ウラジーミル・レーニン

ロシアの革命家、政治家
レーニンから転送)

ウラジーミル・イリイチ・レーニンロシア語: Влади́мир Ильи́ч Ле́нин1870年4月22日1924年1月21日)は、ロシアの革命家政治家ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派の指導者として活動し、1917年十月革命を成功させ、史上初の社会主義国家であるロシア・ソビエト共和国を樹立し、人民委員会議議長として同国の初代指導者に就任した。翌1918年にはボリシェヴィキによる一党独裁体制を確立させると共に、党名を共産党と改めた。1919年には第二インターナショナルに代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルンの創設を主導、その後1922年にはソビエト連邦の成立に深く関与し、同連邦の初代最高指導者を1924年に死去するまで務めた。マルクス主義者として政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想はレーニン主義として継承された。

ウラジーミル・イリイチ・レーニン
Влади́мир Ильи́ч Ле́нин
Lenin 1920.jpg
1920年のレーニン
Flag of the Soviet Union (1924–1955).svg ソビエト連邦
Coat of arms of the Soviet Union 1.svg 最高指導者
任期
1922年12月30日 – 1924年1月21日
後任者 ヨシフ・スターリン
Flag of the Soviet Union (1924–1955).svg ソビエト連邦
初代人民委員会議議長
任期
1923年7月6日 – 1924年1月21日
後任者 アレクセイ・ルイコフ
Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic (1918–1937).svg ロシア・ソビエト共和国
初代人民委員会議議長
任期
1917年11月8日 – 1924年1月21日
後任者 アレクセイ・ルイコフ
個人情報
生誕 ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ
(1870-04-22) 1870年4月22日
Flag of the Russian Empire (black-yellow-white).svg ロシア帝国シンビルスク
死没 1924年1月21日(1924-01-21)(53歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 ロシア共和国 モスクワ県ポドリスク郡ゴールキ
政党
配偶者 ナデジダ・クルプスカヤ (1898–1924)
出身校 サンクトペテルブルク大学
署名

本姓はウリヤノフУлья́нов)であり、レーニンは筆名。多くの著作でN・レーニン(Н. Ленин)と自署しており、本人が「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」と名乗った例はない。


生涯編集

生い立ち編集

 
1874年、当時3歳のレーニン(左)と妹のオルガ(右)

レーニンは1870年4月22日、ロシア帝国のシンビルスク(現ウリヤノフスク)で生まれ、生後6日で洗礼を受けた[1]。父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフアストラハン出身でアジア系の血を引く物理学者であり、母マリア・アレクサンドロヴナ・ブランク英語版ロシア語版はドイツ人、スウェーデン人、ユダヤ人の血を引いていた。しかし両親は子どもたちをロシア人として育てた[2]。父イリヤは物理学者としてだけでなく、著名な教育者でもあり[注釈 1]、その功績を皇帝に評価されて1882年聖ウラジーミル勲章英語版を授与され、世襲貴族に列せられた人物だった。両親は共に君主制主義者かつ自由保守主義者であり、ロシア皇帝アレクサンドル2世が実施した農奴解放令にも熱心に取り組んでいた[3]。2人は政治的過激派を避けており、危険人物として帝国警察の監視下に置かれていたという記録も存在していない[3]

レーニンは両親の3番目の子であり、上には姉アンナ(1864年生)と兄アレクサンドル(1866年生)が、下にはオルガ(1871年生)とドミトリー(1874年生)、マリア(1878年生)がおり、他に生後すぐ早世した2人の姉弟がいた[4]。父イリヤがロシア正教会の敬虔な信者であった一方で、母マリアはルーテル教会の信徒として育てられたもののキリスト教的信仰にはほとんど関心がなく、彼女の宗教観は子供たちにも影響を与えた[5]。レーニンは姉弟の中でも特に妹のオルガと親しく、彼女に対してはしばしば威張り散らしていた。当時のレーニンは極めて競争心が強く、気性の荒さを見せていたが、自分が犯した間違いについては認めることが多かった[6]。入学したシンビルスク古典中高等学校では非常に成績優秀であった一方、スポーツにも熱心であり、自由時間はほとんど屋外に出るかチェスを遊んで過ごした[7]

青年時代編集

 
1887年のレーニン

1886年1月、レーニンが15歳の時、父イリヤが脳内出血に死亡した[8]。父の死後、レーニンの行動は無秩序で反抗的になり、神への信仰も放棄した[9]。その頃、サンクトペテルブルク大学に通っていた兄アレクサンドルは絶対君主制に抗議する反政府活動を組織していた。彼はその後、皇帝アレクサンドル3世の暗殺を目論む革命グループに参加し、爆弾の製造役に選ばれたが、暗殺が決行される前に計画は露呈し、アレクサンドルら共謀者は逮捕されたのち裁判で死刑を宣告され、1887年5月に絞首刑に処された[10]。父と兄の死により精神的ショックを受けたものの、レーニンは引き続き学業に励み、古典中高等学校を首席で卒業し、その際には卓越した成績を称えて金メダルを授与された[11]1887年8月、レーニンは父の母校であるカザン大学に入学して法学を専攻したが[12]、レーニンはカザン大学でも勢いを得ていた学生運動に参加し、1887年12月に暴動行為により警察に拘束され、大学から退学処分を受けた[13]。大学を放校されたレーニンは、帝国内務省によって流刑に処され、コクシキノ村の一族の所有地に追放された[14]

コクシキノ村での流刑の間、レーニンは書物を読み漁り、ニコライ・チェルヌイシェフスキーが1863年に著した革命小説『何をなすべきか?ロシア語版英語版』に熱中した[15]。母マリアはレーニンの思想の先鋭化に懸念を抱き、内務省にかけあって息子をカザン市内に帰還させる許可を得た[16]。カザンに戻ったレーニンはニコライ・フェドセーエフ英語版の主催する革命サークルに参加し、そこでカール・マルクス1867年に著した『資本論』と出会い、マルクス主義への興味を抱いた[17]

1889年には母がサマーラ県に買った農場に移住したもののうまくいかず、サマーラ市へと転居した[18]サマーラに移ったレーニンはアレクセイ・スクリアレンコ英語版による社会主義議論サークルに参加し[19]、その影響下でマルクス主義の本格的な信奉者となり、マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが1848年に発表した『共産党宣言』のロシア語訳を手掛けた[20]

1890年5月、母マリアによる当局との交渉の末、レーニンは学外学生としてサンクトペテルブルク大学の試験を受けることを許可された。1891年、レーニンはサンクトペテルブルクを訪れて同大学の試験を受け、全科目で満点をとり、試験官の推薦により修了証明書を与えられた。しかし、大学卒業への祝いは妹オルガが腸チフスによって病死したことで損なわれた[21]。1891年11月、レーニンは弁護士を開業する資格を得た[22]。その後はサマーラの弁護士事務所に勤めたものの1年半ほどで辞職し、1893年にはサンクトペテルブルクに移住した[23]

革命家へ編集

 
1895年のレーニン

サンクトペテルブルクに移ったレーニンは、弁護士助手として働く傍らマルクス主義革命結社 「社会民主党」に参加し(結社名はドイツ社会民主党に由来)、やがて党の幹部に昇格した[24]。この頃には、同じマルクス主義者の学校教師ナデジダ・クルプスカヤとの交際を始めた[25]。レーニンは自らが所属する社会民主党と、スイスのロシア人亡命者によるマルクス主義組織「労働解放団」との間に関係を確立することを望み、労働解放団メンバーのゲオルギー・プレハーノフパーヴェル・アクセリロードに会うためスイスを訪問した[26]。帰国後はロシア各地を巡り、国外から大量に持ち帰った非合法な革命的出版物を当地のストライキ労働者に配った[27]1895年秋、レーニンはサンクトペテルブルクの全てのマルクス主義労働者グループを統合して「労働者階級解放闘争同盟英語版」を結成した[12]。その後、闘争同盟の非合法機関紙『ラボーチェエ・デーロ英語版』の発行に関与したが、同年12月に他の39人の活動家と共に逮捕され、扇動罪に問われた[28]。逮捕されたレーニンは罪状を全面的に否認したが、その後刑の宣告まで1年にわたって収監されることとなった[29]

1897年2月、レーニンは東シベリアでの3年間の流刑を宣告され、身の回りの整理のためサンクトペテルブルクで3日間過ごすことを許可されたが、レーニンはその猶予期間を闘争同盟のメンバーと会うために利用した[30]。レーニンは政府に対する大きな脅威ではないとみなされており、流刑地のシュシェンスコエ英語版村では警察の監視下に置かれたものの、村から他の革命活動家と文通することは可能であり、近くのエニセイ川で泳ぐことや水鳥の狩猟を楽しむことも許可されていた[31]

 
レーニン(中央)と他の労働者階級解放闘争同盟英語版のメンバー(1897年撮影)

1898年5月、レーニンは流刑地でクルプスカヤと再会した。彼女はストライキを組織したことで1896年8月に逮捕され、当初ウファでの流刑に処されていたが、自分とレーニンが婚約していると主張して当局を説得し、シュシェンスコエ村に移送されてきた[32]。その後、レーニンとクルプスカヤは1898年7月10日に結婚した[32]。この頃、ドイツでは選挙による平和的な社会主義実現を主張するエドゥアルト・ベルンシュタイン修正主義者が台頭し、マルクス主義者の間でイデオロギー上の対立が生じていた。その中でもレーニンは暴力革命を強力に支持し続け、『ロシア社会民主党員による抗議』という著作の中で修正主義者の主張を攻撃した[33]。1899年には『ロシアにおける資本主義の発展英語版』を著し、 農業社会主義英語版を批判すると共に、ロシアの経済発展に対するマルクス主義的な分析を提示した。この著作はウラジーミル・イリイン (Vladimir Ilin) という筆名の下で出版されたが、内容への評価は低かった[34]

ロシア社会民主労働党の分裂編集

1900年1月に刑期が終了し、プスコフにしばらくとどまったのち7月にスイスへ亡命した[35]。1900年9月、バイエルン王国の首都ミュンヘンに移住し、同年12月には流刑中に結成されていたロシア社会民主労働党[注釈 2]の機関紙『イスクラ』を創刊した。編集局のメンバーはレーニンの他にユーリー・マルトフポトレソフプレハーノフアクセリロードザスーリチであった。この新聞を中心とするグループは「イスクラ派」と呼ばれた。ヨーロッパの著名なマルクス主義者が寄稿した『イスクラ』はロシア帝国内へと密輸され[36]、過去50年間で最も成功した地下出版物となった[37]

1901年12月、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフは初めて「レーニン」という筆名を使用した[38]。これは「レナ川の人」を意味するが、由来には諸説ある。自身が送られた流刑地の近くを流れていたのがレナ川だったからという説がしばしば挙げられるが、彼のいたシュシェンスコエの側を流れていたのはエニセイ川であり、実際にレナ川を訪れたことは一度もなかった[39]。他に、レナ川中流のレンゾロト金鉱で、待遇の改善を求めてストライキを起こした鉱山労働者たちを動員された軍が虐殺したレナ虐殺事件が起こり、これに抗議し犠牲になった労働者を弔う意味を込めたという説もあるが、事件が発生したのは1912年4月であり、時系列が合わない。同志であったプレハーノフの使っていた多数の偽名の中に、ヴォルガ川にちなんだ「ヴォルギン」があったが、彼と対立したレーニンは、ヴォルガ川より流れの勢いが強いレナ川を引用したという説もある。しかし、両者の対立はレーニンの名を用いた時点ではまだ起きていなかったため、いずれも信憑性には疑問がある。翌1902年には、レーニンの筆名の下で『なにをなすべきか?』と題するパンフレットを出版し、前衛党がプロレタリアート革命を指導することの必要性について論じた[40]。レーニンはカール・カウツキーの言葉を引用し、「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」と述べ、この考え方は後に「外部注入論」と呼ばれるようになった。『なにをなすべきか?』はレーニンの著作の中でも最も影響力を持ったものと評価されている[40]

レーニンはミュンヘンで『イスクラ』の執筆を続け、イデオロギー上の対立者や批判者、とりわけ社会革命党(エスエル)に対して攻撃を加えた[41]。1902年4月、バイエルンの警察を恐れたレーニンは『イスクラ』と共にロンドンに移住した[42]。ロンドンでは同胞のマルクス主義者レフ・トロツキーと友人になった一方で[43]丹毒を患って『イスクラ』編集局で中心的役割を担うことができなくなり[44]、レーニン不在の間に『イスクラ』の本部はジュネーヴに移された[44]

1903年7月、ロンドンでロシア社会民主労働党の第2回党大会が開かれたが[45]、大会ではレーニンの支持者とマルトフの支持者が激しく対立した。マルトフは、党員は党指導部に縛られることなく独自の意見を表明することを許されるべきと主張したが、レーニンはそれに反対し、強力な指導部が党全体を完全にコントロールすることの必要性を強く主張した[46]。ロシア社会民主労働党はレーニン支持派の「ボリシェヴィキ(多数派)」とマルトフ支持派の「メンシェヴィキ(少数派)」という2つの派閥に分裂し、『イスクラ』編集局の6名のうち、レーニン以外の5名はメンシェヴィキへ移ったため、レーニンはボリシェヴィキの突出した指導者となった。党大会後も両者の論争は続き、ボリシェヴィキがメンシェヴィキを「規律を欠く日和見主義・社会改良主義」と批判した一方で、メンシェヴィキはレーニンを「独裁・専制主義者」として非難した[47]。メンシェヴィキに憤慨したレーニンは『イスクラ』編集局を辞職し、1904年5月にメンシェヴィキを批判した著作『一歩前進、二歩後退』を出版した[48]

ロシア第一革命と労農民主独裁論編集

1905年1月、サンクトペテルブルクで起こった血の日曜日事件をきっかけに動乱がロシア帝国全土に広がり、1905年革命(ロシア第一革命)として知られる革命へと発展した[49]。レーニンはこの動乱においてボリシェヴィキがより大きな役割を演じることを要求し、暴力的な蜂起を呼びかけた[50]。1905年8月には『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を出版して革命に対する見解を提示し、ロシアの自由主義的ブルジョワジーは立憲君主制への移行で満足してしまうため革命の遂行を裏切ると予想した上で、プロレタリアートは農民と同盟を結んで君主制を打倒し、臨時的に「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」体制を樹立する必要があると論じた.[51]

ロシア第一革命への反応としてニコライ2世十月詔書を発布し、いくつかの自由主義的改革を約束した。レーニンはこの状況下では安全と見てサンクトペテルブルクに帰還した[52] この頃、レーニンは党員からの徴収や裕福な支援者からの寄付だけでは活動資金源として不十分と認識し、郵便局、列車、銀行などへの強盗による資金集めを承認した。ボリシェヴィキはレオニード・クラーシンの指導下でそのような犯罪行為に手を染め始め、1907年6月にはヨシフ・スターリン指揮下の党員がグルジアのトビリシ帝国銀行に対する武装強盗を決行した[53]。1906年4月にストックホルムで開かれた第4回党大会において、レーニンによる暴力や強盗の支持はメンシェヴィキから激しく非難された[54]

1907年1月、レーニンはサンクトペテルブルクのフィンランド大公国領クオッカラ地区で生活を始め[55]、当地ではボリシェヴィキの拠点構築に関与した[56]。その後、1907年5月にロンドンで開催された第5回党大会ではボリシェヴィキがロシア社会民主労働党における支配的勢力を取り戻した[56]。帝政政府が反対派への弾圧を強め、秘密警察機関の「オフラーナ」に革命活動家の逮捕を命じると、レーニンはフィンランド領から逃亡してスイスに移住した[57]

 
1908年、レーニンはロンドンの大英博物館図書室(写真)で研究を行った。

1908年5月、レーニンは短期間ロンドンで生活し、大英博物館図書室を利用して『唯物論と経験批判論英語版』 を著し、有力なボリシェヴィキであるアレクサンドル・ボグダーノフが主張する相対主義の「ブルジョワ反動的な欺瞞」を攻撃した[58]。レーニンの分派的行動は他のボリシェヴィキとの不和を生み、アレクセイ・ルイコフレフ・カーメネフといった元々の支持者をも遠ざけた[59]。オフラーナはこのレーニンの傾向を利用し、スパイとしてロマン・マリノフスキーをボリシェヴィキに送り込み、レーニンの分派行動を積極的に支持させることで党内の対立を煽った[60]

1910年8月にコペンハーゲンで開かれた第二インターナショナル第8回大会にロシア社会民主労働党の代表として参加した後[61]、レーニンは妻や姉らと共にフランスの首都パリに居を移し[62]、当地ではフランス人ボリシェヴィキのイネッサ・アルマンドと親密な仲になった[63]。一部の伝記作家は1910年から1912年にかけてレーニンがアルマンドと不倫関係にあったと示唆している[63]。1912年1月、レーニンはプラハでロシア社会民主労働党の協議会を主催したが、召集された参加者18名のうち16名がボリシェヴィキであり、メンシェヴィキは2名だけだった[64]。このプラハ協議会英語版でボリシェヴィキは独自に新たな党中央委員会を選出したため、以降ボリシェヴィキとメンシェヴィキは正式に別々の政党となった[64][65]。党中央委員に選ばれた7名にはレーニン、ジノヴィエフオルジョニキーゼの他、帝国のスパイであるマリノフスキーも含まれており[64]、選任されたばかりの委員の多くがロシアへの帰国後に逮捕された[66]。逮捕によって欠員が生じたことを受け、レーニンはスターリンを新たな党中央委員として抜擢した[66]

1912年7月、レーニンはガリツィア・ロドメリア王国クラクフに居を移し、そこではヤギェウォ大学の図書館を利用して研究を行った[67][55]。1913年1月、スターリン(当時のレーニンは「素晴らしいグルジア人」と評していた)がクラクフのレーニンを訪問し、2人は帝国内の非ロシア人民族集団の将来について議論を交わした[68]。その後、レーニンは妻と共に田舎町のビャウィ・ドゥナイェツ英語版に移住し[69]、1913年5月には妻クルプスカヤに甲状腺腫の手術を受けさせるためベルンに移った[70][55]

第一次世界大戦と『帝国主義論』編集

1914年に第一次世界大戦が勃発した時、レーニンはオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィアに居た[71]。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は敵国同士となったため、ロシア国籍のレーニンは逮捕され、少しの間収監された[72]。釈放後、レーニン夫妻はベルンに戻り[73]、1916年2月にはチューリヒに居を移した[74]。レーニンはドイツ社会民主党が第二インターナショナルのシュトゥットガルト決議(社会主義政党が戦争に反対することを義務付けていた)に反し、自国の戦争遂行を支持したことに怒り、第二インターナショナルは消滅したものとみなした[75]。その後、社会主義者による1915年9月のツィンマーヴァルト会議と1916年4月のキーンタール会議に出席し[76]、全ヨーロッパでこの「帝国主義戦争」を、プロレタリアートが貴族階級・ブルジョワ階級に立ち向かう「内乱」へと転化するよう、各国の社会主義者に呼びかけた[77]

1916年7月には『資本主義の最高の段階としての帝国主義(帝国主義論)』の執筆を完了した[55]。翌1917年の9月に出版されたこの著作でレーニンは、帝国主義が資本家による利益追求の結果として生じる国家独占資本主義の産物であると論じた。その上で、競争と衝突は今後もエスカレートし、大国間の戦争は帝国主義政権がプロレタリア革命によって打倒され、社会主義政権が樹立されるまで継続すると予想した[78]。同じ7月には母マリアがペトログラードで死去したが、レーニンは葬儀に参列することができなかった[79][55]。母の死はレーニンを意気消沈させ、自らもプロレタリア革命を目撃する前に死ぬことになるのではないかという恐怖を抱かせた[80]

四月テーゼと『国家と革命』編集

 
レーニンが直筆した四月テーゼの下書き

1917年2月、二月革命が首都ペトログラード(開戦時にサンクトペテルブルクから改称された)で勃発し、ロシア皇帝ニコライ2世は退位した。権力を掌握した国家ドゥーマによってロシア臨時政府が樹立され、ロシア帝国は「ロシア共和国」へと改革された[81]。スイスで二月革命について知らされたレーニンは、他の反体制活動家らと共に革命の発生を祝った[82]。レーニンはボリシェヴィキを指導するためロシアに帰国する意思を固めたが、戦争によりほとんどの帰国ルートは封鎖されており、唯一の方法はドイツ帝国の国土を通過することだった。ドイツ政府はレーニンのような反体制分子は敵国ロシアに混乱をもたらすと判断し、彼とその妻を含む32名のロシア人が封印列車ロシア語版に乗り込み、ドイツ領内を通過して母国へと向かうことを許可した[83]。レーニンらの一行は封印列車でチューリヒからドイツのザスニッツ英語版に移動した後、フェリーに乗り換えスウェーデンを経由してヘルシンキへと向かい、そこからペトログラード行きの最後の列車に乗り込んだ[84]

1917年4月、ペトログラードのフィンリャンツキー駅に到着したレーニンは、ボリシェヴィキの支持者らに向けて演説を行い、ロシア臨時政府を厳しく批判すると共に、全ヨーロッパでのプロレタリア革命という主張を繰り返した[85][55]。その後の数日間にはボリシェヴィキの諸会議に出席してメンシェヴィキとの融和を主張する党員を譴責すると共に、スイスからの旅の途中で書き上げた『四月テーゼ』を党の綱領案として発表した[86]。レーニンは権勢あるペトログラード・ソビエト英語版を支配しているメンシェヴィキと社会革命党がロシア臨時政府に協力していることを非難し、両者を社会主義への裏切り者として糾弾した。そして、臨時政府はツァーリの政府と同程度に帝国主義的であると定義し、プロレタリア政権を樹立して社会主義社会へ向かうための手段として、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの即時和平・ソビエトへの権力集中・産業と銀行の国有化・国家による土地収用などを提唱した。対照的に、メンシェヴィキはロシアがまだ社会主義社会に移行する段階に達していないと考えており、レーニンは誕生したばかりの新共和国を内戦へと導こうと試みていると批判した[87]

 
1917年7月、ペトログラードで起こった反ロシア臨時政府のデモ(七月蜂起

その後の数カ月間、レーニンは自らの綱領を広めるための運動に励み、ボリシェヴィキ中央委員会の諸会議に出席し、党機関紙 『プラウダ』に多く寄稿する一方で、労働者、兵士、農民、水兵からの支持を得るため、ペトログラードの街中で大衆に向けた演説を行った[88]。1917年7月、ペトログラードで兵士たちによる反ロシア臨時政府の武装デモ (七月蜂起) が発生したが、その武装デモに関わるボリシェヴィキの求心力低下を狙った臨時政府が「レーニンはドイツのスパイである」との情報をペトログラード駐留部隊の前で公表したため、レーニンおよびボリシェヴィキの支持は急落し、武装デモに参加した部隊は臨時政府側の部隊に次々と武装解除され、武装デモは鎮圧された[89]。臨時政府はレーニンと他のボリシェヴィキ幹部の逮捕令を発したが[90]、レーニンは逮捕を逃れ、ペトログラード市内の多くの隠れ家を転々としつつ潜伏した[91]

臨時政府に殺害されることを恐れたレーニンとグリゴリー・ジノヴィエフは変装してペトログラードから逃走し、ラズリーフ湖英語版周辺に拠点を移した[92]。レーニンは逃亡に成功したものの、臨時政府により多くのボリシェヴィキ幹部が逮捕され、ボリシェヴィキの勢力は一時的に大きく後退することになった。ラズリーフでレーニンはのちに『国家と革命』として出版される本の執筆を開始した[93]。同書では自らの国家観を提示し、プロレタリア革命後の社会主義国家が発展することでいずれ国家が消滅し、純粋な共産主義社会を残すのみとなる過程について論じた[93]。この頃、レーニンはボリシェヴィキが武装蜂起を起こして臨時政府を転覆することを主張し始めたが、秘密裏に開かれた党中央委員会でレーニンの提案は退けられた[94]。その後、列車と徒歩でフィンランドに向かい、8月10日にはヘルシンキに到着し、当地ではボリシェヴィキ支持者が所有する隠れ家に潜伏した[95]

十月革命と権力掌握編集

 
スモーリヌイ学院の前に立つレーニンの肖像画(イサーク・ブロツキー英語版作)

レーニンがフィンランドに居た1917年8月、ロシア共和国軍の最高総司令官ラーヴル・コルニーロフが軍事クーデターを試み、首都ペトログラードに向け指揮下の部隊を進軍させた。ロシア臨時政府の首相アレクサンドル・ケレンスキーは(ボリシェヴィキを含む)ペトログラード・ソビエトに支援を要請し、首都防衛のためボリシェヴィキが労働者を武装し「赤衛隊英語版」として組織することを容認した。コルニーロフの反乱はペトログラードに到達する前に鎮圧されたが、一連の出来事はボリシェヴィキを政治の表舞台へと復帰させた[96]。また、社会主義を敵視する右派による反革命の動きを恐れたメンシェヴィキと社会革命党が臨時政府に圧力をかけ、ボリシェヴィキとの関係を正常化させた[97]。その後、臨時政府が逮捕されていた党幹部の釈放に応じたため、ボリシェヴィキの党勢を急速に挽回することが出来た。メンシェヴィキと社会革命党は人気のない戦争を継続するロシア臨時政府との協力関係によって大衆からの支持を失っており、ボリシェヴィキはそれに乗じて支持を拡大し、やがてボリシェヴィキ派のマルクス主義者レフ・トロツキーがペトログラード・ソビエトの議長に選出された[98]。9月、ボリシェヴィキはペトログラードとモスクワの労働ソビエトで過半数の支持を獲得した[99]

1917年10月、レーニンはペトログラードへと戻った[55]。ペトログラードとモスクワの両都市で多数派を占めることに成功したことを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキ内で主張し、反対するジノヴィエフとカーメネフを批判した[100]。また、トロツキーがソビエト大会にあわせた蜂起を主張したことについても、絶好のチャンスを逃してしまうことを恐れ、ボリシェヴィキ単独での即時蜂起を主張した[101]。10月11日の夜明け前、ボリシェヴィキ中央委員会で投票が行われ、10対2でレーニンが主張する武装蜂起の決行が採択された[102]。ボリシェヴィキは武装蜂起の計画に着手し、10月24日にはペトログラードのスモーリヌイ学院英語版で会議を開き、最終的な打ち合わせを行った[103]。スモーリヌイ学院はボリシェヴィキに忠実な軍事機関である「軍事革命委員会英語版」の本拠として使われていた[104]

10月24日夜、軍事革命委員会は指揮下の兵と赤衛隊に命令を出し[105]、ペトログラード市内の主な輸送機関、通信機関、印刷機関、公共公益設備を制圧するよう指示した[106]。ボリシェヴィキの軍勢は無血で目標を達成することに成功し[106]、続いて臨時政府の置かれている冬宮殿を包囲した。ボリシェヴィキ派の水兵が乗る巡洋艦「アヴローラ」が宮殿への砲撃を実行した後、冬宮は制圧され、臨時政府の閣僚は逮捕された[107]。この武装蜂起の最中、レーニンはペトログラード・ソビエトに向けて演説を行い、ロシア臨時政府は打倒されたと宣言した[108]

政権発足編集

ボリシェヴィキは新たな行政府として 「人民委員会議(ソヴナルコム)」の設立を決定した。当初レーニンは人民委員会議のトップである議長への就任を固辞し、トロツキーを議長職に推薦したが、党員からの強い要請により最終的に議長就任を受け入れた[109]。レーニンらボリシェヴィキ指導者は1917年10月26日から27日にかけ開催された第2回全ロシア・ソビエト大会英語版に出席し、新政府の樹立を宣言したが、参加したメンシェヴィキはボリシェヴィキによる権力奪取は違法であり内戦の危険をもたらすものであるとして非難した[110]。この当時、レーニンを含む多くのボリシェヴィキはプロレタリア革命の全ヨーロッパへの波及は目前に迫っていると考えていた[111]

レーニンの政権は発足後ただちに一連の布告を発した。土地に関する布告では、貴族と正教会の所有地を国有化し、地方行政機関を通じて農民に再分配すると宣言した。これは農業の集団化を希望するレーニンの意向に反していたが、すでに蔓延していた農民による土地の接収に国家的承認を与えるものだった[112]平和に関する布告では、第一次世界大戦の全ての交戦国に無併合・無賠償の講和を提議した。1917年11月に出された別の布告は、ボリシェヴィキに反対する多くの報道機関を反革命として廃止した。この布告は報道の自由を侵害するものとして広範な批判を巻き起こし、批判者には多くのボリシェヴィキ党員も含まれていた[113]。一方で、1917年12月20日には秘密警察として反革命・投機・サボタージュ取締り非常委員会(全露非常委員会・БЧК チェーカー)を創設して反政府派の弾圧を始めた。憲法制定議会の選挙は11月に実施されたものの、第一党は得票率40パーセントを得た社会革命党となりボリシェヴィキは得票率24パーセントにとどまったため、翌年1月5日にはボリシェヴィキ自身が開催を求めていたはずの憲法制定会議を開会直後に退席し、同日解散させた[114]

ブレスト=リトフスク条約編集

権力の座についたレーニンは、政権にとって緊急の課題は中央同盟国と講和を結び、第一次世界大戦から離脱することであると認識していた[115]。1917年11月、レーニン政権は第2回全ロシア・ソビエト大会で平和に関する布告を発表し、ドイツとオーストリア=ハンガリーの両政府に3カ月の休戦を提案した[116]。これを西部戦線に集中する好機と捉えたドイツ政府は前向きな反応を示し[117]、12月には休戦協定の交渉がドイツ軍の東部戦線司令部が置かれるブレスト=リトフスクで始まり、トロツキーとアドリフ・ヨッフェによって率いられるロシア側代表団が到着した[118]。間もなく1918年1月までの休戦協定は合意されたが[119]、その後の和平交渉でドイツ側はポーランド、リトアニア、クールラントなど戦争中に獲得した領土の維持を要求し、ロシア側はその要求は民族自決権の侵害であると抗議した[120]。この時期、ボリシェヴィキの一部は交渉を長引かせることでプロレタリア革命がヨーロッパ全域で巻き起こるまで時間を稼ぐことを望んでいた[121]。一方で、ニコライ・ブハーリンのような強硬派のボリシェヴィキ指導者はドイツで革命を誘発する手段として戦争の継続を主張していた。1918年1月7日、トロツキーが中央同盟国からの最後通牒を携えてブレスト=リトフスクからサンクトペテルブルクに帰還し、ボリシェヴィキはドイツによる領土的要求の受諾か戦争の再開かの選択を迫られた[122]

 
1917年12月、ブレスト=リトフスクで休戦協定に調印する独露の代表団

1918年1月から2月にかけ、レーニンはボリシェヴィキ政権の存続を確実にできるならば領土の喪失は容認可能であり、ドイツ側の要求を受け入れるべきであると主張した。大多数のボリシェヴィキはレーニンの提言を拒絶し、ドイツの脅しをブラフと見て休戦を引き延ばすことを望んだ[123]。1918年2月18日、ドイツ軍はファウストシュラーク作戦を発動してロシアに攻勢を仕掛け、作戦初日にドヴィンスクを占領するなど支配領域を拡大した[124]。この状況下、レーニンはかろうじてボリシェヴィキ中央委員会の過半数を説得することに成功し、中央同盟国側の要求を受諾することが決定された[125]。2月23日、中央同盟国は新たな最後通帳を発し、ポーランドとバルト三国に加えウクライナもドイツの支配領域となることを認めるか、ドイツ軍による本格的な侵攻に直面するかの選択をボリシェヴィキに迫った[126]

1918年3月3日、中央同盟国との講和条約であるブレスト=リトフスク条約が締結された[127]。この条約の結果としてロシア側が失った領土は甚大であり、旧ロシア帝国の人口の26%、農業収穫面積の37%、産業の28%、鉄・石炭の埋蔵量の4分の3がドイツ帝国に引き渡されることとなった[128]。したがって、この条約はロシア国内のあらゆる政党に極めて不評であり[129]、一部のボリシェヴィキは条約締結への抗議として人民委員会議を離脱した[130]。また、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた社会革命党左派(左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハドイツ語版伯爵暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ運動を起こした。

ブレスト=リトフスク条約の調印も中央同盟国の敗戦を防ぐには至らず、1918年11月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退陣し、新たに発足した新ドイツ政府は連合国休戦協定を結んだ。これを受けて、ボリシェヴィキ政府(人民委員会議)はブレスト=リトフスク条約の無効を宣言した[131]

暗殺未遂事件編集

1918年1月、レーニンはペトログラードで暗殺未遂に遭ったが、フリッツ・プラッテン英語版が盾となり代わりに銃弾を受けたことで負傷を免れた[132]。1918年3月、ペトログラードがドイツ軍に脅かされることへの懸念から、ボリシェヴィキは人民委員会議をモスクワへと移転した(当初これは一時的な処置となる予定だった)[133]。それに伴い、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導者もモスクワのクレムリンに居を移した[134]。1918年3月の第7回党大会にて、ボリシェヴィキは党の正式名を「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党」に改称したが、これは修正主義的傾向を強めるドイツ社会民主党と距離を置き、同時に共産主義社会という党の最終目的を強調することを望むレーニンの意向を反映したものだった[135]。1918年7月、第5回全ロシア・ソビエト大会ロシア語版英語版において新憲法ロシア語版英語版の制定が承認され、ロシア共和国は「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」へと改められた[136]。また、国家の近代化を目的として、ロシアの従来の暦であるユリウス暦の使用は廃止され、他のヨーロッパ諸国と同様のグレゴリオ暦に切り替えられた[137]

1918年8月、モスクワでレーニンは2度目の暗殺未遂に遭い、工場での演説を終えた帰途に銃で撃たれ重傷を負った[138]。実行犯としてエスエル党ファーニャ・カプランロシア語版英語版が逮捕され、処刑されたが[139]、犯人は別人であったという説も存在する。いずれにしてもこの事件はミルバッハ暗殺と合わせて右翼エスエルを弾圧するきっかけになった。事件はロシアで広く報道され、同情を受けたレーニンの人気は高まった[140]。また、暗殺未遂の「報復」と称して事件とは無関係の512人もの旧貴族や臨時政府の閣僚を含む政治家、軍人が、ただ帝政派であるという理由だけで逮捕、処刑された(→赤色テロ)。1918年9月、レーニンは静養のためモスクワ近郊のゴールキの邸宅に移された[141]

コミンテルンの創設編集

 
1919年5月1日、赤の広場で演説を行うレーニン

西部戦線で休戦協定が結ばれた後、レーニンはヨーロッパ諸国で革命が巻き起こるのは今や時間の問題であると考えた[142]。革命を促進するため、人民委員会議は1919年3月のクン・ベーラによるハンガリーの共産主義政権樹立を支援し、それに続いてバイエルンでも社会主義政権が樹立され、ドイツの他地域でも(1月のスパルタクス団の武装蜂起を含む)社会主義者による革命的蜂起が続発していた[143]。1919年3月にはモスクワで国際共産主義組織「コミンテルン」の創立大会が開催され、レーニンはその開会演説を行った[144][55]。大会期間中、レーニンは参加各国の代表団に向けて、修正主義的マルクス主義者が信奉する議会主義を厳しく批判し、ヨーロッパのブルジョワ政権を暴力的手段によって転覆するよう改めて呼びかけた[145]。コミンテルンの初代議長にはジノヴィエフが就任したが、レーニンはこの組織に対する重大な影響力を保ち続けた[146]

1920年7月、ペトログラードのスモーリヌイ学院英語版で第2回コミンテルン大会が開会し[147]、大会中レーニンは各国代表団にボリシェヴィキによる権力奪取を再現するよう激励すると共に、社会進化の過程において資本主義社会の段階は不可避であるという自らの長年の見解を捨て、被植民地支配地域からの代表団に対し資本主義段階を飛ばしてそれぞれの社会を直接社会主義社会へと変革するよう呼びかけた[148]。レーニンはこの大会のために『共産主義における左翼小児病』を著し、イギリスおよびドイツの共産主義政党に見られる、各々の国の議会制度や労働組合への参加を拒否する態度を批判し、革命的目標を達成するためそのような行動を改めるよう要求した[149]。最終的に、レーニンが予想した世界革命勃発は実現せず、ハンガリーの共産主義政府は倒され、ドイツのマルクス主義者による蜂起も鎮圧された[150]

新経済政策と宗教弾圧編集

革命後の列強による干渉戦争や内戦により、ボリシェヴィキ政権は戦時体制を強いられた(戦時共産主義)。企業は国有化され、農民からは余剰穀物が徴発された。内戦終了後、レーニンは新経済政策(ネップ)と呼ばれる新しい政策を打ちだした。余剰穀物の徴発に代えて食糧税を導入し、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた。一定の範囲内で私的商業も認めた。レーニンはこれを労農同盟の再建として解説する一方、ロシアの現状では国家資本主義も一歩前進だと主張した[151]

レーニンは少年時代には既に、権力と癒着し腐敗していたロシア正教会に幻滅していた。マルクス主義的無神論者であり、正教会を反革命の温床とみなしていた。1922年3月、イヴァノヴォ州シューヤで発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。死者まで招いたこの事態に憤慨し、3月19日ロシア正教会の弾圧を指示、『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』と厳命した[152]。これにより多くの主教達を処刑し、教会資産の没収が強行された。同様の弾圧は、ウクライナ正教会グルジア正教会など、ロシア正教会以外の正教会イスラム教のモスクに対しても行われた。チェーカーを動かし、聖職者の処刑と教会資産の没収が強行されていったのである。以降グラスノスチまで、イコンの所持は禁止された。レーニンは後に、「宗教は毒酒である」と言葉を残している。

ソ連邦の形成とグルジア問題編集

レーニンは1921年末から健康状態を悪化させ、1922年には何度か発作を起こして職務から離れた[153]。その間、各ソヴィエト共和国をどのように構成するかが問題となり、とりわけグルジアをめぐって党内に対立が起こっていた。1921年2月にグルジア社会主義ソビエト共和国が成立して以来、ロシア共産党中央委員会カフカース局がグルジアをアゼルバイジャンアルメニアとともにザカフカース連邦として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。

1922年8月、ヨシフ・スターリンは、各ソヴィエト共和国が自治共和国としてロシア連邦共和国に加入する、という「自治化」案を作成した。レーニンはこれを大ロシア排外主義として批判し、ロシア連邦共和国は他の共和国とともにソヴィエト同盟に加入する、という代案を出した。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、修正案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニンの代案にそった決議を通過させた[154]

しかしこの決議ではグルジアはザカフカーズ連邦を通じてソヴィエト同盟に加入することになっていたため、グルジア共産党は拒否し、中央委員会のメンバーが総辞職した。11月にはロシア共産党のオルジョニキーゼが独立派のグルジア共産党員を殴るという事件が起こる。病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した。12月31日に口述筆記された覚え書きで、彼は「抑圧民族、すなわち、いわゆる『強大』民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等をまもるだけでなく、生活のうちに現実に生じている不平等にたいする抑圧民族、大民族のつぐないとなるような、不平等をしのぶことでなければならない」と記した。

 
1922年、スターリンと

この問題をきっかけにレーニンとスターリンの関係は極度に悪化し、レーニンは翌1923年1月4日の「大会への手紙」(いわゆる『レーニンの遺書』)の覚え書きでスターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。3月5日にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、3月6日にグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した。しかし3月10日、彼は発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を永久に失った[155]

死去編集

 
生前最後に撮られた写真(1923年夏)。右手が後遺症のために内側に曲がっている

レーニンは暗殺未遂の後遺症、戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなり、再び休養を命じられる。さらに12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。

モスクワ郊外のゴールキ(現在のゴールキ・レーニンスキエ)の別荘でレーニンは静養生活に入った。レーニンを診察するために、国外からオトフリート・フェルスター英語版ゲオルク・クレンペラードイツ語版らの著名な脳医学者が高額の報酬で雇われ、鎮静剤として臭化カリウムなどが投与された。レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された。クルプスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に死去した。

レーニンの死因は公式には大脳アテローム動脈硬化症に伴う脳梗塞とされている。彼を診察した27人の内科医のうち、検死報告書に署名をしたのは8人だった。このことは梅毒罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は1人のみだった。フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、椎骨動脈脳底動脈内頸動脈前大脳動脈、頭蓋内左頸動脈、左シルビウス動脈の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの循環器にも強い動脈硬化が確認されている[156]。なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟ドミトリーはいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスもそれに拍車をかけた)。

死後編集

葬儀は1月27日にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は26日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった。

レーニンの遺体は、死後ほどなく保存処理され、モスクワレーニン廟に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「剥製である」という説や「蝋人形ではないか」という説も語られていた。

ソ連崩壊後、1930年代から1950年代にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者イリヤ・ズバルスキーが自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、ホルムアルデヒド溶液を主成分とする「バルサム液」なる防腐剤を浸透させたもので、1年半に1回の割合で遺体をバルサム液漬けにするメンテナンスで現在まで遺体を保存しているという[157]

なお、ロシア政府はエリツィンのころより、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、そのつど国内の猛反対にあい撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、クレムリンの壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い。2012年12月に大統領のウラジミール・プーチンはレーニン廟を聖遺物に準えて保存を主張した[158]。また、2019年4月には現代政治問題研究所の所長であるアントン・オルロフがロシア中央選挙管理委員会に、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施を提案する書簡を送ったことが報じられた[159]


この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。

人物編集

歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、レーニンは自分が宿命を負った人間 (man of destiny) であると考えており、自らの理想の正しさと革命指導者としての能力に少しの疑念も抱いていなかった[160]。伝記作家ルイス・フィッシャー英語版はレーニンを、「急激な変化や極端な変革の愛好者」であり「折衷とは全く無縁であって、何事も黒かかの二者択一に誇張する人間」であったと評している[161]。歴史学者リチャード・パイプスは、レーニンが非常にカリスマ性のある人物であったと指摘しており[162]ドミトリー・ヴォルコゴーノフも同様に「(レーニンは)その強烈な個性そのものによって、人々に影響を及ぼすことができた」と評している[163]。他方、レーニンの友人であったマクシム・ゴーリキーは彼の容姿について「禿頭で、ずんぐりと」して「あまりにも平凡」であり、「指導者然とした印象」を与えるものではなかったと述べている[164]

サーヴィスによれば、若き日のレーニンは非常に感情的であり[165]、皇帝の権威に対して強い憎悪を示すのと同時に[166]、マルクス、エンゲルス、チェルヌイシェフスキーといった思想的ヒーローへの「愛情」を培い、彼らのポートレイトを所有し[167]、私的な会話の中で自らがマルクスとエンゲルスを「愛している」とも語っていた[168]。ヴォルコゴーノフの見解では、レーニンはマルクス主義を「絶対的な真理」と捉えており、「宗教的な狂信者」のように振る舞っていた[169]バートランド・ラッセルもまた、レーニンが「マルクス主義の福音への確固たる、宗教的な信仰」を有しているとの印象を抱いた[170]。それらの指摘にもかかわらず、レーニンは無神論者であり、また宗教の批判者であった。レーニンは無神論が社会主義の前提であると理解しており、したがって「キリスト教社会主義」は名辞矛盾であると考えていた[171]

 
クレムリンでアメリカ人ジャーナリストと会談するレーニン。ネコを膝に乗せている(1920年2月)

レーニンはロシア語の他にフランス語、ドイツ語、英語を話し、また読むことができた[172]。健康に気を遣って定期的な運動を心がけており[173]、水泳、狩猟、サイクリングを好んだほか[174]、スイスでは山歩きへの情熱を育んだ[175]。ペットも好み[176]、特にネコを可愛がっていた[177]。乱雑さを嫌い、デスクは常に片付けられ、鉛筆は尖った状態に保たれており、仕事中には完全な静寂を要求した[178]。パイプスは、レーニンが「私的な欲望について極端に自制的」であり、したがって「質素な、ほとんど禁欲的と言える生活スタイル」を送っていたと指摘している[179]。フィッシャーによればレーニンは「最低限度」の虚栄心しか持っておらず[180]、したがって自らに対する個人崇拝も忌み嫌っていたが、それが共産主義運動の統一化に有益である可能性は認めていた[181]

レーニンの性格について、サーヴィスは時に「気まぐれで短気」であったと述べ[182]、パイプスは「徹底的な人間嫌い」であったと評したが[183]、歴史家クリストファー・リードはパイプスの見解に反論し、レーニンが人間、特に子供に対して親切心を示した例は数多く存在すると指摘している[184]。複数の伝記作家によれば、レーニンは反論されることを許容できず、しばしば自分と異なる率直な意見をはねつけたほか[185]、自らの見解にとって不都合な事実を無視し[186]、妥協することを極度に嫌い[187]、間違いを認めることは非常に稀だった[188]

レーニンは自分は民族的にロシア人であると認識していたが[189]、母国ロシアよりも他のヨーロッパ諸国、特にドイツは文化的に優れていると考えており[190]、ロシアを「アジア諸国の中でも最も未開で、中世風の、恥ずべき後進国」と評していた[191]。また、ロシア国民に見られる規律や勤勉さの欠如に苛立っており、青年期からロシアが文化的により西洋的・ヨーロッパ的になることを望んでいた[192]

評価編集

 
ソ連のプロパガンダにおけるレーニンの横顔

レーニンの政権は約70年にわたりロシアを支配することとなる政体の枠組みを築き、それは後発の共産党国家にとっての模範ともなった[193]ため、その影響は全世界に及んでいる[194]ドミトリー・ヴォルコゴーノフはレーニンを評して「史上あれほどの規模で、あのように巨大な社会をあれほどに大きく変革した人物はほとんど存在しない」と述べている[195]

 
東ベルリンにかつて存在したレーニン像(1992年に撤去)

歴史学者アルバート・レシス英語版は、20世紀で最も重要な出来事を十月革命とみなす場合、レーニンは「善かれ悪しかれ、今世紀で最も重要な政治指導者として扱われなければならない」と指摘している[196]ロバート・サーヴィスは一般にレーニンは20世紀における「主要人物 (principal actor)」の1人と扱われているとしており[197]、同様にクリストファー・リードも「最も広く知られ、全世界的に認識される20世紀の象徴的人物の1人」とレーニンを評している[198]。アメリカの雑誌『タイム』はレーニンを 「20世紀で最も重要な100人」にリストしているほか[199]、歴史上の象徴的政治家の上位25名にも選出している[200]

レーニンの政権は多くの歴史学者や伝記作家によって全体主義体制、あるいは警察国家と表現され[201][202]、また一党独裁体制であったと評されている[203]。一部の学者はレーニンを独裁者と形容しているが[204]、歴史家ジェームズ・ライアンはレーニンが「一切の提案が承認され、実行されるという意味の独裁者ではなかった」と述べ、党員がレーニンの意見に異議を唱えることも多かったと指摘している[205]。同様に、ルイス・フィッシャー英語版も「レーニンは一種の独裁者であったが、のちにスターリンがなったような種類の独裁者ではなかった」と述べている[206]。ヴォルコゴーノフも、レーニンは「党による独裁」を確立したが、ソビエト連邦の政体が「1人の男による独裁」に変化したのはスターリンの時代になってからであったとの見解を示している[207]。一方でヴォルコゴーノフは、国家的暴力が共産主義社会の実現には不可欠と信じ、チェーカー秘密警察)やグラグ強制収容所)などのシステムを創設したレーニンを「不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親」と評している[208]

レーニン死後のボリシェヴィキの党内闘争では、対立する諸派はいずれもレーニンの忠実な後継者としてふるまった。スターリン派はマルクス・レーニン主義を体系化し、トロツキー派はボリシェヴィキ・レーニン主義を標榜した。その過程でレーニンは神格化されていった。スターリン批判によりスターリンの権威が落ちた後も、レーニンの権威はほとんど揺らがなかった。また、レーニンのロシア革命が植民地解放運動を支援したこともあって、第三世界ではレーニンを評価する傾向がある。

一方、第二インターナショナルの社会民主主義者はレーニンを厳しく批判した。カール・カウツキーは1918年に出版された『プロレタリアートの独裁』で民主主義論の観点からボリシェヴィキの一党独裁を批判した。レーニンに比較的近い政治的立場をとっていたローザ・ルクセンブルクも獄中で書いた草稿「ロシア革命のために」でボリシェヴィキによる憲法制定議会の解散について批判的な視点を示した。レーニンはカウツキーに対して『プロレタリア革命と背教者カウツキー』で反論し、カウツキーを背教者と非難した。

補足編集

  • クレムリンにはレーニンが使用していた執務室と私室が保存されているが、見学は許可されていない。
  • 出生地のウリヤノフスクではウリヤノフ一家の家宅が公開されている。
  • ペトログラードはレーニンにちなみ、レニングラードと改名された。また、生地のシンビルスクも彼の本名にちなんでウリヤノフスクと改名された。レニングラードは1991年ソ連崩壊時に元(第一次世界大戦前)の名、サンクトペテルブルクに戻された。ただし、同市のある州の名前はレニングラード州のままである。

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ Sebestyen 2017, p. 33.
  2. ^ ロバート・サーヴィス『レーニン』上巻、岩波書店、2002年、第1章
  3. ^ a b Fischer 1964, p. 8; Service 2000, p. 27; White 2001, p. 19.
  4. ^ Fischer 1964, p. 6; Rice 1990, pp. 12, 14; Service 2000, p. 25; White 2001, pp. 19–20; Read 2005, p. 4; Lih 2011, pp. 21, 22.
  5. ^ Fischer 1964, pp. 3, 8; Rice 1990, pp. 14–15; Service 2000, p. 29.
  6. ^ Fischer 1964, p. 7; Rice 1990, p. 16; Service 2000, pp. 32–36.
  7. ^ Fischer 1964, p. 7; Rice 1990, p. 17; Service 2000, pp. 36–46; White 2001, p. 20; Read 2005, p. 9.
  8. ^ Fischer 1964, pp. 6, 9; Rice 1990, p. 19; Service 2000, pp. 48–49; Read 2005, p. 10.
  9. ^ Fischer 1964, p. 9; Service 2000, pp. 50–51, 64; Read 2005, p. 16; Petrovsky-Shtern 2010, p. 69.
  10. ^ Fischer 1964, pp. 10–17; Rice 1990, pp. 20, 22–24; Service 2000, pp. 52–58; White 2001, pp. 21–28; Read 2005, p. 10; Lih 2011, pp. 23–25.
  11. ^ Fischer 1964, p. 18; Rice 1990, p. 25; Service 2000, p. 61; White 2001, p. 29; Read 2005, p. 16; Theen 2004, p. 33.
  12. ^ a b レーニン『レーニン (世界の大思想 : ワイド版 ; 2-11)』川内唯彦堀江邑一訳、河出書房新社、2005年1月、493, 515。ISBN 978-4309961910
  13. ^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p13 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
  14. ^ Fischer 1964, p. 18; Rice 1990, p. 27; Service 2000, pp. 68–69; White 2001, p. 29; Read 2005, p. 15; Lih 2011, p. 32.
  15. ^ Fischer 1964, p. 18; Rice 1990, p. 28; White 2001, p. 30; Read 2005, p. 12; Lih 2011, pp. 32–33.
  16. ^ Fischer 1964, p. 18; Rice 1990, p. 310; Service 2000, p. 71.
  17. ^ Fischer 1964, p. 19; Rice 1990, pp. 32–33; Service 2000, p. 72; White 2001, pp. 30–31; Read 2005, p. 18; Lih 2011, p. 33.
  18. ^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p15 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
  19. ^ Rice 1990, p. 34; Service 2000, p. 78; White 2001, p. 31.
  20. ^ Rice 1990, p. 34; Service 2000, p. 77; Read 2005, p. 18.
  21. ^ Rice 1990, pp. 34–36; Service 2000, pp. 82–86; White 2001, p. 31; Read 2005, pp. 18, 19; Lih 2011, p. 40.
  22. ^ ロバート・サーヴィス『レーニン』上巻、岩波書店、2002年、114ページ
  23. ^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p16-17 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
  24. ^ Pipes 1990, p. 354; Rice 1990, pp. 39–40; Lih 2011, p. 53.
  25. ^ Fischer 1964, p. 22; Rice 1990, p. 41; Read 2005, pp. 20–21.
  26. ^ Fischer 1964, p. 30; Pipes 1990, p. 354; Rice 1990, pp. 44–46; Service 2000, p. 103; White 2001, p. 37; Read 2005, p. 26; Lih 2011, p. 55.
  27. ^ Rice 1990, pp. 47–48; Read 2005, p. 26.
  28. ^ Fischer 1964, p. 31; Pipes 1990, p. 355; Rice 1990, p. 48; White 2001, p. 38; Read 2005, p. 26.
  29. ^ Fischer 1964, p. 31; Rice 1990, pp. 48–51; Service 2000, pp. 107–108; Read 2005, p. 31; Lih 2011, p. 61.
  30. ^ Fischer 1964, p. 31; Rice 1990, pp. 52–55; Service 2000, pp. 109–110; White 2001, pp. 38, 45, 47; Read 2005, p. 31.
  31. ^ Fischer 1964, pp. 31–32; Rice 1990, pp. 53, 55–56; Service 2000, pp. 110–113; White 2001, p. 40; Read 2005, pp. 30, 31.
  32. ^ a b Fischer 1964, p. 33; Pipes 1990, p. 356; Service 2000, pp. 114, 140; White 2001, p. 40; Read 2005, p. 30; Lih 2011, p. 63.
  33. ^ Rice 1990, pp. 61–63; Service 2000, p. 124; Rappaport 2010, p. 31.
  34. ^ Rice 1990, pp. 57–58; Service 2000, pp. 121–124, 137; White 2001, pp. 40–45; Read 2005, pp. 34, 39; Lih 2011, pp. 62–63.
  35. ^ 和田春樹『レーニン 二十世紀共産主義運動の父(世界史リブレット人73)』山川出版社、2017年、24-25頁。ISBN 978-4-63-435073-1
  36. ^ Rice 1990, pp. 69–70; Read 2005, p. 51; Rappaport 2010, pp. 41–42, 53–55.
  37. ^ Rice 1990, pp. 69–70.
  38. ^ Fischer 1964, pp. 4–5; Service 2000, p. 137; Read 2005, p. 44; Rappaport 2010, p. 66.
  39. ^ 和田春樹『レーニン 二十世紀共産主義運動の父(世界史リブレット人73)』山川出版社、2017年、4頁。ISBN 978-4-63-435073-1
  40. ^ a b Fischer 1964, p. 39; Pipes 1990, p. 359; Rice 1990, pp. 73–75; Service 2000, pp. 137–142; White 2001, pp. 56–62; Read 2005, pp. 52–54; Rappaport 2010, p. 62; Lih 2011, pp. 69, 78–80.
  41. ^ Fischer 1964, p. 37; Rice 1990, pp. 78–79; Service 2000, pp. 143–144; Rappaport 2010, pp. 81, 84.
  42. ^ Fischer 1964, pp. 38–39; Rice 1990, pp. 75–76; Service 2000, p. 147; Rappaport 2010, p. 69.
  43. ^ Fischer 1964, pp. 40, 50–51; Rice 1990, p. 76; Service 2000, pp. 148–150; Read 2005, p. 48; Rappaport 2010, pp. 82–84.
  44. ^ a b Rice 1990, pp. 77–78; Service 2000, p. 150; Rappaport 2010, pp. 85–87.
  45. ^ Pipes 1990, p. 360; Rice 1990, pp. 79–80; Service 2000, pp. 151–152; White 2001, p. 62; Read 2005, p. 60; Rappaport 2010, p. 92; Lih 2011, p. 81.
  46. ^ Rice 1990, pp. 81–82; Service 2000, pp. 154–155; White 2001, p. 63; Read 2005, pp. 60–61.
  47. ^ Rice 1990, p. 83; Rappaport 2010, p. 107.
  48. ^ Rice 1990, pp. 83–84; Service 2000, p. 157; White 2001, p. 65; Rappaport 2010, pp. 97–98.
  49. ^ Fischer 1964, p. 44; Rice 1990, pp. 86–88; Service 2000, p. 167; Read 2005, p. 75; Rappaport 2010, pp. 117–120; Lih 2011, p. 87.
  50. ^ Fischer 1964, pp. 44–45; Pipes 1990, pp. 362–363; Rice 1990, pp. 88–89.
  51. ^ Fischer 1964, p. 60; Pipes 1990, p. 367; Rice 1990, pp. 90–91; Service 2000, p. 179; Read 2005, p. 79; Rappaport 2010, p. 131.
  52. ^ Fischer 1964, p. 51; Rice 1990, p. 94; Service 2000, pp. 175–176; Read 2005, p. 81; Read 2005, pp. 77, 81; Rappaport 2010, pp. 132, 134–135.
  53. ^ Fischer 1964, pp. 70–71; Pipes 1990, pp. 369–370; Rice 1990, p. 104.
  54. ^ Fischer 1964, p. 53; Pipes 1990, p. 364; Rice 1990, pp. 99–100; Service 2000, pp. 179–180; White 2001, p. 76.
  55. ^ a b c d e f g h レーニン『レーニン (世界の大思想 : ワイド版 ; 2-11)』川内唯彦堀江邑一訳、河出書房新社、2005年1月、515–527。ISBN 978-4309961910
  56. ^ a b Rice 1990, pp. 103–105; Service 2000, pp. 180–182; White 2001, pp. 77–79.
  57. ^ Rice 1990, pp. 105–106; Service 2000, pp. 184–186; Rappaport 2010, p. 144.
  58. ^ Fischer 1964, pp. 64–67; Rice 1990, p. 110; Service 2000, pp. 192–193; White 2001, pp. 84, 87–88; Read 2005, p. 90.
  59. ^ Fischer 1964, p. 69; Rice 1990, p. 111; Service 2000, p. 195.
  60. ^ Service 2016, pp. 48–49.
  61. ^ Fischer 1964, p. 70; Rice 1990, pp. 114–116.
  62. ^ Fischer 1964, pp. 68–69; Rice 1990, p. 112; Service 2000, pp. 195–196.
  63. ^ a b Fischer 1964, pp. 75–80; Rice 1990, p. 112; Pipes 1990, p. 384; Service 2000, pp. 197–199; Read 2005, p. 103.
  64. ^ a b c Service 2016, pp. 19–24.
  65. ^ Service 2004, p. 83; Kotkin 2014, pp. 122–123.
  66. ^ a b Service 2004, pp. 82–83; Kotkin 2014, pp. 122–123.
  67. ^ Fischer 1964, p. 72; Rice 1990, pp. 118–119; Service 2000, pp. 209–211; White 2001, p. 100; Read 2005, p. 104.
  68. ^ Rice 1990, p. 122; White 2001, p. 100.
  69. ^ Service 2000, p. 216; White 2001, p. 103; Read 2005, p. 105.
  70. ^ Fischer 1964, pp. 73–74; Rice 1990, pp. 122–123; Service 2000, pp. 217–218; Read 2005, p. 105.
  71. ^ Rice 1990, p. 127; Service 2000, pp. 222–223.
  72. ^ Fischer 1964, p. 94; Pipes 1990, pp. 377–378; Rice 1990, pp. 127–128; Service 2000, pp. 223–225; White 2001, p. 104; Read 2005, p. 105.
  73. ^ Fischer 1964, p. 94; Pipes 1990, p. 378; Rice 1990, p. 128; Service 2000, p. 225; White 2001, p. 104; Read 2005, p. 127.
  74. ^ Fischer 1964, p. 107; Service 2000, p. 236.
  75. ^ Fischer 1964, p. 85; Pipes 1990, pp. 378–379; Rice 1990, p. 127; Service 2000, p. 225; White 2001, pp. 103–104.
  76. ^ Fischer 1964, p. 94; Rice 1990, pp. 130–131; Pipes 1990, pp. 382–383; Service 2000, p. 245; White 2001, pp. 113–114, 122–113; Read 2005, pp. 132–134.
  77. ^ Fischer 1964, p. 85; Rice 1990, p. 129; Service 2000, pp. 227–228; Read 2005, p. 111.
  78. ^ Fischer 1964, pp. 95–100, 107; Rice 1990, pp. 132–134; Service 2000, pp. 245–246; White 2001, pp. 118–121; Read 2005, pp. 116–126.
  79. ^ Pipes 1990, p. 380; Service 2000, pp. 230–231; Read 2005, p. 130.
  80. ^ Rice 1990, p. 135; Service 2000, p. 235.
  81. ^ Rice 1990, pp. 136–138; Service 2000, p. 253.
  82. ^ Service 2000, pp. 254–255.
  83. ^ Fischer 1964, pp. 109–110; Rice 1990, p. 139; Pipes 1990, pp. 386, 389–391; Service 2000, pp. 255–256; White 2001, pp. 127–128.
  84. ^ Fischer 1964, p. 110–113; Rice 1990, pp. 140–144; Pipes 1990, pp. 391–392; Service 2000, pp. 257–260.
  85. ^ Fischer 1964, pp. 113, 124; Rice 1990, p. 144; Pipes 1990, p. 392; Service 2000, p. 261; White 2001, pp. 131–132.
  86. ^ Pipes 1990, pp. 393–394; Service 2000, p. 266; White 2001, pp. 132–135; Read 2005, pp. 143, 146–147.
  87. ^ Service 2000, pp. 266–268, 279; White 2001, pp. 134–136; Read 2005, pp. 147, 148.
  88. ^ Service 2000, pp. 267, 271–272; Read 2005, pp. 152, 154.
  89. ^ 「ロシア革命 破局の8か月」p131-132 池田嘉郎 岩波新書 2017年1月20日第1刷
  90. ^ Pipes 1990, pp. 431–434; Rice 1990, p. 148; Service 2000, pp. 284–285; White 2001, p. 141; Read 2005, p. 161.
  91. ^ Fischer 1964, p. 125; Rice 1990, pp. 148–149; Service 2000, p. 285.
  92. ^ Pipes 1990, pp. 436, 467; Service 2000, p. 287; White 2001, p. 141; Read 2005, p. 165.
  93. ^ a b Pipes 1990, pp. 468–469; Rice 1990, p. 149; Service 2000, p. 289; White 2001, pp. 142–143; Read 2005, pp. 166–172.
  94. ^ Service 2000, p. 288.
  95. ^ Pipes 1990, p. 468; Rice 1990, p. 150; Service 2000, pp. 289–292; Read 2005, p. 165.
  96. ^ Pipes 1990, pp. 439–465; Rice 1990, pp. 150–151; Service 2000, p. 299; White 2001, pp. 143–144; Read 2005, p. 173.
  97. ^ Pipes 1990, p. 465.
  98. ^ Pipes 1990, pp. 465–467; White 2001, p. 144; Lee 2003, p. 17; Read 2005, p. 174.
  99. ^ Pipes 1990, p. 471; Rice 1990, pp. 151–152; Read 2005, p. 180.
  100. ^ 栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』p120 河出書房新社、2010年。ISBN 9784309761435
  101. ^ 「ロシア革命 破局の8か月」p203-204 池田嘉郎 岩波新書 2017年1月20日第1刷
  102. ^ Service 2000, p. 304.
  103. ^ Service 2000, pp. 306–307.
  104. ^ Rigby 1979, pp. 14–15; Leggett 1981, pp. 1–3; Pipes 1990, p. 466; Rice 1990, p. 155.
  105. ^ Service 2000, pp. 307–308.
  106. ^ a b Pipes 1990, pp. 485–486, 491; Rice 1990, pp. 157, 159; Service 2000, p. 308.
  107. ^ Pipes 1990, pp. 492–493, 496; Service 2000, p. 311; Read 2005, p. 182.
  108. ^ Pipes 1990, p. 491; Service 2000, p. 309.
  109. ^ Pipes 1990, p. 499; Service 2000, pp. 314–315.
  110. ^ Pipes 1990, pp. 496–497; Rice 1990, pp. 159–161; Service 2000, pp. 314–315; Read 2005, p. 183.
  111. ^ Service 2000, p. 316.
  112. ^ Fischer 1964, pp. 252–253; Pipes 1990, p. 499; Volkogonov 1994, p. 341; Service 2000, pp. 316–317; White 2001, p. 149; Read 2005, pp. 194–195.
  113. ^ Shub 1966, p. 310; Leggett 1981, pp. 5–6, 8, 306; Pipes 1990, pp. 521–522; Service 2000, pp. 317–318; White 2001, p. 153; Read 2005, pp. 235–236.
  114. ^ 栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』p122-123 河出書房新社、2010年。ISBN 9784309761435
  115. ^ Shub 1966, p. 331; Pipes 1990, p. 567.
  116. ^ Fischer 1964, pp. 151–152; Pipes 1990, pp. 571–572.
  117. ^ Fischer 1964, p. 154; Pipes 1990, p. 572; Rice 1990, p. 166.
  118. ^ Fischer 1964, p. 161; Shub 1966, p. 331; Pipes 1990, p. 576.
  119. ^ Fischer 1964, pp. 162–163; Pipes 1990, p. 576.
  120. ^ Fischer 1964, pp. 171–172, 200–202; Pipes 1990, p. 578.
  121. ^ Rice 1990, p. 166; Service 2000, p. 338.
  122. ^ Service 2000, p. 338.
  123. ^ Fischer 1964, p. 195; Shub 1966, pp. 334, 337; Service 2000, pp. 338–339, 340; Read 2005, p. 199.
  124. ^ Fischer 1964, pp. 206, 209; Shub 1966, p. 337; Pipes 1990, pp. 586–587; Service 2000, pp. 340–341.
  125. ^ Pipes 1990, p. 587; Rice 1990, pp. 166–167; Service 2000, p. 341; Read 2005, p. 199.
  126. ^ Shub 1966, p. 338; Pipes 1990, pp. 592–593; Service 2000, p. 341.
  127. ^ Fischer 1964, pp. 211–212; Shub 1966, p. 339; Pipes 1990, p. 595; Rice 1990, p. 167; Service 2000, p. 342; White 2001, pp. 158–159.
  128. ^ Pipes 1990, p. 595; Service 2000, p. 342.
  129. ^ Fischer 1964, pp. 213–214; Pipes 1990, pp. 596–597.
  130. ^ Service 2000, p. 344.
  131. ^ Fischer 1964, pp. 303–304; Pipes 1990, p. 668; Volkogonov 1994, p. 194; Service 2000, p. 384.
  132. ^ Shub 1966, p. 361; Pipes 1990, p. 548; Volkogonov 1994, p. 229; Service 2000, pp. 335–336; Read 2005, p. 198.
  133. ^ Fischer 1964, p. 156; Shub 1966, p. 350; Pipes 1990, p. 594; Volkogonov 1994, p. 185; Service 2000, p. 344; Read 2005, p. 212.
  134. ^ Fischer 1964, pp. 320–321; Shub 1966, p. 377; Pipes 1990, pp. 94–595; Volkogonov 1994, pp. 187–188; Service 2000, pp. 346–347; Read 2005, p. 212.
  135. ^ Fischer 1964, pp. 219, 256, 379; Shub 1966, p. 374; Service 2000, p. 355; White 2001, p. 159; Read 2005, p. 219.
  136. ^ Fischer 1964, p. 249.
  137. ^ Sandle 1999, p. 84; Read 2005, p. 211.
  138. ^ Fischer 1964, p. 280; Shub 1966, pp. 361–362; Pipes 1990, pp. 806–807; Volkogonov 1994, pp. 219–221; Service 2000, pp. 367–368; White 2001, p. 155.
  139. ^ Fischer 1964, pp. 282–283; Shub 1966, pp. 362–363; Pipes 1990, pp. 807, 809; Volkogonov 1994, pp. 222–228; White 2001, p. 155.
  140. ^ Volkogonov 1994, pp. 222, 231.
  141. ^ Service 2000, p. 369.
  142. ^ Shub 1966, p. 387; Rice 1990, p. 173.
  143. ^ Fischer 1964, p. 333; Shub 1966, p. 388; Rice 1990, p. 173; Volkogonov 1994, p. 395.
  144. ^ Fischer 1964, p. 525; Shub 1966, p. 390; Rice 1990, p. 174; Volkogonov 1994, p. 390; Service 2000, p. 386; White 2001, p. 160; Read 2005, p. 225.
  145. ^ Service 2000, p. 387.
  146. ^ Shub 1966, p. 395; Volkogonov 1994, p. 391.
  147. ^ Shub 1966, p. 397; Service 2000, p. 409.
  148. ^ Service 2000, pp. 409–410.
  149. ^ Fischer 1964, pp. 415–420; White 2001, pp. 161, 180–181.
  150. ^ Fischer 1964, p. 341; Shub 1966, p. 396; Rice 1990, p. 174.
  151. ^ 『レーニン全集』第32巻355頁、大月書店
  152. ^ 中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構 岩上安身公式サイト「WEB IWAKAMI」に掲載。「諸君!」 1997年1月号掲載
  153. ^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p84 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
  154. ^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p86-87 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
  155. ^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p100 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
  156. ^ 小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足―神経内科からみた20世紀』、中公新書、1999年 P.41-46
  157. ^ 実際に処理している画像
  158. ^ “レーニンは赤の広場にとどまるべき”. ロシアNOW. http://jp.rbth.com/articles/2012/12/17/40459 
  159. ^ “ロシアで、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施が提案される”. スプートニク日本. http://jp.sputniknews.com/amp/russia/201904226161835 
  160. ^ Service 2000, pp. 159, 202.
  161. ^ Fischer 1964, pp. 47, 148.
  162. ^ Pipes 1990, pp. 348, 351.
  163. ^ Volkogonov 1994, p. 246.
  164. ^ Fischer 1964, p. 57.
  165. ^ Service 2000, p. 73.
  166. ^ Fischer 1964, p. 44; Service 2000, p. 81.
  167. ^ Service 2000, p. 118.
  168. ^ Service 2000, p. 232; Lih 2011, p. 13.
  169. ^ Volkogonov 1994, p. 362.
  170. ^ Fischer 1964, p. 409.
  171. ^ Fischer 1964, pp. 40–41; Volkogonov 1994, p. 373; Service 2000, p. 149.
  172. ^ Service 2000, p. 242.
  173. ^ Fischer 1964, p. 56; Rice 1990, p. 106; Service 2000, p. 160.
  174. ^ Fischer 1964, p. 56; Service 2000, p. 188.
  175. ^ Read 2005, pp. 20, 64, 132–37.
  176. ^ Shub 1966, p. 423.
  177. ^ Fischer 1964, p. 367.
  178. ^ Service 2000, pp. 99–100, 160.
  179. ^ Pipes 1990, p. 812.
  180. ^ Fischer 1964, p. 245.
  181. ^ Pipes 1990, pp. 349–350; Read 2005, pp. 284, 259–260.
  182. ^ Service 2000, p. 116.
  183. ^ Pipes 1996, p. 11; Read 2005, p. 287.
  184. ^ Read 2005, p. 259.
  185. ^ Fischer 1964, p. 67; Pipes 1990, p. 353; Read 2005, pp. 207, 212.
  186. ^ Pipes 1990, p. 353.
  187. ^ Fischer 1964, p. 69.
  188. ^ Service 2000, p. 244; Read 2005, p. 153.
  189. ^ Petrovsky-Shtern 2010, p. 67.
  190. ^ Service 2000, p. 389.
  191. ^ Rice 1990, p. 121.
  192. ^ Pipes 1996, p. 11; Service 2000, p. 389–400.
  193. ^ Service 2000, p. 391.
  194. ^ Volkogonov 1994, p. 259.
  195. ^ Volkogonov 1994, p. 326.
  196. ^ Albert Resis. “Vladimir Ilich Lenin”. Encyclopædia Britannica. http://www.britannica.com/EBchecked/topic/335881/Vladimir-Ilich-Lenin 2016年2月4日閲覧。. 
  197. ^ Service 2000, p. 488.
  198. ^ Read 2005, p. 283.
  199. ^ David Remnick (1998年4月13日). “TIME 100: Vladimir Lenin”. 2011年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月6日閲覧。
  200. ^ Feifei Sun (2011年2月4日). “Top 25 Political Icons: Lenin”. オリジナルの2015年1月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150114032814/http://content.time.com/time/specials/packages/article/0%2C28804%2C2046285_2045996_2046096%2C00.html 2016年2月4日閲覧。 
  201. ^ Fischer 1964, p. 516; Shub 1966, p. 415; Leggett 1981, p. 364; Volkogonov 1994, pp. 307, 312.
  202. ^ Leggett 1981, p. 364.
  203. ^ Lewin 1969, p. 12; Rigby 1979, pp. x, 161; Sandle 1999, p. 164; Service 2000, p. 506; Lee 2003, p. 97; Read 2005, p. 190; Ryan 2012, p. 9.
  204. ^ Fischer 1964, p. 417; Shub 1966, p. 416; Pipes 1990, p. 511; Pipes 1996, p. 3; Read 2005, p. 247.
  205. ^ Ryan 2012, p. 1.
  206. ^ Fischer 1964, p. 524.
  207. ^ Volkogonov 1994, p. 313.
  208. ^ Volkogonov 1994, p. xxxviii.

注釈編集

[脚注の使い方]
  1. ^ ドヴォリャンスキー学院の物理数学の上席教師で、非ユークリッド幾何学の発見者の一人であるニコライ・ロバチェフスキーとは大学時代からの親友だった。
  2. ^ Российская Социал-Демократическая Рабочая Партия = РСДРП, RSDRP

参考文献編集

Service, Robert (2000). Lenin: A Biography. London: Macmillan. ISBN 978-0-333-72625-9 
Fischer, Louis (1964). The Life of Lenin. London: Weidenfeld and Nicolson 
Sebestyen, Victor (2017). Lenin the Dictator: An Intimate Portrait. London: Weidenfeld and Nicolson. ISBN 978-1474600446 
Rice, Christopher (1990). Lenin: Portrait of a Professional Revolutionary. London: Cassell. ISBN 978-0-304-31814-8 
Read, Christopher (2005). Lenin: A Revolutionary Life. Routledge Historical Biographies. London: Routledge. ISBN 978-0-415-20649-5 
White, James D. (2001). Lenin: The Practice and Theory of Revolution. European History in Perspective. Basingstoke, England: Palgrave. ISBN 978-0-333-72157-5 
Volkogonov, Dmitri (1994). Lenin: Life and Legacy. London: HarperCollins. ISBN 978-0-00-255123-6 
Lih, Lars T. (2011). Lenin. Critical Lives. London: Reaktion Books. ISBN 978-1-86189-793-0 
Pipes, Richard (1990). The Russian Revolution: 1899–1919. London: Collins Harvill. ISBN 978-0-679-73660-8. https://archive.org/details/russianrevolutio00pipe_0 
Lee, Stephen J. (2003). Lenin and Revolutionary Russia. London: Routledge. ISBN 978-0-415-28718-0 
Rappaport, Helen (2010). Conspirator: Lenin in Exile. New York: Basic Books. ISBN 978-0-465-01395-1 
Rigby, T. H. (1979). Lenin's Government: Sovnarkom 1917–1922. Cambridge, England: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-22281-5. https://archive.org/details/leninsgovernment0000rigb 
Leggett, George (1981). The Cheka: Lenin's Political Police. Oxford: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-822552-2. https://archive.org/details/chekaleninspolit0000legg 
Ryan, James (2012). Lenin's Terror: The Ideological Origins of Early Soviet State Violence. London: Routledge. ISBN 978-1-138-81568-1 
Shub, David (1966). Lenin: A Biography (revised ed.). London: Pelican 
Lewin, Moshe (1969). Lenin's Last Struggle. London: Faber and Faber 
Sandle, Mark (1999). A Short History of Soviet Socialism. London: UCL Press. doi:10.4324/9780203500279. ISBN 978-1-85728-355-6 
Template:Long dash (1996). The Unknown Lenin: From the Secret Archive. New Haven, Connecticut: Yale University Press. ISBN 978-0-300-06919-8 
Petrovsky-Shtern, Yohanan (2010). Lenin's Jewish Question. New Haven, Connecticut: Yale University Press. ISBN 978-0-300-15210-4. JSTOR j.ctt1npd80 
Service, Robert (2016). Lenin: A Political Life: Volume 2: Worlds in Collision. Springer. ISBN 9781349137855 
Montefiore, Simon Sebag (2007). Young Stalin. Alfred A. Knopf. ISBN 9781400044658 
Service, Robert (2008). Stalin: A Biography. London: Pan Macmillan. ISBN 9780330476379 

外部リンク編集