ル・ポン=ド=モンヴェール

ル・ポン=ド=モンヴェールLe Pont-de-Montvert)は、フランスラングドック=ルシヨン地域圏ロゼール県の旧コミューン。2016年1月1日、合併によってポン=ド=モンヴェール=シュド=モン=ロゼール(Pont-de-Montvert-Sud-Mont-Lozère)となった。

Le Pont-de-Montvert


行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ラングドック=ルシヨン地域圏
(département) ロゼール県
(arrondissement) フロラック郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 48116
郵便番号 48220
市長任期 アラン・ジャファール
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes des Cévennes au Mont Lozère
人口動態
人口 282人
2011年
人口密度 3.1人/km2
住民の呼称 Pontois ou Montvertipontains[1]
地理
座標 北緯44度21分51秒 東経3度44分40秒 / 北緯44.36417度 東経3.74444度 / 44.36417; 3.74444座標: 北緯44度21分51秒 東経3度44分40秒 / 北緯44.36417度 東経3.74444度 / 44.36417; 3.74444
標高 平均:? m
最低:665m
最高:1699 m
面積 90.25km2
Le Pont-de-Montvertの位置(フランス内)
Le Pont-de-Montvert
Le Pont-de-Montvert
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地理 編集

県南部、ロゼール山地南麓にある。コミューン内の高い山の上、オピタル集落近くに水源のあるタルヌ川が流れる。村落の南側からブジェス山地が始まる。

歴史 編集

 
 
グリザック城

ル・ポン=ド=モンヴェールという地名は、モンス(Mons)という姓名に由来している。アルビジョア十字軍の時代、トゥールーズ伯レーモン5世の家臣であったモンス領主は、部下を連れて迫害から逃れた。そしてスペインからやってきたユダヤ系の徴集兵たちもトゥールーズ伯領へ避難した。現在のコミューンより標高の高い場所、タルヌ川を見下ろす位置であるシャステル岩の下に、いまだカタリ派の小さな要塞跡を識別することができる。2代目の武装した代官の名ジャン・ダンドレの誓いによって証明されているように、この時代より、ポン=ド=モンヴェールは宗教戦争勃発時からの抵抗勢力の温床であった。村落は、1702年7月24日、カミザールの乱が始まった地としてよく知られている。異端審問官のシェラ神父は新教徒の大量処刑を行い、悪名高いその残虐さでコミューンを数年間掌握していた。彼は、拘留や拷問を行う場所としてかつての代官ジャン・ダンドレの家を用いた。反乱の指導者の一人、カミザールのエスプリ・セギエは、ル・ポン=ド=モンヴェールのタルヌ河岸で生きながら火あぶりにされる前に右手を切断された。17世紀、ル・ポン=ド=モンヴェール村落は行政上はフリュジェールとフラシネ・ド・ロゼール教区に属していた。

イギリスの作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、1878年9月28日にル・ポン=ド=モンヴェールに立ち寄っていることが、1879年に発行された紀行文『旅はろばを連れて』の中で記されている[2]

史跡 編集

人口統計 編集

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2011年
467 384 312 305 281 272 285 282

参照元:1999年までEHESS[3]、2004年以降INSEE[4][5]

脚注 編集