レインボー (バンド)

イングランドのハードロックバンド

レインボー英語: Rainbow)は、イングランド出身のハードロックバンド

レインボー
Ritchie Blackmore's Rainbow headlining the Stone Free 2017 Festival at the O2 (35214354582).jpg
  • 英ロンドン公演(2017年)
  • Rainbow (band) logo.png
基本情報
別名
  • リッチー・ブラックモアズ・レインボー
  • ブラックモアズ・レインボー
出身地 イングランドの旗 イングランド ハートフォード[1]
ジャンル
活動期間
レーベル
メンバー
旧メンバー 後述を参照

ディープ・パープルのギタリストだったリッチー・ブラックモアが脱退後に結成したバンドである。HR/HMサウンドの著名バンドとして、後発のアーティストに多大な影響を与えた。ディープ・パープルの再結成に伴い一旦活動を停止したが、その後にブラックモアがディープ・パープルを再脱退したこともあり、現在も断続的に活動を行っている。

概要編集

ギタリストとして、既に音楽的にも商業的にも世界的な成功を得ていたディープ・パープルリッチー・ブラックモアが同バンドを脱退し、ソロ名義で結成したのが始まりであった。そのため、デビュー当時はアルバム・タイトルと同じ「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」(Ritchie Blackmore's Rainbow)だった。2ndアルバムからはグループの体裁を採り、「ブラックモアズ・レインボー」(Blackmore's Rainbow)、3rdアルバム以降は「レインボー」(Rainbow)の名義で活動した。再結成後は、当初の「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」に回帰している。

イングランド出身のブラックモアがリーダーとして結成したため、一般的にはイギリスの「ブリティッシュ・ロック」に類するバンドとされる。しかし、結成初期メンバーの多くが「アメリカ北東部出身」のロック・ミュージシャンだった。また、アルバムごとにリッチーの方針に合わせていく事情もあり、アルバム毎にメンバーが変わっていった。

音楽性は、ディープ・パープル期に培った「ブルース基調」のハードロックに、バロック音楽の構成を融合させた様式美的スタイルが主な特徴。1980年代以降にみられるリフやメロディを主軸とした、HR/HMサウンドの基礎を築き上げたとされている。初代ボーカリストだったロニー・ジェイムス・ディオは、後年に「ゴシックメタルの先駆者だった」とも述べている。ブラックモアは2015年にレインボーを再結成している[2]

詳細・結成の経緯編集

 
創設者リッチー・ブラックモア(G) 2016年

そもそものきっかけは、1974年の8月に録音が開始されたディープ・パープルの『嵐の使者』の制作中に表面化した、他メンバーとの音楽的な対立とされている。

リッチー・ブラックモアは、クォーターマスの「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」(Black Sheep Of The Family)という曲の録音を希望したが、カバー曲であるなどの理由で、ディープ・パープルのメンバーから拒否されていた。[3]

だが、アルバムの録音後に予定されていたアメリカ・ツアーが中止となって、時間的な余裕が生じたため、リッチー・ブラックモアは、かねてより気に入っていたアメリカのバンド「エルフ」のボーカリストであるロニー・ジェイムス・ディオを起用して同曲を録音、さらに、ロニー・ジェイムズ・ディオとの共作である「16世紀のグリーン・スリーブス」(Sixteenth Century Greensleeves)も合わせて録音した。当初はこの2曲でソロ・シングルを制作する予定だったが、リッチー・ブラックモアはこの2曲の出来の良さを気に入り、エルフを吸収する形で新しいバンドを結成することを企図した。[4]

1975年2月 - 3月、ミュンヘンのミュージックランド・スタジオにて、ギタリストを除くエルフのメンバー全員とアルバム用の曲を録音。4月7日のパリ公演を最後にリッチー・ブラックモアがディープ・パープルを脱退(ただし、公式発表は6月)。8月10日、オイスター・レコードより、当時のバンド名と同名のアルバム『Ritchie Blackmore's Rainbow/邦題=銀嶺の覇者』をリリース、デビューに至る。[5]

歴史編集

 
1982年当時のリッチー(G)

RAINBOW#1(1975年5月 - 1975年9月)

1975年8月、デビュー・アルバム『銀嶺の覇者』をリリース[6]。その直後、ロニーを除いたエルフのメンバー(クレイグ・グルーバー、ミッキー・リー・ソウル、ゲイリー・ドリスコール)を解雇。

RAINBOW#2(1975年9月 - 1977年2月)

オーディションにより9月末までにジェフ・ベック・グループにいたドラマーコージー・パウエル、ベーシストのジミー・ベイン、アメリカ人のキーボーディストトニー・カレイの3名が新たにバンド・メンバーになり、同年11月、アメリカ、カナダと北東部のツアーをおこなう。1976年2月、ドイツを中心とする欧州ツアーを催行。ツアー終了後にミュージックランド・スタジオにてセカンドアルバムを録音する。同年4月『虹を翔る覇者』をリリース。アメリカ、イギリス、オーストラリア・ツアーを経て、12月には初来日ツアーを催行(この来日ツアーにドイツ公演の音源を合わせたライブ・アルバム『レインボー・オン・ステージ』)が1977年7月にリリースされた)。1977年2月にジミー・ベインを解雇。

RAINBOW#3(1977年5月 - 1977年7月)

新作のレコーディングに際してコロシアムユーライア・ヒープテンペストのベーシスト、マーク・クラークを起用するが、意に合わず、同時期にカレイも解雇。

RAINBOW#4(1977年7月 - 1978年11月)

結局オーストラリア出身のベーシストのボブ・デイズリーカナダシンフォニック・スラムというバンドのキーボーディスト、デヴィッド・ストーンがセッション・ミュージシャンとしてグループに加入。9月よりツアー開始。ウィーン公演で暴力行為に及んだとしてリッチー・ブラックモアが暴行罪容疑をかけられて逮捕され、2日間拘留される(釈放直後のミュンヘン公演がビデオ収録され、後年、DVDソフト『Live in Munich 1977』としてリリースされた)。1978年1月、2度目の来日ツアーが行われ、札幌公演の際ファンが圧死する事件(レインボー 札幌事件)が発生する。5月、アルバム『バビロンの城門』リリース。プロモーション・ツアーの後に、元ディープ・パープルのロジャー・グローヴァーをプロデューサーに据えて走り出した次期新作には、ディヴィッド・ストーンは関与せずグループを離れ、デモ・テープを聴いたロニー・ジェイムス・ディオも、「自分の唄いたいタイプの音楽ではない」という理由でグループを離れる。この時点で既に結成時のメンバーはリッチーのみとなっていた。新しいベーシストをもとめて1978年末にジャック・グリーンを加入させたが、意に合わず暫く空席となった。

RAINBOW#5(1979年4月 - 1980年8月)

1979年早々、コージー・パウエルの推薦によりコロシアムIIドン・エイリーがキーボーディストとしてオファーされ、ブラックモアが兼任するはずだったベースも、デモ用に録音したロジャー・グローヴァーのベースがそのまま使用されて記録に残るようになった。グローヴァーはブラックモアに懇願されベーシストとしても参加することになる。
出来上がったテープをもとに、フランスでレコーディング中に、新しいヴォーカリストのオーディションが行なわれて、1960年代にマーブルズで異彩を放ったシンガーのグラハム・ボネットがヴォーカリストに決定する前には、マーク・ストラーチェが選考されていた。(マーク・ストラーチェはこのあとすぐに、クロークスのシンガーとなる。)ストラーチェが新しいラインに乗らないとみるや、ボネットが迎えられてレコーディングが行われた。同年7月(日本では9月)、アルバム『ダウン・トゥ・アース』をリリース。
9月からワールド・ツアーを催行した。日本では1980年5月に公演を行なった。既に「ニュー・ミュージカル・エクスプレス(NME)」紙上で脱退を表明したドラマーのコージー・パウエルの最後のコンサートが8月16日にロンドン郊外のドニントン・パークでの「モンスターズ・オブ・ロックMonsters of Rock)で行われた。演奏された「Stargazer」は、1980年11月にポリドール・レコード編集のオムニバス『Monsters of Rock』に収録、そして30年以上の時を経て発表されたライブアルバム『モンスターズ・オブ・ロック〜ライヴ・アット・ドニントン1980』に、現存する全編が収録された[7]

RAINBOW#6(1980年8月 - 1980年11月)

ボブ・ロンディネリが後任のドラマーとして加入し、9月よりデンマークコペンハーゲンのスウィート・サイレンス・スタジオにて次作アルバムの録音が開始されたが、その途中でグラハム・ボネットが脱退。

RAINBOW#7(1980年11月 - 1981年11月)

ジョー・リン・ターナーが新しいヴォーカリストに推薦されレコーディングを敢行。1981年1月(日本では3月)、アルバム『アイ・サレンダー』をリリース。直後にアメリカ、欧州ツアーを経て8月に来日公演を催行。ツアーの終了後、ドン・エイリーが脱退。

RAINBOW#8(1981年11月 - 1983年6月)

10月末のオーディションによってキーボーディストとしてデイブ・ローゼンタルが加入し、11月にカナダのスタジオで初のデジタル録音を使ったスタジオでの録音が行われる。1982年『闇からの一撃』をリリース。5月からアメリカ・ツアー。8月のテキサス州サン・アントニオ公演でのライヴが収録されて初ドキュメント・フイルム『Live Between The Eyes(VHS)』としてリリースされている。10月に来日ツアーを催行した。1983年5月からコペンハーゲンのスウィート・サイレンス・スタジオにて次作アルバムのリハーサルが開始された。

RAINBOW#9(1983年6月 - 1984年3月)

ジョー・リン・ターナーと旧知の仲だったチャック・バーギ(元・ブランドX)が加入し、8月に『ストリート・オブ・ドリームス』をリリース。直後にイギリス/アメリカ・ツアーが催行される。このツアーの後、ディープ・パープル再結成のプランが進行し、3月の来日ツアー終了後にレインボーは活動を休止を発表。新日本フィルハーモニー交響楽団と共演した最終公演にあたる1984年3月14日の武道館はWOWOWによってヴィデオ収録プログラム放映された(一部はプロモーション・ヴィデオを編集した『The Final Cut』で見ることができる)。

RAINBOW#10-#12(1994年4月- 1997年5月)

ディープ・パープルから二度目の脱退をしたリッチー・ブラックモアによって1994年に再び結成された。リッチー以外のメンバーは全員交代している。8月にアルバム『孤高のストレンジャー』をリリースしたが、日本では媒体がほとんど伝えずに1997年に解散。その後リッチーはキャンディス・ナイトとともにブラックモアズ・ナイトを結成している。

RAINBOW#13(2016年6月- )

2015年7月、リッチー・ブラックモアが原点に回帰するライブ公演開催を公表し再々結成。リッチー以外のメンバーは全員交代している。新ラインナップも当公演のみに限定され[8]、翌年6月、全3回のヨーロッパ公演を実施した[9]。終了後、更なるツアー継続を発表し、2017年2018年と断続的に公演を行っている。2019年は、フィンランドドイツスペインにて4公演を行う予定である。

展開編集

新バンドの発足以降、リッチー・ブラックモアは音楽誌のインタビューなどで度々「自分はレインボーの1/5」であると主張していた。だが実際はデビュー時のバンド名とアルバム・タイトルにリッチー・ブラックモアの名前を冠したことから、周囲の人間や多くのファンはブラックモア中心のソロ・プロジェクト的なバンドとして捉えた。バンドの音楽性もブラックモアの嗜好の変遷と共に方向を変え、そうした中でメンバーは次々と交代を繰り返していった。

しかし、バンド名を「ブラックモアズ・レインボー」としたセカンドアルバムにおいては、アメリカ人ボーカリストであるロニー・ジェイムス・ディオと、コージー・パウエルのパワフルなドラミングという強力なユニットの力を得、ブラックモアの当初の理想であった「中世様式美系ハードロック」がある程度完成したとされ、ワンマンバンドから3人の強力なメンバーを擁したバンドとして評価されるようになった。この三頭時代で発表したスタジオ・アルバム2枚、ライブ・アルバム1枚(加えて後年発表されたビデオ『Live in Munich 1977』)は、質的にも高いアルバム/ライヴ・パフォーマンスとして評価され、日本ヨーロッパでは高い人気を博した。

しかし、最大の市場であるアメリカでの売上は思うように伸びなかった。この状況を見たブラックモアは、アメリカのリスナーの嗜好にあうより現代的でストレートなハードロック路線への転換を主張し始め、同意できなかったロニー・ジェイムズ・ディオは脱退していった。そこで新たなボーカリストとして、ディオとはキャラクターも音楽性も異なるグラハム・ボネットが加入。元ディープ・パープルのベーシストロジャー・グローヴァーもプロデュースや曲作りに参加(途中からベーシストとしても参加)し、ポップセンスを効かせた佳曲揃いのアルバム『ダウン・トゥ・アース』を発表した。このアルバムからはヒット曲も生まれ、以前よりアメリカでの人気がいくぶん盛り上がったが、その音楽性の変質に、今度はドラマーのコージー・パウエルが不満を抱き脱退。友人のパウエルの脱退に触発される形でボネットも脱退した(なお、ブラックモアは最後までボネットのショート・カットの髪とスーツ姿を気に入らず、彼の頭をギターで殴ったなどという伝説も残っている)。

アメリカのバンド、ファンダンゴ(Fandango)に在籍していたアメリカ人ボーカリスト、ジョー・リン・ターナーがボネットに代わって加入し、よりアメリカ市場を意識し、ポップセンスをさらに先鋭化させた『アイ・サレンダー』を発表。バンドの音楽性の変化は賛否両論あり、アメリカでの売上は期待された程伸びなかったが、日本では発売約半年後の来日時点で、発売元のポリドールがゴールドディスクに認定するなど、従来の高い人気を保っていた。アルバムツアー終了後、ドン・エイリーが方向性の相違から脱退。

8枚目のアルバム『ストリート・オブ・ドリームス』の発売と1984年3月の日本公演を最後に活動を休止(最終公演は14日で、後にビデオが発売された)。これは、リッチー・ブラックモアとロジャー・グローヴァーがディープ・パープルの再結成に参加するためであった。

その後、約10年にわたりディープ・パープルで活動するが1993年に脱退し、ドゥギー・ホワイトなど新たなメンバーでバンドを結成。グループ名を「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」と名乗った。しかし、このバンドはアルバムを1枚発表したのみで再び活動を停止。

2015年7月、ブラックモアズ・ナイトで活動中だったブラックモアは、翌年6月にレインボー名義でツアーを開催すると明言[10]。同11月、オフィシャル・ラインナップを公表[11]

2016年6月、ドイツと本国イングランドで全3回のライブ公演を実施[12]。ブラックモアは「反応次第では、まだ継続する可能性がある」と含みを残した[13]。そして実際に継続が実現し、2017年7月に英国ツアー[14]2018年には東欧ツアーを開催[15]。また、この間、20数年ぶりのオリジナル曲も発表した[16]

メンバー編集

ギタリストは全時期を通じてリッチー・ブラックモア。それ以外のメンバーは以下の様に変遷している。

時期 ボーカル ベース キーボード ドラムス
#1 1975/5-1975/9 ロニー・ジェイムス・ディオ クレイグ・グルーバー ミッキー・リー・ソウル ゲイリー・ドリスコール
#2 1975/9-1977/2 ジミー・ベイン トニー・カレイ コージー・パウエル
#3 1977/5-1977/7 マーク・クラーク
#4 1977/7-1978/11 ボブ・デイズリー デヴィッド・ストーン
#5 1979/4-1980/8 グラハム・ボネット ロジャー・グローヴァー ドン・エイリー
#6 1980/8-1980/11 ボビー・ロンディネリ
#7 1980/11-1981/11 ジョー・リン・ターナー
#8 1981/11-1983/6 デイヴ・ローゼンタール
#9 1983/6-1984/3 チャック・バーギ
解散 1984/4-1994/3
#10 1994/4-1995/9 ドゥギー・ホワイト グレッグ・スミス ポール・モリス ジョン・オライリィ
#11 1995/9-1997/2 チャック・バーギ
#12 1997/2-1997/5 ジョン・ミセリ
#13 2016/6- ロニー・ロメロ ボブ・ヌーボー イェンス・ヨハンソン デヴィッド・キース

主なメンバーの脱退後の活動編集

音楽性の変遷編集

1st.銀嶺の覇者 - RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOW

実質、リッチー・ブラックモアがエルフというバンドをスタジオ・ミュージシャンとして使って制作したソロ・アルバム。リッチーは全ての曲を作っただけでなく、全てのパートをそれぞれのメンバーに教えその通りに演奏することを要求したとされる。実力と音楽志向の面でリッチーが求めていたのはボーカリストのロニー・ジェイムズ・ディオだけであり、他の3人はアルバムの完成直後に実質的に解雇されている。
当時のリッチーがやりたかった音楽を具現化したアルバムで、ディープ・パープル時代のファンを喜ばせる「マン・オン・ザ・シルバー・マウンテン」が人気曲となっている。他にはクラシカルな楽曲「Catch The Rainbow」や「The Temple Of The King」が収録されている。

2nd.虹を翔る覇者 - RAINBOW RISING

ロック・シーンで高い評価を得ていたドラマーのコージー・パウエルが加入。リッチー、ロニーに匹敵する腕利きのパウエルが入ったことで、いわゆる「三頭」時代が始まる。ハードロック史上に残る傑作となり、レインボーの人気を確立させた。「Stargazer」と「A Light In The Black」が当時のレコードの裏面を2曲で占める大作(内容的には組曲である)であり、それに代表される長い演奏時間、音楽嗜好を「クラシカルなメロディとヘヴィなサウンドからなる様式美的ハードロック」に先鋭化した作品作りが特徴であり、ラジオの音楽番組で放送される事を前提にしていないことが伺われる。

3rd.バビロンの城門 - LONG LIVE ROCK'N'ROLL

基本的な路線には変化が無いが、それまでの大作主義が姿を消しシンプルなハードロックへのシフトが意識されている。明らかにアメリカ市場でのブレイクを狙い、ラジオ放送を意識したアルバムとなっている。
スピーディなアルペジオが連続する「Kill The King」は、レインボーの全楽曲の中でも重要な曲である。他にも、後にグラハム・ボネットとジョー・リン・ターナーにも歌い継がれる「Long Live Rock'n'Roll」や前作を踏襲した大作「Gates of Babylon」などが収録されている。

4th.ダウン・トゥ・アース - DOWN TO EARTH

バンドの音楽性に明確な変化が起こった。アメリカ市場での売上低迷状況を解決するためにポップさを前面に押し出し、ストレートで現代的なハードロック路線に大きく舵を切った。作曲とプロデュースにディープ・パープルでブラックモアと一緒だったロジャー・グローヴァーを起用(後にベース・ギターも任せることになる)、ボーカルをストレートでハイテンションな声質のグラハム・ボネットに交代し音楽性を一新した。特にラス・バラード(Russ Ballard)のカバーであるシングル「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」を巡ってはメンバー間でも収録の可否を巡って激論があった。

5th.アイ・サレンダー-DIFFICULT TO CURE

6th.闇からの一撃-STRAIGHT BETWEEN THE EYES

7th.ストリート・オブ・ドリームス-BENT OUT OF SHAPE

さらにボーカリストがジョー・リン・ターナーに変わったことでアメリカ市場向け路線が一層明確になった。なお、ターナーは大学で文学を学んだインテリジェンスの高い人物で、格調の高さと分かり易さが込められている歌詞はバンドのポップ化に貢献し、アメリカでのラジオ・オン・エア回数が以前より多くなった。1984年には「Maybe Next Time」がグラミー賞ベスト・インストゥルメンタル部門にノミネートされた。
レインボーで最大の魅力とされるリッチーのギタープレイはアルバムを追って控えめになり、かつてアマチュア・ギタリストを虜にしたような速弾きや特徴的なクラシカルなリフなどはあまり聴かれなくなっていく。「Death Alley Driver」のように往年の「Highway Star」にも負けないハイスピード・プレイもあれば、「Maybe Next Time」のようなギター・インストゥルメンタルもあるが、シングル・ヒットに結びついた「I Surrender」や「Street Of Dreams」などの楽曲においては、ギター・サウンド、ギター・ソロはあまり前面に出ていない。(ただし、ライヴにおいてはその限りではない)
この後レインボーは活動を一旦休止することになるが、偶然ながらここまでに制作したスタジオアルバムの数はそのバンド名の通り7作であった。

1995年 孤高のストレンジャー-STRANGER IN US ALL

ブラックモアはソロ・アルバムのつもりであったが、市場に出すに当たって「Ritchie Blackmore's Rainbow」名義を冠せられた。ドゥギー・ホワイトが器用に声色を使い分けて歌っていることもあり、荒削りなギター・プレイ、ギターの音色、練り込まれたアレンジ等において、ブラックモアのロック経歴の集大成的な楽曲が並ぶアルバムになっている。プロデュースはパット・リーガンとリッチー・ブラックモア。
音楽雑誌「BURRN!」の読者人気投票で、1995年度のベスト・グループとベスト・アルバムに選ばれている。

事故編集

1978年1月27日、彼らの2度目の来日公演の際、札幌中島スポーツセンターで行われたコンサートに於いて、観客が死亡する事故が発生した。約5,000人の聴衆が詰め掛けていた同会場で、前座バンドの四人囃子の演奏が終わり、約1時間後に本公演が始まると、時間の遅れに痺れを切らしていた聴衆がステージ前方に殺到し(当時は指定席でも演奏が始まると、前方に駆け出したり、詰めかけたりすることが許されていた)、その下敷きとなった当時19歳の女子大生が胸部圧迫のため、死亡した。現場は大混乱となったが、警察からバンド側への演奏一時中止の要請は届かなかったという。この事故は、当時大きくニュースで取り上げられ、その後の日本のロック・コンサート会場の警備体制を大きく変更する契機になった。後日、リーダーのリッチー・ブラックモアは、遺族に対し500万円の見舞金を送っている。

特記編集

デビュー当時の彼らの呼び物の一つとして、「虹」をかたどった照明システムが挙げられる。元のアイデアはリッチーがディープ・パープルに在籍していた時からあったと言われる。確かに1974年カリフォルニア・ジャムでのコンサートでも、似たようなデザインが使われているのが映像でも確認できる(電飾は施されていない。ただし、この「虹」はエマーソン・レイク・アンド・パーマーの演奏の時にも設置されている(「Beyond The Beginning」で確認できる)。詳細は不明)。

レインボーでの「虹」は、約10万ドルの費用を掛けて作られた巨大なもので、高さ29ft(約9m)、幅40ft(約12m)で約3,000個の電球を使用し、輸送を考慮して4分割できるようになっていた。コンピュータによって光の流れ、色合いを制御し、ステージ演出に大きな効果を生んだ。
ただし、この「虹」は分割出来るとはいえ、その質量の多さからくる輸送費は勿論、コンピュータ制御するための技術者(オペレーター)の人件費などの経費は膨大な額に登り、1976年のRISINGツアー以前(アメリカを中心としたツアー)では赤字続きだったという。また、ギター、ベース、キーボード等の電子楽器の音にノイズが発生し易くなる等の悪影響もあったそうである。(トニー・カレイは使用しているメロトロンの音に大きなノイズが入ることを抗議し、メロトロンを使用する曲では「虹」への電力が抑えられていた)

グラハム・ボネット加入時の1979年9月USツアーから、「虹」は引退。理由は『リッチーが虹に対して脅威を感じ、観客の多くはステージを観ずに虹を観ていたから。』[18]1982年頃からのライヴでは「虹」に変わり『Straight Between The Eyes』のジャケットアートをイメージした様な、闇に浮かぶ巨大な電光の眼が使われるようになった。

ライヴのオープニングではBGMとしてエドワード・エルガー威風堂々第1番が流された後、映画『オズの魔法使い』のセリフ(「We must be over the rainbow」)のリフレインと共にリッチーが同映画の主題歌「虹の彼方に」のフレーズを弾いて始まるのが定番となっていた。(グラハム・ボネット在籍時のRAINBOW#5(1979年4月 - 1980年8月)では「虹の彼方に」のイントロは演奏されなかった。)また、ライヴ終了後はジュディ・ガーランドの歌う「虹の彼方に」が会場に流されていた。

1979年1月27日放送の向田邦子原作脚本のNHKのドラマ「阿修羅のごとく」第4話で、Gates Of Babylon が挿入曲として使用されている。

ディスコグラフィ編集

スタジオアルバム編集

ベストアルバム編集

  • 1981年 - レインボー・ベスト The Best of Rainbow - 14位(UK)
  • 2003年 - 虹をつかもう 〜レインボー・アンソロジー〜 Catch the Rainbow: The Anthology
  • 2015年 - ア・ライト・イン・ザ・ブラック 1975-1984

ライヴアルバム編集

映像作品編集

  • 1982年 - レインボー・ライヴ'82 Live Between The Eyes (1982年8月18日 アメリカ、サンアントニオ公演)
  • 1984年 - レインボー・ジャパン・ツアー'84 Japan Tour '84 (1984年3月14日 日本、東京公演)
  • 1986年 - ファイナル・カット The Final Cut (PV集。ジャパン・ツアー'84の一部も収録)
  • 2005年 - ライヴ・イン・ミュンヘン Live in Munich 1977 (1977年10月20日 ドイツ、ミュンヘン公演)
  • 2013年 - ブラック・マスカレード 〜ロックパラスト1995〜 Black Masquerade (1995年10月9日 ドイツ、デュッセルドルフ公演)
  • 2015年 - レインボー ライヴ・イン・ジャパン 1984 (1984年3月14日 東京、日本武道館公演)
  • 2016年 - モンスターズ・オブ・ロック〜ライヴ・アット・ドニントン1980 (1980年8月16日 イングランド、ドニントン公演) - CD盤と同梱
  • 2016年 - メモリーズ・イン・ロック ライヴ・アット・モンスターズ・オブ・ロック2016(2016年6月17日・18日 ドイツ、ローレライ(17日)、同ビーティッヒハイム=ビッシンゲン(18日)) - CD盤と同梱

日本公演編集

12月2日 東京都体育館12月5日 大阪厚生年金会館12月7日 名古屋市公会堂12月8日 大阪厚生年金会館12月9日 大阪厚生年金会館12月10日 京都会館12月13日 福岡市九電記念体育館12月14日 広島市公会堂12月16日 日本武道館
1月27日 札幌市中島スポーツセンター
札幌での公演では演奏開始直後に観客席で将棋倒しが発生して大学生1人が死亡した[19]

参考文献編集

  • シンコー・ミュージック刊(リッチー・ブラックモア・レインボー編 ISBN 4-401-61202-7
  • シンコー・ミュージック・エンタテイメント / ジェリー・ブルーム著 [ブラック・ナイト] リッチー・ブラックモア伝 ISBN 978-4-401-63159-9
  • Roy Davies, Rainbow Rising – The Story of Ritchie Blackmore's Rainbow (Helter Skelter, 2002)
  • Martin Popoff, Rainbow – English Castle Magic (Metal Blade, 2005)
  • Jerry Bloom, Black Knight – Ritchie Blackmore (Omnibus Press, 2006)
  • Jerry Bloom, Long Live Rock 'n' Roll Story (Wymer Publishing, 2009)

脚注編集

  1. ^ a b c Rivadavia, Eduardo. Rainbow | Biography & History - オールミュージック. 2020年11月14日閲覧。
  2. ^ Blackmore’s touring lineup revealed”. ClassicRock. TeamRock. 2015年11月6日閲覧。
  3. ^ ブラックナイト リッチー・ブラックモア伝 第8章ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー P202
  4. ^ ブラックナイト リッチー・ブラックモア伝 第8章ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー P205
  5. ^ ブラックナイト リッチー・ブラックモア伝 第8章ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー P210
  6. ^ パープル時代のリフ作りの名手としてのブラックモアを彷彿とさせる、「マン・オン・ザ・シルバー・マウンテン」がレインボーの代表曲となっている
  7. ^ レインボー、1980年<モンスターズ・オブ・ロック>ついに登場 - BARKS
  8. ^ リッチー・ブラックモアのハードロック回帰は限定的、新生レインボーでワールドツアーやアルバムはないと発言 - amass
  9. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、いよいよ初ライブ - BARKS
  10. ^ リッチー・ブラックモア、ついにレインボー&ディープ・パープル公演 - BARKS
  11. ^ リッチー・ブラックモア、ロック公演のラインナップを発表 - BARKS、新生リッチー・ブラックモアズ・レインボーが初のオフィシャル・バンド写真を公開 - amass
  12. ^ 夢にまで見た、これが新生レインボー - BARKS
  13. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、「Burn」をプレイ - BARKS
  14. ^ 予想と期待を裏切るリッチー・ブラックモア”. BARKS (2018年4月20日). 2018年5月19日閲覧。
  15. ^ レインボー、昨年を上回る好パフォーマンス”. BARKS (2017年6月19日). 2018年5月19日閲覧。
  16. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、新曲を配信”. BARKS (2018年3月11日). 2018年5月19日閲覧。
  17. ^ 元RAINBOWのメンバーと、RITCHIE BLACKMOREの愛息・JURGENが新バンド〈OVER THE RAINBOW〉を結成 Bounse.com 2008年11月19日閲覧
  18. ^ エルフの元ローディーだったレイモンド・ダダリオの証言 シンコー・ミュージック・エンタテイメント:ブラック・ナイト/ リッチー・ブラックモア伝 Chap11 P257
  19. ^ ロック狂乱、女子大生死ぬ 将棋倒し八人ケガ 満員の聴衆舞台に殺到『朝日新聞』1978年(昭和53年)1月28日朝刊、13版、21面

関連項目編集