レジナルド・エリック・ヒル(1914年5月16日 - 1999年)[2][3][4]はイギリスの模型製作者、美術監督、プロデューサー、そしてフリーランス絵コンテアーティストである。主にジェリーシルヴィア・アンダーソン夫妻と働いていた。

レッジ・ヒル
生誕 (1914-05-16) 1914年5月16日
死没 1999年(84 - 85歳没)
イギリスサリー州
職業 テレビ番組プロデューサー / 映画・テレビ番組のプロダクション・デザイナー
活動期間 1950年代-1988年
雇用者 ルー・グレイド
団体 APフィルムズ
配偶者 リー(1977年にレッジ・ヒルと結婚したことで知られる)[1]
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青年期 編集

1914年5月16日に生まれ[2]、ヒルは1930年代にロンドンの卸売食料品店の陳列部門で働き始め、後に宣伝デザイナーの職へと進んだ。彼は1939年6月に個人の飛行免許を取得した。ヒルは英国空軍の軍役を第二次世界大戦中務め、オックスフォード州にあるベンソン空軍基地で組立工(airframe fitter)の指導者として過ごした。戦後はドイツに配属され、アブロ ランカスターでドイツからイギリスへ帰国時した[要出典]

戦後 編集

イギリスに帰国すると、ヒルはナショナル・インタレスト・ピクチャー・プロダクションズに英国陸軍、英国空軍、その他政府製作映画の模型デザイナー・アニメーターとして参加した。また彼の美術やデザインの才能は、ペーパークラフト(戦闘機等)、ジグソーパズル、挨拶状や、映画『The Dam Busters』(1955年)等で銃弾をフィルムに描くなどの商業アーティストとしても面にも表れている[要出典]

アンダーソン夫妻との関係 編集

1954年に、ペンタゴン・フィルムズで美術係として働いているときに、ヒルはジェリー・アンダーソンと出会った。アンダーソンはちょうどアーサー・プロヴィスアンダーソン―プロヴィス(AP)フィルムズを設立したところだった。ヒルはその会社のプロダクションデザイナーとなった。最初は、タップロウを拠点とし、APフィルムズはニコラス・パーソンズも出演した「ブルー・カーズ」などのテレビ向けコマーシャルを製作していた。仕事がないときにはウォルトン・スタジオズで製作されていたテレビ番組『ジ・アドヴェンチャーズ・オヴ・ロビン・フッド』(1957年)などの様々な番組にも関わった[5]

APフィルムズにロバータ・リーが訪れ、自身の絵本を原案としたテレビ番組の製作依頼を持ちかけてきて、そうして『ジ・アドヴェンチャーズ・オブ・トゥイズル』と『トーチー・ザ・バッテリー・ボーイ』が1950年代の終わりにかけて製作された[6]。ヒルは美術にかかわる物全て、セット、人形デザインから特撮まで関わった。リーとの関係が終わり、ニコラス・パーソンズが保安官テックス・タッカーを演じる新番組『ウエスタン・マリオネット 魔法のけん銃』が始まった。この時代にアンダーソンの低予算映画『クロスローズ・トゥ・クライム』(1960年)にも関わった[7]

ルー・グレイドの元での仕事 編集

1962年にAPフィルムズはATVの取締役ルー・グレイドに売却され[8]、1966年には「センチュリー21プロダクションズ」に改名された。グレイドがAPフィルムズに資金提供を行うと『スーパーカー』が製作され、ここでヒルはキャラクター、メカ、セットのデザインを行い、何本か脚本も担当した。この番組によってアンダーソンはSFテレビ番組の世界へと踏み出すこととなった。

一連の人形劇と俳優を起用したテレビ番組は『宇宙船XL-5』、『海底大戦争 スティングレイ』、『サンダーバード』、『キャプテン・スカーレット』、『ジョー90』、『ロンドン指令X(人形劇とライブ・アクションが組み合わせられた)、『謎の円盤UFO』(ほぼライブ・アクション)と続いた。この間に美術監督、製作、製作総指揮として関わる傍ら、ヒルは番組コンセプト、メカ、キャラクター、セット・デザインにも関わり続けた。

それらに加えてヒルは『サンダーバード』の二本の映画『サンダーバード 劇場版』(1966年)と『サンダーバード6号』(1968年)にも関わった。また『決死圏SOS宇宙船』(1969年)ではデザイナーとして参加した[9]

1972年には新しく「グループ3プロダクションズ」(ジェリー・アンダーソン、シルヴィア・アンダーソン、ヒルの三名が出資した)が設立され、『プロテクター電光石火』と『スペース1999』を製作した。この会社は1975年に「ジェリー・アンダーソン・プロダクションズ」となり、『スペース1999』の第2期が製作された。

晩年 編集

1977年に『スペース1999』第2期の製作が終了すると、ジェリー・アンダーソン・プロダクションズは解散された。ヒルは半ば引退生活となったが、様々な映画で絵コンテアーティストとして関わった。その映画には『ピンク・フロイド_ザ・ウォール(1982年)、『スカイ・バンディッツ』(1986年)、『アウトランド』(1981年)、『007/オクトパシー』(1983年)、『ザ・ラスト・デイズ・オブ・ポンペイ』(1984年)、『スーパーガール』(1984年)、『スーパーマン』(1978年)、『スーパーマンII』(1980年)等がある。ヒルはサリー州で1999年の第四半期に85歳で亡くなった[4]

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ Reg Hill : Biography”. IMDb.com. 2020年7月16日閲覧。
  2. ^ a b Reg Hill”. Bfi.org.uk. 2020年7月16日閲覧。
  3. ^ Archer, Simon; Hearn, Marcus (2002). What Made Thunderbirds Go!. BBC. pp. 274. ISBN 9780563534815 
  4. ^ a b Reg Hill : Biography”. Genes United. Findmypast Limited. 2020年7月16日閲覧。
  5. ^ La Rivière 2014, p. 23.
  6. ^ Bignell (2011), pp. 73–74
  7. ^ Crossroads to Crime (1960) : Full Cast & Crew”. IMDb.com. 2020年7月16日閲覧。
  8. ^ Bignell (2011), p. 75
  9. ^ Doppelgänger (1969) : Full Cast & Crew”. IMDb.com. 2020年7月16日閲覧。

参考文献 編集

  • Bignell, Jonathan (2011), “Anything Can Happen in the Next Half-Hour: Gerry Anderson's Transnational Science Fiction”, in Hochscherf, Tobias; Leggott, James, British Science Fiction Film and Television: Critical Essays, McFarland & Company, pp. 73–84, ISBN 978-0-7864-4621-6 

外部リンク 編集