ラハダトゥ対立 (2013年)

現場となったタンドゥオ村

ラハダトゥ対立(: Lahad Datu standoff) は、2013年ボルネオ島マレーシアサバ州ラハダトゥ郡で発生した事件。スールー王国の継承者だと主張するジャマルル・キラム3世を支持するフィリピン人数百人がラハダトゥ郡のタンドゥオ村を占拠した。日本語でのこの事件の呼称は文献によって異なり、京都大学准教授の山本博之は「「スールー王国」兵士侵入事件」としている[1]

目次

経緯編集

事件の現場となったタンドゥオ村はラハダトゥ郡の中心であるラハダトゥから約130キロメートルの距離にある海辺の小さな村だった[2]。2013年2月12日、フィリピン人の武装集団がタンドゥオ村を占拠した[3]。武装集団の人数は約100 - 400人と報道によって幅があり、また全員がフィリピン人なのか、サバ州の住民が含まれているのかは不明だった[3]。『AFP』の報道では彼らは100 - 300人と推定され、またボルネオ近海のフィリピン領海の島々からボートで上陸したとされている[4]。ジャマルル・キラム3世は『産経新聞』のインタビューで、サバ州に派遣したのは女性含む235人であり、自身の後継者と考えている弟の一人ラジムッディン・キラム[注釈 1]が指揮していると述べた[6]。マレーシアの治安部隊は村を包囲して投降を呼びかけるなど平和的に解決しようと試みた[3]

3月1日、治安部隊と武装集団の間で銃撃戦が発生し、マレーシア側は2人、武装集団からは12人の死者が出た[3]。マレーシア側の死者2人はいずれも警察の対テロ対策特殊部隊であるVAT69部隊英語版の隊員だった[3]。殉職した隊員の1人はトレンガヌ州出身の29歳の男性で妻と2歳、1歳の息子2人がおり、京都大学の山本によればマレーシアでは大きく報道されて国民的な同情を集めたのだという[3]。サバ州の警察本部長はAFPの取材に対し、「すぐに投降させたい。しなければ彼らに対し、思い切った措置に踏み切るだろう」とコメントした[4]

3月2日、タンドゥオ村から約300キロメートル離れたサバ州センポルナ英語版[7]で銃撃戦が発生、警察官6人と武装集団のメンバー7人が死亡した[8]。前日の銃撃戦を逃れて村に侵入した人物がいると通報があり、捜査に向かった地元警察が発砲されて銃撃戦になったとされており、殉職した警察官のほとんどはサバ州出身だった[8]。『AFP』の報道では待ち伏せた武装集団が警官を奇襲したとされており、また武装集団の生き残りの行方は判明していないとされた[7]。同日、サバ州クナック英語版でも武装集団のメンバー10人が逮捕され、うち3人は武装していた[9]

3月3日、センポルナのある村を銃で武装した男1人が占拠しようとし、抵抗した村人に誤って撲殺された[9]。この男は武装集団のメンバーだと名乗っており、遺品からはモロ民族解放戦線の身分証が発見され、「スールー王国軍」の関係者だとみなされた[9][注釈 2]

ナジブ・ラザク首相は鎮圧以外の選択肢が存在しないと表明し[11]3月5日、警察と陸海空3軍による包囲殲滅作戦が開始された[9]。タンドゥオ村とその近くのジュンバトゥ村が攻撃対象となり、戦闘機による空爆と陸上・海上からの包囲攻撃が行われた[9]。マレーシア国営のベルナマ英語版通信では、F-18などの戦闘機が空爆し、その後に陸上部隊が地上から攻撃したと報じられた[注釈 3][11]。治安当局は3月7日までにほぼ全域を制圧したと発表し、武装集団側は少なくとも51人が死亡した[9]

3月6日、国連の潘基文事務局長が平和的解決を求める声明を発表した[12]

3月7日、サバ州の東海岸にある5郡が特別保安地域に指定された[9]。同日、前日の声明に応じてジャマルル・キラム3世が午後0時30分から停戦を実施すると発表し、「戦闘行為を停止して現在の地にとどまり、これ以上は占拠地を拡大しない」と代理人を通じて表明した[12]。だが、マレーシアは停戦の受け入れを拒否し、アフマド・ザヒド・ハミディ英語版国防大臣は「一方的な停戦宣言は受け入れない。無条件降伏だけだ」とTwitterでコメントした[12]。警察当局は掃討作戦開始から7日夕方までに武装集団32人を殺害したと公表、『AFP』によれば一連の事件での死者はマレーシア側と武装集団側の合計で60人に達した[12]

3月11日、治安部隊は村を奪還したが、武装集団は森林でのゲリラ戦を開始した[13]

産経新聞によれば3月10日には国籍不明の十代の少年が治安部隊に射殺され、12日の報道時点でフィリピン人の住民ら92人が武装集団に協力した容疑で逮捕された[13]

10月20日、ジャマルル・キラム3世が死亡した[14]

2016年7月25日、本件で起訴されていた14人中13人に有罪判決が下された[15]

背景編集

サバ(北ボルネオ)領土問題編集

イギリスの北ボルネオ会社設立以前、サバ(北ボルネオ)はブルネイ王国スールー王国それぞれのスルタンによる二重統治を受けていた[16]。ただし、北ボルネオ全域にスルタンの支配が及んでいた訳ではなく、川ごとにいる支配者が川の河口や沿岸部に影響力を持ち、彼らをスルタンが名目上支配するという形式だった[16]。スルタンが川の支配権を売り渡したり譲渡したりすることもあったという[16]

1878年、駐香港オーストリア領事のオフェルベク英語版とイギリス人商人のデント兄弟はスールー王国のスルタンから北ボルネオを一括で買い取った[16]。だが、契約書にあった「pajak」という単語の解釈が両者の間で異なっており、オフェルベクらは「割譲」、スルタンは「租借」と解釈していた[17]。また、毎年5000海峡ドル英語版の支払いについても、北ボルネオ会社側は分割払いと考え、スルタンは毎年の借料だと考えていた[18]。この行き違いがサバ州の領有権問題につながることになった[18]。なお、ブルネイ王国のスルタンが所有する川の支配権に対しては、北ボルネオ会社が約20年かけて川を1本づつ買い取り自社の統治領域として整備した[16]

1961年マラヤ連邦と北ボルネオで「マレーシア連邦」を新たに結成する案が提案されると、フィリピンインドネシアはこれに反対した[18]。このとき、フィリピンはスールー王国はフィリピンの一部であり、北ボルネオはスールー王国の一部であるため北ボルネオの領有権はフィリピンにあると主張した[18]。だが、その後に行われた2回の住民の意向調査でマレーシア結成が支持され、1963年にマレーシアが建国、北ボルネオはマレーシア領サバ州となった[18]。なお、建国後もフィリピンはサバ領有権を有するとの主張を取り下げておらず、サバ州に領事館を設置していない[注釈 4][18]

スールー王国のスルタン編集

北ボルネオ会社と契約書を交わしたのは第29代スルタンのジャマルル・アラムだった[19]。第30、31、32代スルタンは彼の息子であり、第33代スルタンも4人目の息子が就く予定だった[19]。だが、1936年に第32代スルタンのジャマルル・キラム2世が死去した後、後継者で弟のムワリル・ワシト2世も即位直前で死去し、以後しばらくは第二次世界大戦と時期が重なったこともあり、複数の家系から複数のスルタンがたてられていた[20]。WWII終了後の1950年にはイスマイル・キラム1世が第33代スルタンとなったが、彼の死後は弟のブンジュンガン・キラムと息子のムハクッタ・キラムがそれぞれスルタンを名乗り、この2人の家系がそれぞれスルタンを継承するようになった[21]。2013年にサバ州に派遣されたフィリピン人らが支持していたジャマルル・キラム3世はブンジュンガン・キラムの息子であり、彼の次のスルタンだった[20]。また、この2つの家系以外でもスルタンを名乗る人物は存在し、例として2011年にマレーシア国内で第33代スルタンに即位したと発表したモハマド・アクジャン、第31代スルタンの孫でマレーシア政府からスルタンの資産継承人として認められているロディノドがいる[20]。マレーシア政府はスルタンの資産継承者に毎年5300リンギを割譲の分割払い[注釈 5]として支払い続けている[22]

このように事件当時スールー王国のスルタンを名乗っていた人物はジャマルル・キラム3世だけではなく[19]、またそもそも「スールー王国のスルタン」自体、フィリピン社会においてほとんど影響力を有していなかった[22]。京都大学の山本は、2012年10月にモロ・イスラム解放戦線がフィリピン政府と和平の枠組み合意を結び自治政府組織に向けて交渉を開始したこと、その直前の2012年9月頃に「スールー王国のスルタン」を名乗る人物が増えたことから、スールー王国の末裔たちはミンダナオ島の将来に関わる和平や自治政府組織に参加できず苛立ちや危機感を覚え、自分たちも当事者として加わることを望んでいたのだと述べている[22]

ジャマルル・キラム3世の主張編集

『産経新聞』のインタビューによれば、事件以前にマレーシアに交渉を3回求めたが応じなかったと述べている[6]。また、サバ州に派遣した後も水面下でマレーシアとの折衝を続けていたが、折衝の最中にマレーシアが攻撃してきたと主張している[6]。今回の事件の目的としてはマレーシア・フィリピン両政府による待遇改善をあげ、「われわれに敬意を払わず支援も利益の分配もない。マレーシアは(サバの租借料を)5300リンギット(約16万円)しか支払っていない。それも年間だ」と語った[6]モロ民族解放戦線モロ・イスラム解放戦線の行為は犯罪だと述べ、彼らとの協力関係を否定した[6]

事件への反応・評価と影響編集

クアラルンプールのフィリピン大使館前では、この事件に対する抗議デモが発生した[12]。また、マニラの大統領府付近でもベニグノ・アキノ大統領の事件に対して抗議が発生した[12]。3月中旬にマニラを訪れた『産経新聞』の青木伸行によれば、フィリピンの一般国民の大多数はキリスト教徒であり、彼らの多くはスールー王国の歴史やサバ州の領有権問題の経緯を知らず、キラム3世を単なる危険人物とみているようだったという[23]

当時、マレーシアはフィリピンに対し、ジャマルル・キラム3世を国内法で裁くよう求め、さもなければ身柄の引き渡しを求めると表明していた[13]

『AFP』の記者M・ジェガセサンは2013年3月5日の記事で、「事件は、マレーシアの手薄な治安体制と、フィリピン南部の無法地帯を拠点とするイスラム過激派の脅威をあらわにした」と述べた[11]

同年3月12日の『産経新聞』の青木伸行の記事では、この事件はラハダトゥ襲撃 (1985年)英語版シパダン誘拐 (2000年)英語版のような過去の事件とは性質が異なると指摘されているものの、マレーシア政府は当初「侵入者」と認識していた武装集団を「テロリスト」として扱い始めていると報じられた[13]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 『産経新聞』では「ラジャ・ムダ・アジムディン・キラム」表記。京都大学の山本は「ラジムッディン・キラム(Agmibuddin Kiram)」表記で別名として「Azzimudie Kiram」も記載しており、「ラジャムダ (raja muda)」、つまり皇太子(もしくは副王)としてサバ州に向かったとされている[5]
  2. ^ 京都大学の山本によれば、「モロ民族解放戦線」 (MNLF) は1970年代にはムスリムの反政府運動団体としてフィリピンで強い勢力を有していたものの、サバ州では1990年代には地元の若者が所属して住民の揉め事を仲裁、解決する団体になっており、彼はMNLFの身分証を持っているからといって反政府活動に関与していることにはならないと述べている[10]
  3. ^ 『AFP』によれば、当時現地から約20キロメートルの距離にいたマレーシアの記者が同日未明に最低2機の戦闘機が上空を通過したのを目撃していた
  4. ^ 山本によれば、多民族の集まるサバ州では民族間で問題が起きたときはそれぞれの民族の長の間で協議を行い裁定を行う仕組みがある。外国人の場合はパスポートを提示して大使館・領事館を長として示すことになるのだが、フィリピン人の場合は領事館がないためサバ州での立場が悪くなっているという。
  5. ^ 山本は「割譲の分割払い」としているが、『AFP』では「名目上の租借料」[4]、『産経新聞」では「租借料」[6]と表記されている。

出典編集

  1. ^ 山本博之 2014.
  2. ^ 山本博之 2014, p. 215.
  3. ^ a b c d e f 山本博之 2014, p. 216.
  4. ^ a b c M. Jegathesan (2013年3月2日). “ボルネオ島に数百人のフィリピン人が立てこもり、14人死亡”. AFPBB news. http://www.afpbb.com/articles/-/2931799 2017年11月3日閲覧。 
  5. ^ 山本博之 2014, p. 221、222、235.
  6. ^ a b c d e f 青木伸行 (2013年3月18日). “「スールー王国末裔の反乱」の背景 利益と権利の確保、国連の介入求める”. 産経ニュース (産経新聞). http://www.sankei.com/world/news/130318/wor1303180003-n1.html 2017年11月3日閲覧。 
  7. ^ a b “ボルネオ島で警官を奇襲、7人死亡 立てこもり事件と関係か”. AFPBB news. (2017年3月4日). http://www.afpbb.com/articles/-/2931976 2017年11月3日閲覧。 
  8. ^ a b 山本博之 2014, p. 217.
  9. ^ a b c d e f g 山本博之 2014, p. 218.
  10. ^ 山本博之 2014, p. 230.
  11. ^ a b c M. Jegathesan (2013年3月5日). “マレーシア軍、立てこもり武装集団の掃討作戦を開始”. AFPBB news. http://www.afpbb.com/articles/-/2932310 2017年11月3日閲覧。 
  12. ^ a b c d e f *“ボルネオ島立てこもり、比武装集団が停戦宣言 死者60人に”. AFPBB news. (2013年3月7日). http://www.afpbb.com/articles/-/2932787 2017年11月3日閲覧。 
  13. ^ a b c d 青木伸行 (2013年3月12日). “サバ州掃討開始から1週間 短期決戦阻まれマレーシア苦慮”. 産経ニュース (産経新聞). http://www.sankei.com/world/news/130312/wor1303120002-n1.html 2017年11月3日閲覧。 
  14. ^ “Jamalul Kiram III”. The Telegraph. (2013年10月25日). http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/10405810/Jamalul-Kiram-III.html 2017年11月3日閲覧。 
  15. ^ 金子奈央 (2017). “ぶれないナジブ政権,不安定化した経済:2016年のマレーシア”. アジア動向年報 (日本貿易振興機構アジア経済研究所). http://hdl.handle.net/2344/00049012. 
  16. ^ a b c d e 山本博之 2014, p. 219.
  17. ^ 山本博之 2014, p. 219、220.
  18. ^ a b c d e f 山本博之 2014, p. 220.
  19. ^ a b c 山本博之 2014, p. 221.
  20. ^ a b c 山本博之 2014, p. 221、222.
  21. ^ 山本博之, p. 222.
  22. ^ a b c 山本博之 2014, p. 223.
  23. ^ 青木伸行 (2013年4月1日). “マーライオンの目 スルタン末裔の反乱”. 産経ニュース (産経新聞). http://www.sankei.com/world/news/130401/wor1304010030-n1.html 2017年11月3日閲覧。 

参考文献編集