ライオンズ・クラシック

ライオンズ・クラシックLions Classic)は、プロ野球埼玉西武ライオンズが、球団の歴史を振り返るために行うイベント2008年から始まり、以後2014年まで毎年開催された。セ・パ交流戦終了後の6月下旬から8月下旬にかけ、本拠地・西武ドーム(現:メットライフドーム)での試合にて行われた(一部例外もあり)。

目次

主な内容編集

2008年編集

ライオンズの福岡県福岡市から埼玉県所沢市への移転30周年を記念して、アサヒビール協賛による「アサヒスーパードライ・ライオンズ・クラシック」として行われた。

  • 各章ごとの主旨
    • 第1章 1950年代、ライオンズは稲尾、中西豊田らを擁し4回のリーグ優勝。うち1956-58年には巨人を下して3年連続日本一を達成した。そのライオンズ黄金時代を振り返る
    • 第2章 1950年代は南海と西鉄がほぼ優勝を分け合う2強時代であったが、特に西鉄・稲尾vs南海・野村の名勝負が有名であった
    • 第3章 1950年代の主力選手たちをファンは「野武士軍団」と呼び、選手個々のパフォーマンスに魅了された
    • 第4章 4度の最多勝利や5度の奪三振王など数多くのタイトルを手中に納めたライオンズの偉大なるエースで、2007年(平成19年)に永眠した稲尾をしのぶ
    • 第5章 1950年(昭和25年)から1978年(昭和53年)までライオンズ(1950年は西鉄クリッパース)が本拠地としていた平和台球場は数多くの名勝負、名場面を繰り広げてきた。1989年(平成元年)から1992年(平成4年)まで同球場を本拠地としていたホークス(当時は福岡ダイエーホークス)を迎え撃ち、改めて平和台時代の古きよき時代を振り返る[2]
  • 西鉄ライオンズグッズの販売(ライオンズベースボールショップ製、「主な出来事」参照)
  • 入場者に西鉄ライオンズが紙面を飾った西日本スポーツの復刻新聞記事プレゼント
  • 西武ドームのLビジョンでの西鉄時代の映像上映
  • 西武ドーム前広場での九州特産市の開催
  • 講演「ライオンズ史研究室」の開催
    • 西武ドーム横の中華料理店「獅子」のイベントルームにて各カードごと1回ずつ、全5回にわたって球団主催で開催された。講師はプロ野球界の復刻ユニフォーム・ブームのきっかけを作った「プロ野球ユニフォーム物語」の著者である綱島理友、第3回、第4回、第5回はスポーツ報知で西鉄担当だった田村大五が参加し対談形式で行われた。

主な出来事編集

  • ライオンズ・クラシック初日となった6月29日のロッテ戦の始球式はこのイベントのエグゼクティブプロデューサーで西鉄OBの豊田泰光が行った。
  • 西鉄のマネージャーだった藤本哲男が開いた福岡市中央区のスポーツ用品店「ライオンズベースボールショップ」に対し、福岡時代のライオンズの歴史を伝え続けた功績を称えて感謝状が贈られた。同店はライオンズが埼玉県に移転した1979年に開業し、このライオンズ・クラシックでも販売された西鉄時代の帽子や旗、レプリカユニフォームの製作や販売を続けていた。
  • 8月11日の日本ハム戦では、1950年の球団創設以来4000勝を達成した。
  • このイベントには1950年から1972年(昭和47年)までライオンズ(1950年はクリッパース)の親会社だった西日本鉄道も協賛した[3]。西日本鉄道では「西鉄メモリアルデー」に西鉄ライオンズ時代の球団ロゴマークをモチーフとしたバスカードを販売した[4]

2009年編集

2009年(平成21年)は、埼玉県にフランチャイズを移転してからの1980年代の「西武ライオンズの黄金時代」をテーマに、西武OBの野球評論家で元四国・九州アイランドリーグコミッショナーの石毛宏典[5]が監修を勤めた。

  • 期間中はライオンズが所沢に移転した1979年(昭和54年)から2003年(平成15年)まで使用されたユニフォームを使用した[6]
  • 2008年と同じように対象試合ではそれぞれにサブテーマを設け、1980年代のライオンズを回帰する試みを行った。
  • 一部の試合でゲーム後に当時のライオンズが舞台になったアニメ作品「がんばれ!!タブチくん!!」を上映した。
    • 「第1章・西武ライオンズ誕生~西武ライオンズ球場とともに」 6月27・28日ソフトバンク戦
      • 同カードは26日にも行われたが、大宮公園野球場で行われたため対象外。
    • 「第2章・時代を彩った名勝負~ライバルを生み出した実力のパ」 7月10・11・12日オリックス戦 
    • 「第3章・悲願の日本一奪還~黄金時代への礎」 8月4・5・6日日本ハム戦
      • 4日は大宮公園野球場での開催ながら、ライオンズ・クラシックの対象試合となった。
    • 「第4章・黄金時代到来~球史に輝く栄光の歴史」 8月21・22・23日ロッテ戦
      • 22・23日は薄暮デーゲームで17時試合開始。
    • 「第5章・獅子の名選手~ライオンズスピリットの伝承」 8月25・26・27日楽天戦
      • 「ライオンズ・クラシック2009ナイトシアター・がんばれ!!タブチくん」上映日 7月10日、8月5日、8月21日、8月26日のそれぞれ試合終了から20分程度に渡り、バックスクリーンの電光掲示板「Lビジョン」にて上映。但し、試合が遅延して21:30以後に終了した場合はその日の上映は中止し後日延期とする。
  • 各章ごとの主旨
    • 第1章 福岡から埼玉へフランチャイズを移し、西武ライオンズ球場(現:メットライフドーム)が誕生。[7]新生ライオンズの原点はここにあった
    • 第2章 1980年代、パ・リーグの盟主となったライオンズ黄金時代を彩った名勝負の数々を振り返る
    • 第3章 1982年、埼玉移転後初優勝および日本一(福岡時代を含めると24年ぶり)に輝いたライオンズ。これはその後の西武ライオンズ黄金時代の単なる序章にしか過ぎなかった
    • 第4章 広岡体制で1980年代から90年代前半にかけて数多くのリーグ優勝のタイトルを手にした西武ライオンズの歴史は、パ・リーグの歴史に残る輝かしい栄光の歴史でもあった
    • 第5章 1980年代、パ・リーグの盟主となったライオンズ黄金時代を彩った名選手の数々を振り返り、ライオンズスピリットを後世に語り継ぐ

主な出来事編集

  • 6月28日の始球式は、西武の渡辺監督がピッチャー、西武OBで対戦相手・ソフトバンクの秋山監督がバッターで行った。
  • 7月11日の始球式は、西武OBの田淵幸一阪急ブレーブスOBの今井雄太郎が対決(その際、今井はブレーブスのユニホームで登場)。
  • 8月26日は、ライオンズオフィシャルウェブサイトで募集していた80年代ベストナインを当時の映像とともに発表。

2010年編集

2010年(平成22年)は、キリンビール埼玉支社の特別協賛による「KIRIN presents LIONS CLASSIC 2010」として行われた。

  • 期間中は1973年(昭和48年)から1976年(昭和51年)までの太平洋クラブライオンズ時代のユニフォーム(1973年-1974年に着用した白赤のホーム用セカンドユニフォームで、背番号のネームがない1973年版[8])を着用する。当時のユニフォームとの差異点は、ベルトレスではなくベルト式となっている点。
  • シニアエグゼクティブプロデューサーを豊田泰光、2010エグゼクティブプロデューサーを東尾修、監修を綱島理友が務めた。
  • ライオンズ・クラシックの開催期間中はラッキー7(西武攻撃時)で太平洋クラブ時代の応援歌「ぼくらの憧れライオンズ」(歌:子門真人)が流れ、赤いジェット風船が飛ばされた。
    • 「第1章・パ・リーグ苦難の時代~ライオンズ消滅の危機~」 6月26・27日オリックス戦
    • 「第2章・実力のパ、名選手・名勝負~名手たちの熱い戦い~」 7月13-15日日本ハム戦
    • 「第3章・仕掛けられた遺恨試合~暴徒と化したファン~」 7月27-29日ロッテ戦
    • 「第4章・戦いを彩った球場~名勝負を演出した、今は無き球場たち~」 8月6-8日ソフトバンク戦
    • 「第5章・ファンサービスの原点~球団存続のために~」 8月27-29日楽天戦
  • 各章ごとの趣旨
    • 第1章 黒い霧事件の影響で当時の西鉄ライオンズは球団消滅の危機に立たされそうになり、パ・リーグの存亡も危ぶまれる事態にあった。その当時の時代背景とダメージ回復に努める球団の様々な苦悩を描く
    • 第2章 1970年代は「人気のセ・実力のパ」といわれ、パ・リーグは観客動員などあらゆる面でセ・リーグに大きく劣る状況だったが、セ・リーグに負けない実力選手が数多く存在した
    • 第3章 西鉄時代の平和台事件以来、ロッテ(平和台事件当時は毎日オリオンズ)との遺恨は絶えない。中でもこの1970年代の太平洋対ロッテの試合は常にトラブル沙汰になることが多かったが、そこには観客動員向上に努めようとする球団の企てがあった
    • 第4章 平和台をはじめ、かつては大阪球場日本生命球場後楽園球場など数多くの懐かしい球場が存在した。その思い出に残り、現存しない球場の歩みとそこで綴られたドラマを描く
    • 第5章 パ・リーグの灯を消さないために参加チームはそれぞれに試行錯誤を繰り返しながらファンサービスを展開した。そのファンサービスの原点を改めてたどってみる

主な出来事編集

  • 6月26日の始球式は、エグゼクティブプロデューサーの東尾修が務めた。
  • 7月13日は、フジテレビプロ野球ニュース」の総合司会としてお馴染みの佐々木信也が登場。プロ野球ニュースや70年代のプロ野球界についてトークショーを繰り広げた。また、試合後には当日の試合を「プロ野球ニュース」風に伝えた。
  • 8月29日の試合終了後のセレモニーでは、この日ゲストに招かれた太平洋時代の選手が紹介されたが、紹介は太平洋時代の平和台球場のウグイス嬢が務めた。なお、このウグイス嬢は太平洋に選手として在籍していた吉岡悟の妻である(吉岡悟はセレモニーには参加せず)。

2011年編集

ライオンズ生誕60周年となる2011年(平成23年)は、西鉄ライオンズが誕生した1951年(昭和26年)のユニフォームを復刻。

  • メインテーマは「勝利のDNAを継承せよ!」で、ライオンズ初代監督三原脩の生誕100年となったこの年は、タイトル通り西鉄初期から現在に至るまでの「勝利のDNA」の源流を探る企画が行われた。
  • シニアエグゼクティブプロデューサーは豊田泰光が前年に引き続き担当。また特別ゲストに中西太、特別監修に三原の三男である三原修久を迎えておくる。監修は綱島理友。
  • ライオンズ・クラシックの開催期間中はラッキー7(西武攻撃時)で西鉄時代の球団歌「西鉄ライオンズの歌」が流れる。
    • 「第1章・ライオンズ誕生〜ライオンズ誕生の原点を振り返る〜」7月9日 - 11日 オリックス戦
    • 「第2章・三原脩が築いた西鉄ライオンズ〜知将・三原脩の野球理論〜」7月25日 - 28日 ロッテ戦
    • 「第3章・伝説の名勝負と三原脩の名言〜現在に残る名台詞〜」8月9日 - 11日 日本ハム戦
    • 「第4章・三原脩とライオンズのスターたち〜伝説となった野武士軍団の成り立ち〜」8月16日 - 18日 楽天戦
    • 「第5章・継承される「勝利への執念」〜ライオンズのDNA〜」9月2日 - 4日 ソフトバンク戦
  • 各章ごとの趣旨
    • 第1章 1950年に日本プロ野球史上初[9]となる九州地方を本拠地とするチームが2チーム(西鉄クリッパースと西日本パイレーツ)誕生した。しかし西日本パイレーツは経営難に陥って1年で西鉄クリッパースへの合併を決断。「西鉄ライオンズ」としてスタートする。
    • 第2章 新生西鉄ライオンズは、巨人の名将だった三原脩を監督に迎える。強豪ライオンズを育て上げるその要因は得点能力を高める「流線型打線」。強打者を4番→3番→5番→2番という順番に配置し、今日のクリーンナップと呼ばれる打線の構築を作りあげる。
    • 第3章 三原ライオンズは1954年にパ・リーグ初優勝。そしてその2年後の1956年(昭和31年)、水原茂率いる巨人と日本シリーズで因縁の対決を迎えることになった。当時マスコミが「巌流島の戦い」と取り上げるように、開幕前から異様な熱気が包まれたが、巨人を相手に4勝2敗で見事、日本一のペナントを初めて関門海峡を越えて九州の地に持って帰ることに成功。ライオンズ黄金時代の始まりであった。三原は「野球は筋書きのないドラマ」といった名言を数多く残し、球史に残る名将となるのである。
    • 第4章 三原の考える野球のスタンス、チーム力の強化は「遠心力野球」だと後に語っている。三原は「選手は惑星。それぞれが起動を持ち時には軌道を踏み外す。その発散するエネルギーは強大。遠心力野球はそれを最大限の極限に発揮させる」と、ここのパフォーマンスや自主性を重んじた野球を展開して常勝軍団に育て上げた。
    • 第5章 1931年(昭和6年)の春の早慶戦。当時慶応のピッチャー・水原の牽制球のスキを付いて、早稲田の三原はホームスティールを試み見事成功。これが引き金となり早稲田が勝利した。三原はこの試合での勝利の執念を後の自らの原点と語る。更に時にファンや選手に意標を付かせる「三原魔術」と呼ばれる戦術も勝利への執念の賜物であるといわれている。三原曰く「歴史は勝者によって語り継がれていく」

2012年編集

2012年(平成24年)は、6月10日に西鉄ライオンズOBで元監督の稲尾和久が生誕75周年を迎えるのを機に、稲尾の背番号「24」を埼玉西武ライオンズ初の永久欠番とすることを決定。それを記念して、7月1日の対日本ハム戦にて『ライオンズ・クラシック2012 稲尾和久生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム 〜背番号「24」の記憶〜』と題して開催[10]

  • この試合では、日本プロ野球史上初の試みとして、西武の監督・コーチ・選手全員が西鉄ライオンズの背番号「24」の復刻ユニフォームを着用。ユニホームのデザインは稲尾が1シーズン勝利数の日本記録「42」を挙げた1961年当時のものを再現している。
  • 西武のスタメン紹介はウグイス嬢が紹介した(日本ハムは従来通りスタジアムDJが紹介)。
  • 試合当日のイベントとして、稲尾の功績を振り返るセレモニーが行われた。
  • 前年に続きラッキー7では「西鉄ライオンズの歌」が流れた。
  • 始球式は稲尾氏の長女・庄野多香子(元タレント、現在は日本テレビ社員)が務めた。

2013年編集

2013年(平成25年)は、西武鉄道100周年記念事業の一環として、かつて西武鉄道(初代。現在の西武新宿線を経営していたが、戦時統合により現在の西武池袋線を経営していた武蔵野鉄道、食糧増産との合併で、西武農業鉄道→2代目西武鉄道に。法人としての存続会社は旧武蔵野鉄道)沿線の上井草球場(施設は現存しない。球場敷地跡には杉並区立上井草スポーツセンターが存在する)を本拠地としていた東京セネタース1936 - 1940。のち戦時下の球団再編を経て西日本鉄道の経営による西鉄軍となるが西鉄クリッパース→ライオンズとのつながりは無い)の復刻ユニフォームを着用し、7月26日から7月28日までの対オリックス3連戦にて『東京セネタースと西武鉄道の物語』と題して開催。

オリックス戦が対象試合となったのは、セネタースの公式戦初戦の相手がオリックスの前身にあたる阪急軍であったことに由来する。

2014年編集

2014年(平成26年)は、1979年から1995年に用いられたビジターユニフォームを着用し、6月27日から6月29日までの対ソフトバンク3連戦にて『ライオンズブルーの衝撃』と題して開催。三菱電機伊藤忠テクノソリューションズが特別協賛に入った。

なおこの試合では、ソフトバンクも福岡県への移転1年目だった1989年当時のユニホームを使用した。

関連イベント編集

関連項目編集

脚注編集

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  1. ^ 当初は稲尾和久も企画に関与していた(出典:綱島理友『綱島プロ野球研究所』登録者向けメールマガジン)が、開催前の2007年に逝去した。
  2. ^ 1950年は西鉄クリッパースの他、同年の1年のみ存在していた西日本パイレーツも平和台球場を本拠地としていた。また、同年の西鉄クリッパースは当時福岡県筑紫郡春日村(現:春日市)にあった春日原球場と本拠地を併用していた。
  3. ^ 西日本鉄道および西鉄グループの一部企業は、福岡ソフトバンクホークスのオフィシャルスポンサーにも名を連ねている。
  4. ^ にしてつグループホームページ-ニュースリリース 2008年7月14日付 「西鉄ライオンズ バスカード」販売!
  5. ^ 石毛は1994年(平成6年)のシーズン後、森の退任に伴う新監督就任要請を断り、FA権を行使して福岡ダイエーホークスへ移籍した。石毛が西武の公式行事に深く関与するのはこの移籍以来、15年ぶりとなる。
  6. ^ ライオンズ・クラシックが始まる前の2007年にも数試合限定で1979年1995年(平成7年)までのビジター用ユニフォームを使用している他、2013年の『レジェンド・シリーズ2013』においても1979年~2003年までのホーム用ユニフォームを使用している。
  7. ^ 余談だが、二軍の本拠地である西武第二球場も同年(1979年)に誕生した。
  8. ^ 当時は選手氏名ではなく、通常のホームゲーム用は「TAIHEIYO CLUB」、ビジター用は通常・セカンド共「FUKUOKA」の文字が入っていた。なお、1974年にはセカンドホーム用にも「TAIHEIYO CLUB」が入った。
  9. ^ 戦前の1943年(昭和18年)にも西鉄軍があったが、これは九州を本拠とはしていない。
  10. ^ ライオンズ・クラシック 稲尾和久 生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム ~背番号「24」の記憶~ 埼玉西武ライオンズ、2012年5月1日

外部リンク編集