レッドスター・ベオグラード

セルビアのサッカークラブ

レッドスター・ベオグラード英語: Red Star Belgrade)またはフドバルスキ・クルブ・ツルヴェナ・ズヴェズダセルビア語: Фудбалски клуб Црвена звезда, セルビア語発音: [fûdbalskiː klûːb tsř̩ʋenaː zʋěːzda], セルビア・クロアチア語: Fudbalski klub Crvena zvezda)は、セルビアベオグラードをホームタウンとするサッカークラブである。総合スポーツクラブSDツルヴェナ・ズヴェズダの一部でもある(バスケットボール部門はKKツルヴェナ・ズヴェズダ、バレーボール部門はOKツルヴェナ・ズヴェズダ)。

FKツルヴェナ・ズヴェズダ
原語表記 Фудбалски клуб Црвена звезда
Fudbalski klub Crvena zvezda
愛称 Звезда / Zvezda (星)
Цигани / Cigani (ジプシー)
Црвено-бели / Crveno-beli (赤と白)
Делије / Delije (英雄)
クラブカラー 赤・白
創設年 1945年
所属リーグ セルビア・スーペルリーガ
所属ディビジョン 1部
ホームタウン ベオグラード
ホームスタジアム スタディオン・ライコ・ミティッチ
収容人数 55,538[1]
代表者 セルビアの旗 スヴェトザル・ミヤイロヴィッチ
監督 イスラエルの旗 バラク・バハル
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

セルビアのみならずユーゴスラビア、そして東ヨーロッパで最も成功したクラブであり、1991年にUEFAチャンピオンズカップインターコンチネンタルカップを優勝した。

名称 編集

「ツルヴェナ・ズヴェズダ」は「赤い星」という意味だが、各国の言語によって呼称される特徴的な慣習を持つ。

  • Црвена звезда(ツルヴェナ・ズヴェズダ、セルビア語
  • Red Star(レッド・スター、英語
  • Étoile rouge(エトワール・ルージュ、フランス語
  • Roter Stern(ロター・シュテルン、ドイツ語
  • Ερυθρός Αστέρας(エリスロス・アステラス、ギリシャ語
  • Stella Rossa(ステッラ・ロッサ、イタリア語
  • Rode Ster(ロデ・ステル、オランダ語
  • Estrela Vermelha(エストレラ・ヴェルメーリャ、ポルトガル語
  • Красная звезда(クラスナヤ・ズヴェズダ、ロシア語
  • Estrella Roja(エストレージャ・ロハ、スペイン語
  • Kızıl yıldız(クズル・ユルドゥズ、トルコ語

日本では英語表記の「レッドスター・ベオグラード」が使用されてきた[2]が2021年現在はセルビア語表記の「ツルヴェナ・ズヴェズダ」[3]も多く見られる(3文字略称はセルビア国内でCZV、UEFA大会でZVE)。

歴史 編集

1945-1965 編集

第二次世界大戦中の1945年3月4日、レッドスターはユーゴスラビア反ファシスト青年連合同盟(USAOJ)セルビア支部のメンバーによって総合スポーツクラブとして創設された[4][5]。レッドスターのサッカー部門は戦前の名門クラブだったSKユゴスラヴィヤの資産を受け継ぎ、ユゴスラヴィヤとBSKの選手によって構成され[6]、終戦後の1946年からユーゴスラビアリーグに参加した[4]

キャプテンとしてクラブを牽引した「チカ」ことライコ・ミティッチを中心に1948年から1950年まで3年連続でユーゴスラビアカップを優勝した[7]クラブのリーグ初優勝は1951シーズンであった[8]。1955年には前年王者ハイドゥク・スプリトの中心選手だったヴラディミル・ベアラドラゴスラヴ・シェクララツなどを獲得[4]。後に「第1の星人」となるミティッチと「第2の星人」となる「シェキ」ことシェクララツを筆頭に多くの代表選手が顔を揃えたクラブはこのシーズンからリーグ4連覇を達成するなど国内では無類の強さを見せ、1950年代は6回のリーグ優勝[8]と2回のカップ優勝を記録した[7]

欧州の舞台に初めて姿を見せたのは、1956-57シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(UEFAチャンピオンズリーグの前身)であった[9]。この大会ではオランダラピドJCケルクラーデブルガリアCDNAソフィアを破り準決勝まで勝ち進むが、準決勝では得点を奪えないままイタリアフィオレンティーナに敗れた[10]。2年後の1958-59シーズンはルクセンブルクスタッド・デュドランジュを相手に当時の最多得点記録となる2試合計14対1の大差で勝利するものの[9]、準々決勝でイングランドマンチェスター・ユナイテッドに敗れた(第2戦終了後にミュンヘンの悲劇が発生した)[11]

1960年代に入ると50年代までの強さは影を潜め、3シーズン連続で無冠に終わる[8]。1962-63シーズンはクラブ史上最低順位となる7位に低迷し、得点数は降格争いをしていたヴォイヴォディナ・ノヴィ・サドの半数以下であった[12]

1966-1985 編集

1966年にミリャン・ミリャニッチが監督に就任し、世代交代を推し進めた[4]。クラブの中心だったシェクララツは去り、後に「第3の星人」の栄誉を受け、UEFAジュビリーアウォーズにて過去半世紀におけるセルビア史上最高の選手と称えられる左サイドのウィンガー、「ジャヤ」ことドラガン・ジャイッチが台頭した。就任初年度は5位に低迷するものの[12]、1967-68シーズンからリーグ3連覇を達成[8]。1970-71シーズンには再びチャンピオンズカップの準決勝まで進出したが、ギリシャパナシナイコスの前に4対4のタイスコアながらアウェイゴールの差で敗れた[13]。ミリャニッチは1974年、スペインレアル・マドリードに引き抜かれるまで指揮を採り、4度のリーグ優勝[8]、3度のカップ優勝を成し遂げた[7]

ミリャニッチ辞任の翌年にジャイッチはクラブを去り、ヴラディミル・ペトロヴィッチの時代が始まった。1972年にデビューした「ピジョン」ことペトロヴィッチは1970年代後半に入るとクラブの絶対的なエースへと成長し、1978-79シーズンのUEFAカップ(UEFAヨーロッパリーグの前身)では決勝で西ドイツボルシア・メンヒェングラートバッハに敗れたもののクラブを準優勝に導き[14]、後に「第4の星人」として表彰された。ペトロヴィッチは1982年にクラブを去るが、以降もトミスラヴ・イヴコヴィッチボシュコミルコのジュロフスキ兄弟などのユーゴスラビア代表選手が活躍し[4]、ミリャニッチ辞任後の10年で4回のリーグ優勝を飾った[8]

1986-1991 編集

1986年、復帰したジャイッチを始めとするフロント陣は5年に渡る長期計画を立て、欧州制覇という大目標を掲げる[4]。そしてジャイッチに才能を見いだされ、「ピクシー」ことドラガン・ストイコヴィッチが入団したのもこの年であった[15]。1987年の夏より5ヶ年計画は始まった。

1987年3月4日、スペインレアル・マドリードにホームで勝利した日から1992年3月4日までの5年間は黄金時代といえる最良の時間となった。ヴラディミル・ユゴヴィッチシニシャ・ミハイロヴィッチロベルト・プロシネチュキデヤン・サヴィチェヴィッチなどのユーゴスラビア代表ルーマニア代表ながらセルビア人ミオドラグ・ベロデディッチを加え、国内リーグでは5シーズンで4度の優勝を飾った[8]。ストイコヴィッチは3年連続でMVPを獲得するなど大活躍したが、1990年にクラブを去った。この5年間で監督は5人変わったが、フロント陣の顔ぶれに変わりはなかった[4]

1990年4月から5月にかけてユーゴスラビア各地で初の自由選挙が行われ、連邦を構成する各共和国で独立の機運が高まっていた[16]。5月13日、ザグレブスタディオン・マクシミールで行われたディナモ・ザグレブとの試合で暴動が起こり[17]、これをきっかけにユーゴスラビア全土に戦火が広がっていくことになる(詳細は1990年ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦での暴動およびユーゴスラビア紛争を参照)。

UEFAチャンピオンズカップ 1990-91ではスイスグラスホッパースコットランドレンジャーズ東ドイツディナモ・ドレスデン西ドイツバイエルン・ミュンヘンを次々と破る快進撃で決勝に進出した。1991年5月29日、レッドスターはイタリアバーリスタディオ・サン・ニコラで行われた決勝戦でスコアレスのままPK戦までもつれ込んだ末にフランスオリンピック・マルセイユに勝利しクラブ史上唯一の欧州制覇を成し遂げた[9][18][19][20]。皮肉にも前年までクラブに多大な貢献をしてきた「第5の星人」ストイコヴィッチはマルセイユのベンチを暖めていた。マニュエル・アモロスのPKを止めたステヴァン・ストヤノヴィッチはキャプテンとしてビッグイヤーを掲げ、試合を決めるPKを蹴ったダルコ・パンチェフはこのシーズンのヨーロッパ・ゴールデンシューを獲得した[21]。その後のUEFAスーパーカップでは紛争によってホームで試合を行うことができずイングランドマンチェスター・ユナイテッドに敗れたものの、インターコンチネンタルカップチリコロコロを破り世界一となった[22]。その時に掲げられた「スルビヤ・ド・トキヤ(セルビアを東京へ)」というスローガンはユーゴスラビア紛争で多用されることとなった。

1992- 編集

長引く紛争に国連による制裁など、欧州王者となったクラブを取り巻く状況は苦しいものとなった[9]。前回王者として臨んだ1991-92シーズンのチャンピオンズカップでは、ホームゲームは全て中立国での開催となり、この大会から導入されたグループステージでイタリアサンプドリアに及ばず敗退した[23]。主だった戦力は西側諸国に流出し、ユーゴスラビアは解体された。

紛争終了後のSRユーゴスラビアリーグでは、ダルコ・コヴァチェヴィッチデヤン・ペトコヴィッチネボイシャ・クルプニコヴィッチなどの新しい力がコンスタントに台頭するも、ほとんどのシーズンでパルチザン・ベオグラードの後塵を拝する結果となった。監督は次々に更迭され、星人ペトロヴィッチまでもが1年を待たずに職を追われた[24]。紛争終了後のリーグ優勝は1999-00シーズンまで無く、1990年代を通じてリーグ優勝は2回に留まった[8]

1998年にはジャイッチが、2005年にはストイコヴィッチが会長に就任し、2009年には再びペトロヴィッチが監督として復帰したが、その年に所属選手の給与未払いが表面化するなど[25]、2500万ドルに上るとも言われる負債によって財政難に追い込まれた[26]

2010年、クラブは新たなメインスポンサーとしてロシアガスプロム社と5年の契約を結んだ。契約料は年間380万ドルと報道されている[27][26]

2017年からRFKグラフィチャルをリザーブチームとしている。

ユニフォーム 編集

 
 
 
 
 
 
 
1950-60s
 
 
 
 
 
 
 
1970s
 
 
 
 
 
 
 
1980s
 
 
 
 
 
 
 
1990-91
 
 
 
 
 
2008-10
 
 
 
 
 
 
 
2010-11
 
 
 
 
 
 
 
2013-14
 
 
 
 
 
 
 
2014-17
 
 
 
 
 
 
 
 
2017-18
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2018-19
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2019-20
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2020-21
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2021-22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2022-23
シーズン サプライヤー スポンサー
1988-89 Puma Casucci
1989-90 Mister Baby
1990-91 Dexim
1991-93 Hummel Classic
1993-94 Komercijalna banka
1994-96 Diadora Beobanka
1996-98 Kappa
1998-01 Pils Light
2001-03 Adidas
2003-05 Wiener Städtische
Sharp
2005-06 Toyota
2006-08 Nike
2008-09
2010 2344 - Za moju Zvezdu
2010-12 Gazprom
2012-13 Legea
2013-17 Puma
2017- Macron

スタジアム 編集

 
スタディオン・ライコ・ミティッチ

ホームスタジアムであるスタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダは1963-64シーズンから使用が開始された。3年の工期を経て建設された収容者数55,000人の巨大スタジアムは、当時のバルカン半島最大規模を誇った。スタジアムのこけら落としは1963年9月1日のリエカ戦で、試合はレッドスターが2対1で勝利した。同年11月17日のパルチザン・ベオグラード戦のスタジアムには108,000人もの観衆が押し寄せ、その光景は世界最大のスタジアム、エスタジオ・ド・マラカナンを連想させた。これ以降、スタジアムは「マラカナ」の通称で呼ばれることとなる[28]。このシーズン、レッドスターは4シーズンぶりにリーグ優勝を果たした[8]。収容人数は最大で110,000人だったものの現在は55,538人で、マラカナの北西に位置するパルチザンの本拠地スタディオン・パルチザーナとは直線距離にして約1キロ程しか離れていない。スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダは2014年12月21日に第1の星人ライコ・ミティッチを称えてスタディオン・ライコ・ミティッチと改名されることが決定し、2017年11月19日には西側メインスタンドの前に設置されたミティッチの銅像が披露された。

サポーター 編集

 
デリイェ・セヴェル

その実績からセルビア国内では圧倒的な人気を誇り、セルビア国内の半数弱がクラブを支持しているという調査結果もある[29]。サポーターはズヴェズダシュセルビア語: Звездаш, セルビア・クロアチア語: Zvezdaš)と、ウルトラスは「北の英雄」を意味するデリイェ・セヴェルセルビア語: Делије север, セルビア・クロアチア語: Delije sever)と呼ばれ[30]、同じくベオグラードを本拠地とするライバルであるパルチザン・ベオグラードとのヴェチティ・デルビは特に盛り上がりを見せる[31]。2009年4月にはパルチザンとの試合中にデリイェが警察と衝突し、95人もの逮捕者を出した[32]

タイトル 編集

国内タイトル 編集

リーグ
  • ユーゴスラビアリーグ:19回
    • 1950-51, 1952-53, 1955-56, 1956-57, 1958-59, 1959-60, 1963-64, 1967-68, 1968-69, 1969-70, 1972-73, 1976-77, 1979-80, 1980-81, 1983-84, 1987-88, 1989-90, 1990-91, 1991-92
  • セルビアリーグ:9回
    • 2006-07, 2013-14, 2015-16, 2017-18, 2018-19, 2019-20, 2020-21, 2021-22, 2022-23
カップ

国際タイトル 編集

過去の成績 編集

1946-1992 編集

1992-2006 編集

2006- 編集

欧州の成績 編集

1956-1992 編集

1995-2006 編集

2006- 編集

現所属メンバー 編集

セルビア・スーペルリーガ 2023-24のフォーメーション(3-4-1-2
2023年9月5日現在[33][34][35]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK   ゾラン・ポポヴィッチ( )
2 DF   コスタ・ネデリコヴィッチ
3 DF   ミロシュ・デゲネク( )
4 MF   ミルコ・イヴァニッチ( )
5 DF   ウロシュ・スパイッチ
6 MF   マルコ・スタメニッチ( )
7 MF   ヨヴァン・シュリヴィッチ
8 MF   ゲロール・カンガ( )
9 FW   シェリフ・エンディアイェ
10 MF   アレクサンダル・カタイ
14 FW   ピーター・オラインカ
15 DF   アレクサンダル・ドラゴヴィッチ( )  
17 FW   ジャン=フィリップ・クラッソ( )
18 GK   オムリ・グラゼル( )
19 DF   ネマニャ・ミルノヴィッチ
20 MF   キングス・カングワ
No. Pos. 選手名
21 MF   エドムンド・アッド
22 FW   ヨヴァン・ミヤトヴィッチ
23 DF   ミラン・ロディッチ
24 DF   ナッセル・ジガ
27 GK   ニコラ・ヴァシリェヴィッチ
30 MF   オスマン・ブカリ( )
33 MF   スルジャン・ミヤイロヴィッチ
37 MF   ヴラディミル・ルチッチ
41 MF   ニコラ・クネジェヴィッチ
45 MF   ニコラ・ミトゥリキッチ
55 MF   アンドリヤ・マクシモヴィッチ
66 MF   黄仁範
70 MF   ウロシュ・カビッチ
76 DF   ラザル・ニコリッチ
80 MF   ステファン・ミトロヴィッチ( )
監督

  バラク・バハル

リザーブチーム 編集

2023年7月3日現在[36][37][38]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
GK   ヴク・ドラシュキッチ
GK   イヴァン・グテシャ
GK   ボグダン・スタンコヴィッチ
GK   ステファン・マリンコヴィッチ
DF   タディヤ・ツルノイェヴィッチ
DF   ダヴィド・ジュリッチ
DF   ブラティスラヴ・マリッチ
DF   ボリス・マティッチ
DF   フェイヴァー・イニェカ・オグブ
DF   ダヴィド・ペトロヴィッチ
DF   ヴィクトル・ラドイェヴィッチ
DF   アレクセイ・ヴキチェヴィッチ
MF   ルカ・ボシュコヴィッチ
MF   マルコ・チュリッチ
No. Pos. 選手名
MF   ルカ・クルスマノヴィッチ
MF   アンドリヤ・マクシモヴィッチ
MF   ヴェリコ・ミロサヴリェヴィッチ
MF   アンドレイ・ペトロヴィッチ
MF   ジョシュア・ソラ・タッカー( )
MF   フィリプ・ヴァシリェヴィッチ
MF   ネマニャ・ヴィドイェヴィッチ
MF   ヴェリコ・ヴコイェヴィッチ
FW   ミラン・バイッチ
FW   ユスフ・ファイサル
FW   ミレンコ・ミヤトヴィッチ
FW   イヴァン・ニクチェヴィッチ
FW   アンドレイ・シュコバリ
監督

  マルコ・ネジッチ


二重登録 編集

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
2 DF   コスタ・ネデリコヴィッチ (  グラフィチャル)
7 MF   ヨヴァン・シュリヴィッチ (  グラフィチャル)
22 FW   ヨヴァン・ミヤトヴィッチ (  グラフィチャル)
No. Pos. 選手名
41 MF   ニコラ・クネジェヴィッチ (  OFKベオグラード)
45 MF   ニコラ・ミトゥリキッチ (  OFKベオグラード)
99 MF   アンドリヤ・マクシモヴィッチ (  グラフィチャル)

ローン移籍 編集

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
13 DF   アレックス・ビーゴ (  リーベル・プレート)
No. Pos. 選手名
24 DF   ナッセル・ジガ (  バーゼル)
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
29 MF   イェーゴリ・プルツェフ( ) (  ツェリェ)
40 MF   ヨヴァン・ミトゥリキッチ (  OFKベオグラード)
44 DF   ステファン・レコヴィッチ (  ビジャレアルB)
51 GK   ミロシュ・ゴルディッチ (  IMT)
82 GK   ミラン・ボージャン( ) (  スロヴァン・ブラチスラヴァ)
93 FW   イリヤ・バビッチ( ) (  ヴォジュドヴァツ)
DF   ウロシュ・ラジッチ (  ノヴィ・パザル)
No. Pos. 選手名
DF   オグニェン・ミモヴィッチ (  OFKベオグラード)
DF   アレクサンダル・ジェルマノヴィッチ (  OFKベオグラード)
DF   アンドレイ・ジュリッチ (  スパルタク・トルナヴァ)
MF   ウラジースラフ・ゴルジン (  テクスティラツ)
MF   ケネディ・イクポロ (  ラドニチュキB)
FW   アレクサンダル・カフヴィッチ (  OFKベオグラード)

契約中選手 編集

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
13 DF   アレックス・ビーゴ
32 GK   マルコ・チョピッチ
No. Pos. 選手名
66 GK   ヨヴァン・ミラディノヴィッチ
MF   フィリッポ・ファルコ

歴代監督 編集

監督 シーズン
1   ブラニスラヴ・セクリッチ 1946
2   スヴェティスラヴ・グリショヴィッチ 1946-48
3   アレクサンダル・トマシェヴィッチ 1948-50
4   リュビシャ・ブロチッチ 1951
5   ジャルコ・ミハイロヴィッチ 1951-53
6   ブラニスラヴ・セクリッチ 1953
7   リュビシャ・ブロチッチ 1953-54
8   ボシュコ・ラリッチ 1954
9   ミロヴァン・チリッチ 1954-57
10   ミシャ・パヴィッチ 1957-64
11   イヴァン・トプラク 1964-66
12   ミリャン・ミリャニッチ 1966-74
13   ミリェンコ・ミヒッチ 1974-75
14   ミロヴァン・チリッチ 1975-76
15   ゴイコ・ゼツ 1976-78
16   ブランコ・スタンコヴィッチ 1978-82
17   ステヴァン・オストイッチ 1982-83
18   ゴイコ・ゼツ 1983-86
19   ヴェリボル・ヴァソヴィッチ 1986-88
20   ブランコ・スタンコヴィッチ 1988-89
21   ドラゴスラヴ・シェクララツ 1989-90
22   リュプコ・ペトロヴィッチ 1990-91
23   ヴラディツァ・ポポヴィッチ 1991-92
24   ミラン・ジヴァディノヴィッチ 1992-94
25