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レッチワース

概要編集

ロンドンに人口が集中し、都市労働者が環境悪化と貧困にあえぐ状況を憂いたハワードは、都市の長所と農村の長所を併せ持つ田園都市=「都市と農村の結婚」を構想し、1898年に『明日-真の改革にいたる平和な道(To-morrow;A Peaceful Path to Real Reform)』を出版、1899年には田園都市協会を設立し、啓蒙活動を行った。さらに1903年には非営利の会社組織として第一田園都市会社 (First Garden City Ltd.) を設立して、事業化に乗り出した[2]

第一田園都市会社は、ロンドンの北方55kmほどの距離にあるレッチワースの近辺で農地を買収し、都市開発を行った[2]。当初の面積は約1500haであった(後に約1800haに拡大)。レーモンド・アンウィンバリー・パーカーらが設計を担当し、その美しいデザインとともに、20世紀次々と出現するニュータウンに非常に大きな影響を与えた。

ハワードの理想を追求したレッチワースは、自立した職住近接型の都市として建設されており、日本のニュータウンが、職場がほとんどない住宅だけのベッドタウンであることとは対照的である。計画人口は32000人。中心部の近くに工場が置かれ、駅、商店、娯楽施設、緑地などが計画的に配置された。住宅はゆとりのある敷地に建てられ、庭に建物を建てることは規制されている。田園都市の内部には広い農地を含み、農産物の自給自足も目標になっている。また、農地を住宅地に転用することは禁止されている。田園都市の周囲を緑地帯(グリーンベルト)が取り囲んでおり、無秩序な拡大(スプロール化)を防ぎ、コミュニティの一体性を保っている。

第一田園都市会社は土地を所有し、地代収入を基礎として経営に当たっていた(その後公社となり、現在では財団法人)。第二次世界大戦後の法改正により借地人が土地を購入できるようになったため、現在のレッチワースも個人所有の土地が多くなっている。良好な住宅地として有名になり、一時期は開発業者の標的となった。熱心な保存運動を経て、開発を規制し、コミュニティを維持すべく努力が続けられており、今日も開発当初の姿をよく留めている。

影響編集

レッチワースなどの成功はイギリス政府を刺激し、その後政府の手で30以上のニュータウン・コミュニティが建設された。レッチワースに続いて建設されたウェリン・ガーデン・シティは、ニュータウン計画に組み込まれたが、レッチワースはニュータウンとはならずに存続した[2]

レッチワースなどに体現された田園都市の思想は、日本にも大きな影響を与えており、初期の事例としては渋沢栄一渋沢秀雄父子らによる田園調布の開発が有名である[3]。大阪千里山で1922(大正11)年に分譲が始まった千里山住宅地は、噴水を囲むロータリーから放射状に道路が広がる洋風の造りなど、レッチワースをモデルに開発された。現在、千里山駅前のメインストリートは「レッチワースロード」と名付けられている[4]

姉妹都市編集

出身人物編集

出典・脚注編集

  1. ^ 建設コンサルタンツ協会『Consultant』編集部 『土木遺産 世紀を越えて生きる叡智の結晶 ヨーロッパ編』 ダイヤモンド社2005年、140頁。ISBN 978-4-478-89018-9
  2. ^ a b c 姫野侑「第一田園都市株式会社の変遷 ―主として戦後から乗っ取りまで―」、『東京経大学会誌』第178号、1992年、 59-75頁。
  3. ^ 田園調布の歴史”. 東急モールズデベロップメント. 2012年3月12日閲覧。
  4. ^ 千里山町並み案内”. スカイフルスターズ. 2012年3月12日閲覧。

外部リンク編集