レイラ・スリマニ

レイラ・スリマニ(Leïla Slimani、1981年10月3日 - )はモロッコに生まれ、フランスで活躍する作家ジャーナリスト。第二作『優しい歌』(邦題『ヌヌ ― 完璧なベビーシッター』)で2016年ゴンクール賞を受賞。2017年3月23日、芸術文化勲章を受け[1]、2017年11月6日付でエマニュエル・マクロン大統領にフランコフォニー担当大統領個人代表(フランコフォニー国際機関常任理事会フランス代表)に任命された[2]

レイラ・スリマニ
Leïla Slimani
Leïla Slimani (cropped).jpg
2017年
誕生 (1981-10-03) 1981年10月3日(38歳)
モロッコの旗 モロッコラバト
職業 作家ジャーナリスト
言語 フランスの旗 フランス
国籍 モロッコの旗 モロッコ
フランスの旗 フランス
最終学歴 パリ政治学院
ジャンル 小説評論随筆
代表作 『ヌヌ ― 完璧なベビーシッター』
主な受賞歴 ゴンクール賞
芸術文化勲章
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背景編集

レイラ・スリマニは1981年10月3日、モロッコ王国の首都ラバトで銀行家オトマン・スリマニフランス語版耳鼻咽喉科医ベアトリス=ナジャット・ドブ=スリマニの間に生まれた。モロッコ北部の都市フェズに生まれた父オトマンは、奨学金を受けてフランスで経済学を学んだ。1970年代にモロッコ政府の経済担当閣外相を務めた後、モロッコの不動産銀行CIHの頭取に就任したが、レイラが13歳のとき、公金横領の疑いをかけられ、2004年に死去。容疑が晴れたのは没後のことであった[3][4]メクネス生まれの母ベアトリスはモロッコで医学を修めた最初の女性の一人である。母方の祖母アンヌは(フランス)アルザス地方出身で、第二次世界大戦中に原住民部隊としてフランス軍に徴用されたラクダールと結婚し、モロッコに逃れた。アンヌはアラビア語を学び、イスラム教に改宗。ラクダールとともに無料診療所を立ち上げた。スリマニはこうした両親や祖父母の生き方に多くを学び、その後の彼女の活動を決定づけたとインタビューなどで繰り返し語っている[3][4]

学業編集

スリマニ家ではアラビア語を話さず、啓蒙思想(特にヴォルテール)を支持する両親から非宗教的な教育を受けた[5]フランス語による教育を行う現地のデカルト高等学校に通い、バカロレア取得後に渡仏。2年間のグランゼコール準備級を経て、パリ政治学院に学んだ。シュテファン・ツヴァイクの作品世界に魅せられてプラハチェコ)、ウィーンオーストリア)、ブダペストハンガリー)、モスクワロシア連邦)を旅し、知見を広げた。モロッコの映画監督のもとで映画制作を試み、パリの演劇学校クール・フローランフランス語版に学んだりもしたが、「役者には向いていないし、映画界にも興味が持てなかった」として[4]、パリ高等商業学校(グランゼコール ESCP EUROPE)に入学し、報道部門で学んだ。

ジャーナリストから作家へ編集

ジャーナリズム編集

同校の出身者で政治評論家・週刊誌『レクスプレスフランス語版』の編集長クリストフ・バルビエフランス語版に出会い、バルビエの推薦で『レクスプレス』誌で研修を受け、さらにチュニスチュニジア)に本拠を置く政治・経済週刊誌『ジュンヌ・アフリックフランス語版』(若いアフリカ)のモロッコ記者として採用された[3]

4年後に『ジュンヌ・アフリック』社を辞任し、ジャーナリストから作家に転向。銀行員と結婚し、育児の傍ら、著作活動を続けた[5]。2013年に最初の原稿『食人鬼の庭で』を出版社に持ち込んだが断られ、夫の勧めに従ってガリマール社の編集委員でクリエイティブ・ライティング講座を行っていたジャン=マリー・ラクラヴティーヌフランス語版に師事した。

『食人鬼の庭で』編集

2014年、『食人鬼の庭で』がガリマール社から出版された。これは、2011年のドミニク・ストロス=カーン (DSK) の暴行事件に発想を得た作品である[3][4]。「女性のセクシュアリティについて語りたいと思っていた」彼女は、性依存症を「女性の側から書いてみよう」と思い、あらためてフローベールの『ボヴァリー夫人』、フランソワ・モーリアックの『テレーズ・デスケルウ』(映画『テレーズの罪』)トルストイの『アンナ・カレーニナ』、ジョゼフ・ケッセルの『昼顔』などを読み直した。「ある朝、まるで啓示のように」アデルという女性像を思いついた[4]。彼女は二重生活を送る性依存症の女性の「受動性、強制された役割に気付こうともしない怠惰・安逸さ、哀しさ」を描こうとしたという[4][6]

この作品は、2015年の第6回ラ・マムーニア文学賞を受賞した。これは、フランス語によるモロッコ文学の促進を目的とする文学賞であり、スリマニは女性初の受賞者である。2015年の審査員はフランスの作家、劇作家、文芸評論家のクリスティーヌ・オルバンフランス語版委員長のほか、アメリカ合衆国の作家ダグラス・ケネディ英語版、モロッコのジャーナリスト・作家のレダ・ダリルフランス語版らであった[7][8]。また、パリ6区サン=ジェルマン=デ=プレにあるカフェ・ド・フロールの常連作家らによって1994年に創設されたフロール賞フランス語版の最終候補5作に残った[9][10]

2015年9月にフランスの映画製作会社が『食人鬼の庭で』の映画化のために著作権を買い取ったという報道があり、著者スリマニのコメントも掲載されたが、この段階ではまだ監督が決まっておらず、その後もまだ詳細は明らかにされていない[11][12]

『優しい歌』(『ヌヌ ― 完璧なベビーシッター』)編集

2016年に第二作『優しい歌』(邦題『ヌヌ ― 完璧なベビーシッター』)を発表。同年のゴンクール賞を受賞した。113人の受賞者のうち、女性では12人目である[3]。世界44か国語に翻訳され(2019年3月時点)、邦訳も『ヌヌ ― 完璧なベビーシッター』として2018年3月に刊行された。家事・育児手伝いとして若い夫婦に雇用された女性が、面倒を見ていた二人の子どもを殺害するという衝撃的な事件を描いたこの作品は、2012年にニューヨークプエルトリコ人のベビーシッター(ヌヌ)が子供たちを惨殺したという三面記事から発想を得たものである[13]。スリマニは日本でのインタビューで、ヌヌまたはヌーヌー (nounou) は「ベビーシッター」とは「少し違い」、「乳母 (nourrice)」のことであるとし、フランスでは子どもを祖父母に預けることがあまりないうえに、保育園が狭くて受け入れる人数が限られているし、女性たちの労働時間が長いと保育園を利用するのも難しい、このような状況では、子どもの面倒を見てくれる「ヌヌ」に頼らざるを得ない、したがって「ヌヌがいないと働けず、自立もできなければ自由も得られないし、社会生活も営めない」と説明している[14]。また、ヌヌはその社会的価値が評価されず、資格が必要ない仕事であるせいもあって、特に大都市のヌヌは大半が移民、特にマグレブ移民の女性で、低賃金で雇われているという[14][15]。本書のヌヌは貧しい白人女性で、逆に雇用者の夫婦が移民である。スリマニはパリ10区に住むこの若い夫婦(弁護士の妻と音響アシスタントの夫)をボボ(ブルジョワ・ボヘミアン)として描いている。これもスリマニ自身の定義によると、「ヒッピー的な精神の持ち主で、中流階級で、パリの中心にある昔の大衆的な地域に住んでいて、オープンマインドで、環境問題に対して意識が高く、左派で」、社会問題に深い関心を持っているが、これはあくまで「理論や理想」であって、「実際には日常生活で貧しい人々や移民に接することはない」人々であり、彼女はこうしたボボの「社会的偽善」を表現したかったという[14]。本書はこのように人種、性、階級職業等における差別家事労働の過小評価、保守派の台頭、移民政策、「女性による女性の搾取」など多くの問題を提起する作品である[14][16]

なお、「優しい歌」はアンリ・サルヴァドールの曲名でもあり、別名「狼、雌鹿と騎士さん」として知られる「フランスでは誰もが知っている子守唄」である[15][17]。また、作品冒頭の「赤ん坊は死んだ」の一文は、「きょう、ママンが死んだ」で始まるカミュの『異邦人』を想起させるという指摘もある[13]。スリマニが執筆の動機になったと言う、ヌヌと母親「ママン」との「曖昧な関係」を示唆するものである[15]

『優しい歌』は当初、マイウェン監督が映画化する意向を表明したが、「個人的にとても辛い時期」があって別の作品に取り組むことにしたとし[18]リュシー・ボルルトーフランス語版監督がこの企画を引き継いだ[19]。映画は原題のまま『優しい歌』として2019年11月27日にフランスで封切られた。主演はカリン・ヴィアールである[20][21]。一方、すでに演劇作品としてコメディ・フランセーズで2019年3月14日から4月28日まで上演されたが[22]、『ル・モンド』紙は、舞台での上演は難しい作品であると評している[23]

思想的立場編集

2017年に評論『セックスと嘘 ― モロッコの性生活』を発表し、国家による身体の管理、快楽の隠蔽、闇の堕胎同性愛者に対する刑罰などを批判した[3]。アルジェリア生まれの作家・ジャーナリストのカメル・ダウドはこれを高く評価した[24]。一方、反人種主義と脱植民地化を謳うものの、多くの批判を受けている「共和国原住民フランス語版」は、スリマニは「原住民の密告者」であると非難した[25]

パスカル・ブランシャールフランス語版ニコラ・バンセルフランス語版らが約100人の研究者の論文・著書を編纂した『性、人種、植民地』(2018年9月刊行)の「あとがき」を書いた。本書は、過去6世紀にわたって「他者」の身体、特に女性の身体が支配され、踏みにじられ、否定されてきた歴史を跡づけるものであり、本書を読んで「怒りと悲しみに打ちのめされた」と言うスリマニは「あとがき」で、記憶の継承の重要性を訴えると同時に、現代人の想像力にもその痕跡が残っていることを指摘している[26]

日本での紹介・来日編集

2018年の邦訳刊行後、朝日新聞[27]日本経済新聞[28]毎日新聞[29]などに書評が掲載された。同年、スリマニは日仏交流160周年記念の一環として日本に招待され、桐野夏生[30]山崎まどからと対談し、長崎外国語大学[31]早稲田大学[32]などで講演会やシンポジウムが行われた。

著書編集

脚注編集

  1. ^ Nomination dans l'ordre des Arts et des Lettres hiver 2017” (フランス語). www.culture.gouv.fr. Ministère de la Culture. 2019年5月30日閲覧。
  2. ^ フランコフォニー担当大統領個人代表にレイラ・スリマニ氏を任命” (日本語). La France au Japon. 在日フランス大使館. 2019年5月30日閲覧。
  3. ^ a b c d e f Marie-France Etchegoin et Gaspard Dhellemmes (2018年11月23日). “La femme savante : Rencontre avec Leïla Slimani, la nouvelle Marianne d'une France « revigorée »” (フランス語). Vanity Fair. 2019年5月30日閲覧。
  4. ^ a b c d e f Alexandra Schwartzbrod (2014年9月29日). “Leïla Slimani. «Madame Bovary X»” (フランス語). Libération.fr. 2019年5月30日閲覧。
  5. ^ a b David Caviglioli (2016年11月3日). “10 choses à savoir sur Leïla Slimani, prix Goncourt 2016” (フランス語). Bibliobs. 2019年5月30日閲覧。
  6. ^ Entretien : Leïla Slimani. Dans le jardin de l'ogre - Site Gallimard” (フランス語). www.gallimard.fr. 2019年5月30日閲覧。
  7. ^ Leïla Slimani sacrée à La Mamounia” (フランス語). FIGARO (2015年9月23日). 2019年5月30日閲覧。
  8. ^ Zineb Achraf (2015年9月20日). “Leila Slimani remporte le Prix de La Mamounia 2015” (フランス語). Al HuffPost Maghreb. 2019年5月30日閲覧。
  9. ^ Prix de Flore 2014 : deuxième liste” (フランス語). Prix de Flore (2014年10月24日). 2019年5月30日閲覧。
  10. ^ Prix de Flore 2014 : les 5 finalistes” (フランス語). Bibliobs. 2019年5月30日閲覧。
  11. ^ Le premier roman de Leila Slimani adapté au cinéma” (フランス語). Al HuffPost Maghreb (2015年9月29日). 2019年5月30日閲覧。
  12. ^ Ouassat, Mehdi. ““Dans le jardin de l’ogre” de Leila Slimani bientôt sur grand écran” (フランス語). Libération. 2019年5月30日閲覧。
  13. ^ a b 武内英公子. “【書評】スリマニ『ヌヌ:完璧なベビーシッター』” (日本語). webfrance.hakusuisha.co.jp. 白水社 - web ふらんす. 2019年5月30日閲覧。
  14. ^ a b c d レイラ・スリマニ×山崎まどか ― 今日的ダイアローグ / 心理サスペンスが浮き彫りにする女性と差別問題の現在地” (日本語). SPUR (2018年12月16日). 2019年5月30日閲覧。
  15. ^ a b c フランス文学の愉しみ - 母とベビーシッターの歪んだ関係”. Bunkamura. 2018年5月30日閲覧。
  16. ^ フランス最高峰文学賞受賞 レイラ・スリマニさん講演 「善悪の判断を超え、心理に迫る文学」” (日本語). 長崎新聞 (2018年11月30日). 2019年5月30日閲覧。
  17. ^ Mauro Piffero (2016-10-19), Henri Salvador "Une chanson douce", https://www.youtube.com/watch?v=51OFKXdBFTo 2019年5月30日閲覧。 
  18. ^ Maïwenn : "Je viens de traverser des épreuves personnelles très dures" - Un entretien avec Karelle Fitoussi” (フランス語). parismatch.com. Paris Match (2017年8月30日). 2019年5月30日閲覧。
  19. ^ Brigitte Baronnet (2018年5月21日). “Karin Viard et Leïla Bekhti dans l'adaptation de Chanson douce par Lucie Borleteau”. AlloCiné. 2019年5月31日閲覧。
  20. ^ AlloCine, Chanson Douce, http://www.allocine.fr/film/fichefilm_gen_cfilm=254956.html 2019年5月31日閲覧。 
  21. ^ Chanson douce de Lucie Borleteau - la critique” (フランス語). parismatch.com. Paris Match (2019年11月26日). 2019年12月22日閲覧。
  22. ^ Chanson douce de Leïla Slimani Mise en scène Pauline Bayle” (フランス語). comedie-francaise.fr. Comedie francaise. 2019年5月31日閲覧。
  23. ^ “Théâtre : une « Chanson douce » qui reste à distance” (フランス語). Le Monde. (2019年4月2日). https://www.lemonde.fr/culture/article/2019/04/02/theatre-une-chanson-douce-qui-reste-a-distance_5444777_3246.html 2019年5月31日閲覧。 
  24. ^ Kamel Daoud. “Entre YouPorn et “You Pray” : Kamel Daoud a lu Leïla Slimani pour nous” (フランス語). Bibliobs. 2019年5月31日閲覧。
  25. ^ Fatiha Boudjahlat (2017年8月31日). “Fatiha Boudjahlat: «Leïla Slimani, nouvelle cible de la censure antiraciste»”. FIGARO. 2019年5月31日閲覧。
  26. ^ Leïla Slimani : « Je déteste Shéhérazade » - Elle” (フランス語). elle.fr (2018年11月15日). 2019年5月31日閲覧。
  27. ^ (書評)『ヌヌ 完璧なベビーシッター』 レイラ・スリマニ〈著〉” (日本語). 朝日新聞デジタル (2018年5月12日). 2019年5月31日閲覧。
  28. ^ ヌヌ 完璧なベビーシッター レイラ・スリマニ著 ― 凶行へと駆り立てた焦燥感” (日本語). 日本経済新聞 電子版 (2018年6月2日). 2019年5月31日閲覧。
  29. ^ Interview - レイラ・スリマニさん(フランス人作家) 家政婦の孤独描写” (日本語). 毎日新聞 (2018年12月19日). 2019年5月31日閲覧。
  30. ^ 対談 レイラ・スリマニ × 桐野夏生”. www.institutfrancais.jp. アンスティチュ・フランセ日本. 2019年5月31日閲覧。
  31. ^ フランス文化講演会 Leila Slimani(レイラ・スリマニ)を長崎に迎えて”. sfj-nagasaki.org. 長崎日仏協会. 2019年5月31日閲覧。
  32. ^ フランス大使館よりお知らせ”. www.sjllf.org. 日本フランス語フランス文学会 (2018年10月6日). 2019年5月31日閲覧。

参考資料編集

外部リンク編集