ラルフ・シューマッハ
この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。(2018年10月) |
ラルフ・シューマッハ(Ralf Schumacher, 1975年6月30日 - )は、ドイツ出身の自動車レーサー。元F1ドライバー。F1ワールドチャンピオンであるミハエル・シューマッハの実弟。
| ラルフ・シューマッハ | |
|---|---|
|
ドイツ・ケルンのチャリティーイベントにて(2016年11月) | |
| 基本情報 | |
| フルネーム | Ralf Schumacher |
| 略称表記 | RSC |
| 国籍 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 | 1975年6月30日(44歳) |
| F1での経歴 | |
| 活動時期 | 1997-2007 |
| 所属チーム |
'97-'98 ジョーダン '99-'04 ウィリアムズ '05-'07 トヨタF1 |
| 出走回数 | 182 |
| タイトル | 0 |
| 優勝回数 | 6 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 27 |
| 通算獲得ポイント | 329 |
| ポールポジション | 6 |
| ファステストラップ | 8 |
| 初戦 | 1997年オーストラリアGP |
| 初勝利 | 2001年サンマリノGP |
| 最終勝利 | 2003年フランスGP |
| 最終戦 | 2007年ブラジルGP |
フォーミュラ・ニッポンの初代チャンピオンを獲得し、F1チーム「ジョーダン」「ウィリアムズ」「トヨタF1」などで活躍した。
プロフィール編集
F1参戦以前編集
ミハエルと同じくカートレース、フォーミュラ・フォードなどを経て、1994年にドイツF3初参戦、シリーズ3位に食い込み注目される。翌1995年もドイツF3に参戦。ノルベルト・フォンタナとチャンピオン争いを繰り広げるが、惜しくもシリーズ2位でこの年のシーズンを終えた。この年のマカオGPでは史上初めて、兄弟で優勝の記録を達成する(ミハエルは1990年に優勝)。
1996年編集
ミハエルの勧めもあり、ラルフは舞台を日本に移し、チーム・ルマンよりフォーミュラ・ニッポンに参戦したほか、全日本GT選手権(JGTC)にもチーム・ラーク・マクラーレン(後のチーム郷)のマクラーレンF1 GTRで参戦した(パートナーは服部尚貴)。Fニッポンでは3勝を挙げ初代チャンピオンを獲得し、JGTCでもシリーズ2位と活躍した。この年のみ契約とメンテナンス上の兼ね合いからか、ヘルメットをそれまで使用していた「ベル」ではなく、日本の「アライ」製ヘルメットを使用していた。同年、マクラーレンでF1をテストドライブする。マクラーレンのロン・デニスは、シューマッハを来季のテストドライバーとして採用しようとしたが、シューマッハが難色を示したため実現しなかった[2]。
ジョーダン編集
1997年編集
これもまたミハエルと同じく、ジョーダンからF1デビューを果たす。第3戦アルゼンチンGPで3位フィニッシュ、F1参戦からわずか3戦目で表彰台に上った。しかし、速さを見せつけたその一方で荒っぽいドライブも目立ち、17戦中10戦もリタイア。また、初表彰台のアルゼンチンGPでは先行していたチームメイトのジャンカルロ・フィジケラと絡みリタイアに追いやってしまった。
1998年編集
速さを見せる一方、荒さは相変わらずであったが濡れた路面に対しての高い対応力を見せる。第13戦ベルギーGP、スパ特有の雨でレースは大荒れの中2位でフィニッシュ。チームメイトのデイモン・ヒルがジョーダンチームに初優勝をもたらした記念すべきレースに、1-2フィニッシュという形で華を添えた。
ウィリアムズ編集
1999年編集
名門ウィリアムズに移籍。チームメイトは、前年まで2年連続のCARTチャンピオンだったアレックス・ザナルディだった。この年のウィリアムズは戦闘力に欠け、ザナルディは期待に応えられず0ポイントでシーズンを終えた一方、シューマッハは3度表彰台に上り、第13戦イタリアGPでは自身初となるファステストラップも記録した。波乱のヨーロッパGPでは非力なスーパーテックエンジンを駆ってマクラーレンを抜くなど一時はトップを走る奮闘。結局この年のシューマッハは35ポイントを挙げ、シリーズ6位だった。
2000年編集
ウィリアムズはBMWエンジンを搭載。ジェンソン・バトンをチームメイトに迎える。開幕戦で3位表彰台と上々の滑り出しをみせるが、結局未勝利に終わる。リタイアは7回を数え、ランキングでは24ポイントにとどまるも、前年より一つ上の5位となった。
2001年編集
CART史上最年少チャンピオンのファン・パブロ・モントーヤをチームメイトに迎える。第4戦サンマリノGPで、参戦5年目にしてついにF1初勝利を挙げる。母国ドイツGPでも勝利し、この年は最終的に3勝を挙げ、結果49ポイントを獲得し、前年を上回るランキング4位でシーズンを終えた。
2002年編集
開幕からフェラーリが圧倒的な戦力を見せつけシーズンを席巻。大苦戦の一年となる。序盤の第2戦マレーシアGPでチーム唯一の勝利を挙げたが、チームメイトのモントーヤに獲得ポイントで上回られ、ランキング4位。
2003年編集
2勝を挙げ、チームもコンストラクターズタイトルに手が届きそうであったが、僅差でフェラーリにさらわれる。自身は自己最多の58ポイントを獲得したもののランキングでは5位に終わる。モントーヤは表彰台9度で82ポイントと、チームメイトに対し大きく遅れをとった。このウィリアムズ在籍時代には、幾度かの優勝争いにこそ絡むも、チャンピオン争いをするには一歩足りない状況が続いた。またチームメイトのモントーヤを過剰に意識するあまり、レース中に同士討ちすることがあった。
2004年編集
この年のウィリアムズは、フェラーリはもとより、B・A・Rやルノー勢に対しても苦戦を強いられる。そんな中でシューマッハは第9戦アメリカGP決勝で、高速の最終コーナーで大クラッシュを起こし背骨を負傷、6戦欠場を余儀なくされ、結局この年は未勝利に終わる。またシーズン中に、翌シーズンからのトヨタ加入が発表され、6年間在籍したウィリアムズから離れることが決まった。また、同年の鈴鹿が兄ミハエルとの最後の1-2フィニッシュとなったが、兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフは2位、という結果であった。
トヨタ編集
2005年編集
第2戦マレーシアGPで5位フィニッシュし、トヨタ移籍後の初入賞を果たした。以後もコンスタントに入賞を記録し、ついにハンガリーGPで移籍後初となる3位表彰台を獲得した。また日本GPでポールポジション、中国GPで3位表彰台を獲得するなど終盤戦でも活躍して計14戦でポイントを獲得し、チームメイトのヤルノ・トゥルーリをドライバーズランキングで上回ることとなった。
2006年編集
トヨタは前年までのミシュランタイヤからブリヂストンタイヤに変更し、序盤は対応に苦労する。第3戦オーストラリアGPではミハエルのクラッシュ、後続から迫っていたモントーヤのトラブルにも助けられ、チームにとっても自身にとってもシーズン唯一の表彰台3位獲得。中盤~終盤にかけて、マシンパフォーマンスは向上するが、信頼性が伴わずリタイアが頻発。この年もトゥルーリをポイントで上回っている。
2007年編集
マクラーレンとフェラーリが他チームを圧倒し、その後にBMWザウバーがつけるという構図がシーズンを通して一貫していた。その中でトヨタは、入賞枠をルノー、ウィリアムズ、レッドブル、あたりと激しく奪い合うことになる。チームメイトのトゥルーリは、予選では常にその集団から抜けだしQ3に進出する一方で、シューマッハはシーズンを通して予選で中団から後方に沈むことが多かった。ハンガリーGPではこの年最高の6位入賞を果たし復調の兆しを見せたが、結局入賞はこれを含めて僅か3回に留まり、日本GP終了後の10月1日、2007年シーズン限りでのトヨタチーム離脱を発表。トヨタでは思うような結果を残せず、「今が新しい挑戦を探すべきときだと思った」と言い残し、3年間在籍していたトヨタを離れ、ほかのチームに移籍することを決めた。結局、自身は現役続行を公言していたものの移籍先チームがなく、2007年シーズンをもってF1から事実上の引退となった。12月6日ヘレスで行われたテストにフォース・インディアから参加しテストを行った。このテストでフォース・インディアのドライバーとしての起用のアピールしたと見られていたが、シューマッハは「テストを行ったのは友人であるビジェイ・マリヤに頼まれていたからであって、私はフォース・インディアでレースをする気はない」としている[3]。また、2006年から契約をしていたマネージャーのハンス・マールとも袂を分かち、自身の兄であるミハエルからも引退を勧められたと言われている。2008年からはDTMへの参戦が有力視されていた際にはミハエルから「自分たち兄弟は、DTMを速く乗ることは難しい」と言われている。なお、トヨタの後任がドイツ人のティモ・グロック、ウィリアムズの後任がドイツ人のニック・ハイドフェルド、ジョーダンの後任がドイツ人のハインツ=ハラルド・フレンツェンと、彼の後任は同じドイツ人が多い。
DTMでの経歴編集
2008年編集
メルセデスチームで“MercedesBenz AMG-Cクラス”を駆りDTMに参戦している。同年の第7戦ニュルブルクリンクのレースで8位入賞し、初ポイントを獲得。第9戦のカタルーニャでも7位入賞し2ポイント獲得したもののDTM参戦初年は計3ポイント、シリーズ14位に留まり厳しいデビューイヤーとなった。
2009年編集
2008年を最後に引退するのではないか、という噂も出ていたが、2009年はAMGメルセデスCクラスの最新型マシンでの参戦が決まり、シューマッハは「1年落ちのマシンから今年最新のメルセデスCクラスに変わることは非常に大きなチャンス。2008年が学習の年であることはチームにも明らかなことだった。だから昨年の成績には満足している。メルセデスが最新型マシンを与えてくれたことへの信用に応えたいと思っている。DTMシリーズが世界最高のツーリングカーシリーズであり、ドライバーは1メートルとコンマ1秒のために激しく戦っている。わたしがパドックで多くの観客と接することでも分かるように、ファンもわたしと同じようにこのDTMシリーズが好きだ。観客達はDTM以外のどんなレースでもこれ以上のバリュー・フォー・マネーは得ることはできないだろう」とコメントしている。
2009年はわずか入賞三回、計9ポイントを獲得しシーズンを終えた。
2010年編集
2010年はHWAチームから参戦し、3ポイント獲得に終わったものの第5戦ノリスリンクではポールポジションを獲得。スタートでストールしてしまったが、ファステストラップを記録するなど 随所で速さを見せた。
評価編集
デビュー当初から完走すれば入賞できる位置にいることが多いもののリタイアも多い。トヨタへの移籍後にはウィリアムズでのキャリア後半にしばしば見られたような、単純なミスは少なくなった。
6回の優勝と6回のPPを獲得しており、当時のF1を代表するドライバーの一人であった。
記者マイク・ローレンスは、2005年インディアナポリスの金曜フリー走行でのクラッシュがなければ、もっと成功を収められただろうという趣旨の分析をしている[4]。
エピソード編集
- 当時未定であった1997年のチームメイトには誰がよいかという質問に、昨年のワールドチャンピオン、デイモン・ヒルと即答していた。
- モナコGPの完走まで6年かかった。しかし、2002年に初完走を果たして以降は全て完走している。
- アメリカGPの完走は1回のみ。2004年と2005年には大クラッシュも経験しており、相性は非常に悪い。
- 兄ミハエルとは不仲であると言われている(F1時代は誕生日パーティなどがパドックで行われたりすると、チームが違うがお互い「兄弟」として出向いていた)。ドイツの新聞紙「ビルト」によると、口も利かないほどだという。ラルフはミハエルに関して「ミハエルと僕はすごく違う。趣味も違うし、別の人生を歩いている。兄弟と親友になる必要はない。」と語っている[5]。
レース戦績編集
ドイツ・フォーミュラ3選手権編集
| 年 | チーム | エンジン | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | DC | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1994年 | オペル・チームWTS | オペル | A | ZOL 1 C |
ZOL 2 3 |
HOC 1 3 |
HOC 2 9 |
NÜR 1 Ret |
NÜR 2 8 |
WUN 1 2 |
WUN 2 Ret |
NOR 1 Ret |
NOR 2 10 |
DIE 1 2 |
DIE 2 2 |
NÜR 1 2 |
NÜR 2 3 |
AVU 1 2 |
AVU 1 14 |
ALE 1 1 |
ALE 2 2 |
HOC 1 DSQ |
HOC 2 6 |
3位 | 158 |
| 1995年 | A | HOC 1 2 |
HOC 2 2 |
AVU 1 5 |
AVU 1 6 |
NOR 1 1 |
NOR 2 2 |
DIE 1 1 |
DIE 2 1 |
NÜR 1 2 |
NÜR 2 3 |
ALE 1 3 |
ALE 2 3 |
MAG 1 10 |
MAG 2 Ret |
HOC 1 DSQ |
HOC 1 DSQ |
2位 | 171 |
全日本GT選手権編集
| 年 | チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 順位 | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996年 | チーム ラーク・マクラーレンGTR | マクラーレン・F1-GTR | GT500 | SUZ 1 |
FSW Ret |
SEN 15 |
FSW Ret |
SUG 1 |
MIN 1 |
2位 | 60 |
フォーミュラ・ニッポン編集
| 年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 順位 | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996年 | X-JAPAN Racing Team Le Mans | SUZ 3 |
MIN 1 |
FSW 19 |
TOK 1 |
SUZ 4 |
SUG Ret |
FSW Ret |
MIN 1 |
SUZ 4 |
FSW Ret |
1位 | 40 |
FIA GT選手権編集
| 年 | チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1997年 | AMGメルセデス | メルセデス・ベンツ・CLK-GTR | GT1 | HOC | SIL | HEL | NÜR | SPA 5 |
A1R | SUZ | DON | MUG | SEB | LAG | 29位 | 2 |
(key)
F1編集
ドイツツーリングカー選手権編集
| 年 | チーム | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2008年 | ミュッケ・モータースポーツ | メルセデス・ベンツ・Cクラス 2007 | HOC1 14 |
OSC 10 |
MUG Ret |
LAU 13 |
NOR 16 |
ZAN 12 |
NÜR 8 |
BRA 15 |
CAT 7 |
BUG Ret |
HOC2 14 |
14位 | 3 |
| 2009年 | HWAチーム | メルセデス・ベンツ・Cクラス 2009 | HOC1 9 |
LAU 10 |
NOR 6 |
ZAN 10 |
OSC 11 |
NÜR 7 |
BRH 9 |
CAT 13 |
DIJ 5 |
HOC2 Ret |
11位 | 9 | |
| 2010年 | HOC1 9 |
VAL Ret |
LAU 9 |
NOR 11 |
NÜR 6 |
ZAN 9 |
BRH Ret |
OSC 9 |
HOC2 Ret |
ADR 12 |
SHA 10 |
14位 | 3 | ||
| 2011年 | HOC1 3 |
ZAN 11 |
SPL 2 |
LAU 12 |
NOR 6 |
NÜR Ret |
BRH 5 |
OSC Ret |
VAL 13 |
HOC2 11 |
8位 | 21 | |||
| 2012年 | メルセデス・ベンツ・Cクラスクーペ | HOC1 7 |
LAU 10 |
BRH 19 |
SPL 11 |
NOR Ret |
NÜR 13 |
ZAN 10 |
OSC 13 |
VAL 14 |
HOC2 9 |
17位 | 10 |
脚注編集
- ^ 『F1速報特別編集 ミハエル・シューマッハ全記録 1984 - 2006』、イデア、2007年、p131
- ^ 『1996 F1総集編 AS+F』 三栄書房、1996年、53頁。
- ^ autosport.com 2008年2月21日
- ^ “タイヤ by マイク・ローレンス”. F1通信. (2009年11月15日) 2011年3月25日閲覧。
- ^ F1-Live.com 2006年9月13日[リンク切れ]
関連項目編集
- モータースポーツ
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
- 兄弟スポーツ選手一覧
- ウィリー・ウェーバー - シューマッハ兄弟の元マネージャー。
- フランツ・トスト