ルーマニア社会主義共和国
- ルーマニア社会主義共和国
- Republica Socialistă România
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← 1947年 - 1989年 →
(国旗) (国章) - 国の標語: 万国の労働者よ、団結せよ!
- 国歌: 壊された足枷
我ら、ルーマニアを讃える
三色旗 -
公用語 ルーマニア語 首都 ブカレスト 現在 ルーマニア
ルーマニア社会主義共和国(ルーマニアしゃかいしゅぎきょうわこく、ルーマニア語: Republica Socialistă România)は、1945年から1989年まで、ルーマニアに存在したルーマニア共産党一党独裁の社会主義国である。1965年8月21日までの国号はルーマニア人民共和国(ルーマニアじんみんきょうわこく、Republica Populară Romînă)であった。
1945年5月8日の第二次世界大戦の敗北によって暫定的に成立し、1947年12月30日にルーマニア王国の国王ミハイ1世が退位して正式に成立した。1989年12月25日のルーマニア革命によって崩壊した。
歴史編集
一党独裁国家の成立編集
第二次世界大戦に枢軸国側で参戦したルーマニア王国は、1945年5月8日の敗戦によって解体され、ソビエト連邦に占領された。ソビエト連邦軍の占領下で、1947年12月30日に共産党政府が成立。君主制は廃止され、ルーマニア共産党の一党独裁を布く寡頭共和制によるルーマニア人民共和国(Republica Populară Romînă)が成立した。敗戦処理としてベッサラビアとブコヴィナをソビエト連邦に割譲させられ、政治的にもソビエト連邦共産党の強い影響下に置かれた。
1965年8月21日には国号をルーマニア社会主義共和国に改称した。
チャウシェスクによる独裁編集
1965年に成立したニコラエ・チャウシェスク政権は、次第にソビエト連邦との距離を取るようになり、西側諸国や中ソ対立以降の中華人民共和国に接近し提携も行うなど、「東欧の異端児」と呼ばれる独自の路線を進んだ。ルーマニアは豊富な資源を基盤に政権運営を行い、西側からの巨額な借款を行った。
結果、国内では対外債務返済の為に国民の生活が犠牲になる一方で、チャウシェスクが「国民の館」と称する豪奢な宮殿を建設するなどの奢侈に走り、1980年代にはルーマニアの経済は失速。ソ連でゴルバチョフによるペレストロイカが始まる中でも、その流れに抗う姿勢を取り続けた。
ルーマニア革命編集
1989年に起こった東欧民主化革命の波は、ルーマニアにも波及した。他の東欧諸国が無血革命で民主化を成し遂げる中、ルーマニアにもこのような動きが波及するのを恐れ、プラハの春とは正反対にワルシャワ条約機構軍及びソビエト連邦軍による軍事介入を求めたが、既に国内改革に踏み切っていたソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長はこれを一蹴し、事実上、チャウシェスクはソビエト連邦に見限られる形となった。それでも、チャウシェスク書記長はなおも権力の保持を図ったが、首都ブカレストを含む全国規模で暴動が発生。
また、ソビエト連邦軍の介入がないことが確実となったことで、ルーマニア軍も反旗を翻し、1989年12月16日に勃発したルーマニア革命によって、12月25日にチャウシェスク夫妻は処刑され、民主化が実現した。暫定政権として救国戦線評議会が結成され、事実上の政府となった。同評議会はイオン・イリエスクを議長に選出した。
セクリターテ編集
ルーマニア社会主義共和国で特徴的な要素が、秘密警察であるセクリターテ(ルーマニア語: Securitate、複数形がSecuritateaセクリターテア)である。このセクリターテの監視下で、民衆は思想・言論の自由を圧迫され、息もできない生活を強いられた。特にチャウシェスク政権下では、至る所に盗聴器が設置され、小学校にまでセクリターテの間諜が入るほどの凄まじさであった。
国旗編集
国章編集
関連項目編集
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