラデツキー将軍を称えて作曲された。このように、ラデツキーはイタリアの独立運動に対しては苛烈な態度で臨み、1857年から58年にかけてエンリコ・タッツォーリら9人を処刑している、しかし民衆からはかえって反感を買うこととなり、彼らは「ベルフィオーレの殉教者」として独立運動の象徴となった。
なお、ラデツキーがミラノから持ち帰ったカツレツが、ヴィーナー・シュニッツェルになったともいわれる。
関連項目編集
脚注編集
- ^ “367日誕生日大事典の解説”. コトバンク. 2018年2月11日閲覧。