ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン (1700-1755)

ルイ・オーギュスト・ド・ブルボンLouis Auguste de Bourbon, 1700年3月4日 - 1755年10月1日)は、ブルボン家統治期のフランス王家の一員、軍人。ドンブ公Prince de Dombes)、ウー伯爵Comte d'Eu)。ルイ14世の庶系の孫にあたる。

ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン
Louis Auguste de Bourbon

称号 ドンブ公
ウー伯
出生 (1700-03-04) 1700年3月4日
フランス王国ヴェルサイユ宮殿
死去 (1755-10-01) 1755年10月1日(55歳没)
フランス王国フォンテーヌブロー宮殿
埋葬 フランス王国ソー
家名 ブルボン家
父親 メーヌ公ルイ・オーギュスト
母親 ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン
サイン
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生涯1 編集

ルイ14世とモンテスパン侯爵夫人の間の長男であるメーヌ公爵ルイ・オーギュストと、その妻コンデ公アンリ3世の娘であるルイーズ・ベネディクトの間の息子として生まれた。母がルイ15世の摂政オルレアン公爵を失脚させようと画策して失敗したため(チェッラマーレ陰謀事件)、父は1718年にその政治生命を断たれた。そのため2年ほどは幽閉された両親と離れジアンの城で養育係の世話を受けて育った。軍人としての才能に恵まれなかった父と違い軍指揮官としての才能に長け、オイゲン公麾下のハプスブルク帝国軍に入隊して墺土戦争ポーランド継承戦争オーストリア継承戦争を戦った。

フランスではスイス人近衛連隊の連隊長、ラングドック地方の総督、王家の狩猟長などを務めた。1751年に母の死に伴いアネドルーを相続する。ドンブ公はヴェルサイユ宮廷には顔を出すのを避けてアネ城館で暮らし、アネの地所を拡大させていった。ウール川の水をアネ城館の庭園に導くための水圧装置を設置したりしている。生涯を独身を通し子供も持たず、1755年フォンテーヌブローの森で決闘した際の傷が原因で死去した。メーヌ公爵家の家督は同様に未婚の弟ルイ・シャルルが継いだ。

参考文献 編集

  • Histoire généalogique et chronologique de la maison royale de Bourbon, Band 2. Abschnitt Bourbon du Maine, S. 461 ff., online abrufbar unter [1]