ロイヤルナイツ (ボーカルグループ)

ロイヤルナイツ(Royal Knights[1])は、1959年に結成された男性4人の合唱団(コーラス・グループ)。ロイヤル・ナイツと表記されることもある。

ロシア民謡、ジャズ、ポピュラーソングまで幅広いレパートリーを持つ。

1978年に[2]一度解散するが、1988年に再結成される。

メンバー編集

  • くすのせ 堅志(くすのせ けんじ)[3]トップテナー(初代)
上智大学卒業。
  • 舟田 均(ふなだ ひとし)セカンドテナー(初代)山下と交代後、編曲等のバックグラウンド勤務に回る。
舟田勝とは兄弟(均が兄、勝が弟)。東京芸術大学声楽科卒業。
  • 舟田 勝(ふなだ まさる)バリトン(初代)
舟田均とは兄弟。東京芸術大学声楽科卒業。
  • 佐々木 襄(ささき じょう、1937年11月16日 - 2015年7月22日)バス
本名・常田哲司。東京都大島町伊豆大島)波浮出身。東京芸術大学声楽科卒業。結成以来最後まで残った唯一のメンバー。
  • 松川 義昭(まつかわ よしあき、1941年10月3日-)トップテナー(2代目)
兵庫県神戸市出身[4]東京芸術大学声楽科卒業。東京混声合唱団を経て、1968年より、くすのせ堅志の後任トップテナーとして加入。
  • 勝山 邦夫(かつやま くにお、1947年1月5日-)バリトン(2代目)→セカンドテナー(3代目)[5]
福岡県出身[4]東京芸術大学声楽科卒業。東京コラリアーズを経て、1970年に舟田勝の後任バリトンとして加入。その後、山下と交代する形でセカンドテナーに移る。
加入前年の1969年、日本シャンソンコンクールに入賞している[6]
  • 山下 健二(やました けんじ、1937年9月17日-)セカンドテナー(2代目)→バリトン(3代目)[5] ロシア語名ニキータ山下(Никита Ямасита)とも呼ばれる。
中国東北部(旧・滿洲國)ハルビン市出身。母親はロシア人。戦後も1953年まで家族でハルビンにとどまり、 ロシア人の学校に通う[7]。引揚後、日本の高校を経て[8]東京芸術大学声楽科卒業。NHK国際局ロシア語アナウンサーを経て[9]、1966年、舟田均の後任セカンドテナーとして加入、ソ連公演には第1回より参加。勝山と交代する形でバリトンに移る。一度脱退するも、再結成時に復帰。NHKテレビ『ロシア語講座』には、1973年4月の放送開始時より1990年代末まで、ほぼ四半世紀にわたって出演した[10]。1995年4月~2008年3月、母校・東京芸術大学講師として、ロシア声楽曲の指導に当たる。
東海大学名誉教授(ロシア語)の山下万里子は実妹。
  • 牧野 俊浩(まきの としひろ、1947年1月8日-)バリトン(4代目)[5]
岡山県生まれ。京都府京都市に育つ。早稲田大学商学部卒業。二期会合唱団を経て[11]、1975年より[12]山下健二の後任バリトンとして加入。1978年に[2]解散後も、フォルクローレグループ「ソルアモール」(1981-1993/4?)、男声ヴォーカルトリオ "HOTDOGS"[13](1995-2004/5?)のメンバーとして、その後はソロ歌手として音楽活動を続ける。また1990年代後半以降は音楽セラピストとしても活躍、「声みがき術」の講習会も数多く開いている[11]

代表曲(あるいはコーラスとして参加した楽曲)編集

アニメソング編集

特撮ソング編集

テレビドラマ編集

歌謡曲編集

  • のぞみあらたに〜明治百年頌歌/これから100年(1968年)
  • Bというスナック/コーヒーとマルティーニ(1970年)[15]
  • 再会/ありがとう(2008年、FBCM-74)

その他編集

・アンガラ川を下りて(ロシア公演)

  • おへそ(1970年、NHK『あなたのメロディー』より。斉藤浩子の同名曲シングルのB面)
  • うどんの唄(映画『うず潮』挿入歌。吉永小百合のシングル「瀬戸のうず潮」B面)
  • 好きです かわさき 愛の街(川崎市制60周年記念曲)
  • 仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌(メインボーカル:坂本九、『新八犬伝』副主題歌)
  • 鉄道唱歌
  • 阪急ブレーブス応援歌(阪急ブレーブス応援歌)
  • 阪急ブレーブス団歌(阪急ブレーブス応援歌)
  • カッチャカッチャ阪急(阪急ブレーブス応援歌)
  • 燃えよ!!ドラゴンズ`77中日ドラゴンズ応援歌)
  • ドラゴンズ賛歌(中日ドラゴンズ応援歌)
  • キッチンバンド(1973年、ひらけ!ポンキッキ。CXP-10)
  • 仮面ハッテナー(1973年、ひらけ!ポンキッキ。LP『ひらけ!ポンキッキ』E-1012)
  • まんまる地球(1973年、ひらけ!ポンキッキ。LP『ひらけ!ポンキッキ』E-1012)
  • どうぶつのうた(1973年、ひらけ!ポンキッキ。LP『ひらけ!ポンキッキ』E-1012)
  • 宇宙船地球号のマーチ(1974年、ひらけ!ポンキッキ。LP『ひらけ!ポンキッキ Vol.2』E-1014)
  • 上と下のうた(1974年、ひらけ!ポンキッキ。LP『ひらけ!ポンキッキ Vol.2』E-1014)
  • うたのどうぶつえん(1974年、ひらけ!ポンキッキ。LP『ひらけ!ポンキッキ Vol.2』E-1014)
  • いちばんロック(1976年、ひらけ!ポンキッキ。LP『およげ!たいやきくん』E-1025)
  • コロちゃんの大旅行(1976年、ひらけ!ポンキッキ。LP『およげ!たいやきくん』E-1025)
  • 知恵の船のマーチ(1976年、ひらけ!ポンキッキ。LP『ひらけ!ポンキッキ ホネホネロック パタパタママ』AP-4001)
  • ぼくらのまち(1976年、ひらけ!ポンキッキ。LP『ひらけ!ポンキッキ ホネホネロック パタパタママ』AP-4001)
  • ポ・ポ・ポ・ポ・ポポポ・ポ・ポンキッキ(1976年、ひらけ!ポンキッキ。LP『ひらけ!ポンキッキより ハッスルばあちゃん〜未来へつづくポンキッキ』AP-4002)
  • コンニチハのうた(1978年、ひらけ!ポンキッキ。カセット『ひらけ!ポンキッキ ことばとかず どき にこっ じ〜ん/おしゃべりおんがくかい』)
  • 寿屋社歌(寿屋百貨店
  • 青年日本の歌

ソ連・東欧公演、および豊富な現地録音編集

ロイヤルナイツの海外演奏旅行[16]は、ソ連公演に限定すると7回、ソ連・東欧公演として数えると8回となる。1回のソ連公演では、約2ヶ月かけて、ほぼ全土を回る。
コンサートの全合計回数は、350回説[17]から500回説[18]までかなり幅があるが、今日(21世紀)の日本では、500回説が主流のようである。また歳月と共に、それが7回(ソ連のみ)の合計か、それとも8回(ソ連と東欧)かという区別も、曖昧に語られることが多くなっている。
ソ連公演は、1966,1967,1968,1970,1972,1975,1978年の計7回。東欧公演(ルーマニアハンガリーユーゴスラビア)は、1968年、第3回訪ソに先立って約1ヶ月間行われた[19]
バンドのピアニストは、1966年[20]・68年[21]菅野光亮[22]、1967年[23]・70年[24]・72年[25]・78年[26]が結城久[27]
同行・共演した歌手は、1966年が須美杏子[28]、1968年が早川令子[29]、1970年が大庭照子[30]、1972年が泉麗子・長沢澄子[25]、1975・78年が滝むつみ[31]
ソ連公演に先立ち、山下は他のメンバーのロシア語を特訓し、発音を現地の聴衆に通用するレベルにまで鍛え上げた。加えて、山下自身も、並み居る現地有名歌手を悉く凌駕するほどの卓越した歌唱力の持ち主であったことから、最初のソ連演奏旅行で、ロイヤルナイツは一気にスターダムにのし上がることになる。想定外の人気沸騰により、第1回訪ソでは各都市で追加公演が次々と為され[32]、最初のレコーディングも行われた[33]
この人気爆発のゆえに、以降、ロイヤルナイツは毎年のようにソ連に招聘されることになり、レコーディングの機会も更に与えられることになった。
当時のソ連国営レコード会社のレーベル「メロディア」から、さまざまなEP・LPが出されている(詳細は次章参照)。枚数も多く売れたので、今日の旧ソ連地域にも多数現存すると考えられ、YouTubeにも盛んに投稿されている。
ステージではロシア民謡・ソ連歌謡がふんだんに歌われたが[34]メロディアの収録曲は、当時流行の日本の歌謡曲が中心であった。歌詞は、大半が日本語のまま歌われたが、『明日があるさ』(露訳題 У нас есть завтра、収録1966年[35])や、『涙の日曜日』(露訳題 Я иду искать тебя、収録1970年)のように、日本語歌詞と露訳された歌詞を交互に歌った例もある。
歳月と共に忘れられ、検索が著しく困難となった曲もある一方で、『ウナ・セラ・ディ東京』(露訳題 Вечерний Токио、収録1968年)の如く、日本歌謡史上に残る名曲も少なからず存在する。レコード・ジャケット共に印刷がすべてロシア語であるため、日本ではこの録音群の存在すらほとんど知られていないが、演奏レベルは極めて高く、今後の再評価が大いに待たれるところである。
メロディア」のロイヤルナイツのレコードの作曲者名・作詞者名には誤植(ミスプリ)が多いので、注意が必要である。
また、レコード以外にも、放送番組収録、コンサート会場のフィルム撮影などにより記録された優れた歌は相当数あると考えられ、それはYouTube投稿からもうかがい知れる。


(以下、参加メンバーは、トップテナー‐セカンドテナー‐バリトン‐バスの順)

第1回ソ連公演 (くすのせ‐山下‐舟田(勝)‐佐々木)編集

1966年。11月26日に横浜港をナホトカに向け出発(バイカル号)。12月1日のキエフ公演[6日間。スポーツ宮殿(1万2千人収容)]を振り出しに、レニングラード[12月8日~、5日間(文化宮殿)+追加公演2日間(レニングラード音楽院(コンセルヴァトール)ホール)]、モスクワ(12月16日~、国立バラエティ劇場。+追加公演2日間)、タシケント(予定「6日間で6公演」→実際「6日間で11公演」)、ノボシビルスク(予定「5日間で5公演」→実際「5日間で10公演」)、ハバロフスクで公演。帰国は翌年1月。当初は、全日程48日間、うち公演日は1日1回ペースで34公演の予定だったが、先方の要請により追加公演が次々と為された結果、正味39日間の公演日で48回の公演をこなすことになった。観客動員数は、推定延べ20万人弱。
最初の追加公演が為されたレニングラードでは、キエフ公演の評判が一行よりも先に口コミで伝わり、一行が到着する頃には既に追加公演が決定され切符も売れている、という段取りであった。またタシケントでは、4月26日のタシケント地震からわずか8ヶ月しか経っておらず、市民慰労のための追加公演がとりわけ強く求められた。[36]
舟田均も団長として同行している[37]

第2回ソ連公演 (くすのせ‐山下‐舟田(勝)‐佐々木)編集

1967年。9月29日に横浜港をナホトカに向け出発(オルジョニキーゼ号)[38]、10月3日のレニングラード公演を振り出しに、ミンスク(初訪問)、ハリコフ(初訪問)、キエフ、モスクワ[11月29日~、5日間(首都最大のバレエ劇場「エストラーダ」)]など、計7都市で約50回の公演。日程は12月9日まで。[39]

東欧公演→第3回ソ連公演 (松川‐山下‐舟田(勝)‐佐々木)編集

1968年。5月25日に横浜港を出港(バイカル号)、5月28日にモスクワに到着し、「ジャパン・デー」(5月25-8日)に参加。それから国境を越え、5月29日のブカレスト初公演(於「コングレス・ザール」=コングレス・ホール、3千人収容)を皮切りに、6月9日までルーマニア公演(全7回)。→6月10日-19日ハンガリー公演(ブダペスト「キス・スタジアム」、3万人収容、3回)。→6月20日‐25日ユーゴスラビア(ベオグラード、ティバート[40])公演。そして再び国境西からソ連入りし、ソチヤルタオデッサエレバン[41]など各地で6月26日‐8月下旬まで公演。当初、ソ連公演は32回の予定だったが44回にふえたため、8月15日までの予定だった日程[42]も大幅に後にずれ込み、帰国は9月となった[43]
東欧公演は、約20回の予定だったが、実際には16回となった。また、最初はチェコスロヴァキアポーランド東ドイツも公演候補地に入っていたが[44]、政情不安を理由に[45]取りやめとなった。[46]
  • 第3回ソ連公演中、現地でゲスト出演したラジオ番組が、YouTube上にアップされている[47]。『ムズィカーリヌィ・グローブス』(Музыкальный Глобус)の第49回、司会の男性アナウンサーはヴィクトル・タタールスキー。舟田均の日本語、山下健二のロシア語による挨拶が入っている。内容から、1968年夏にモスクワで収録されたものであることがわかる[48][49]。また、ソ連入りして約1ヶ月半以上、とロシア語で紹介されていることから、モスクワが日程終盤に組まれていたことがわかる[50]。また、今回の公演では、ソ連の歌から新たに『チェレムシーナの花』(Черемшина、ウクライナ民謡[51])と『優しさ』(Нежность、パフムトワ(Пахмутова)[52]作曲)をレパートリーに加えていたことが語られる。番組中の歌は、「枯れ木の下で」(日本語)、ロシア民謡『夕べの鐘』(Вечерний звон)(ロシア語)、ソ連歌謡Будь со мной(『我と共に留まれ』、ババジャニャン(Бабаджанян)作曲)(1番がロシア語、2番が日本語)、『今夜は踊ろう』(日本語)の計4曲[3]

第4回ソ連公演 (松川‐山下‐勝山‐佐々木)編集

1970年。2月4日横浜港を出港、約2ヶ月間。2月8日のモスクワ公演(エストラーダ劇場、5回)を皮切りに、ヘルソン(繊維科学会館、3回)、ポルタワ(ポルタワ・コンサートホール、3回)、ハリコフ(ハリコフ文化会館、5回)、キエフ(スポーツ宮殿、4回)、レニングラードなど11ヶ所、各地では3‐5回の公演。
モスクワ公演は、ツアー序盤と終盤の二つの日程が組まれ、4月3日にさよならコンサート、4月4日にはクレムリン宮殿で政府高官・各国駐ソ大使を招待した特別コンサートが開かれた。また序盤の2月10日のコンサートはモスクワTV[53]により一時間番組に収録されて14日に全ソに放送され、そのテレビ・フィルムは同年の大阪万博のソ連館にも送られ紹介されることになった。
観客動員数は、モスクワ・1万3百人、ヘルソン・6千人、ポルタワ・5千1百人、ハリコフ・2万1千人、キエフ・4万2千人など。[54]

第5回ソ連公演 (松川‐勝山‐山下‐佐々木)編集

1972年4月~5月。4月7日にハバロフスク着、当地での全7回の公演を振り出しに[55]ケメロヴォ(初訪問)[56]ノボシビルスクカザン(初訪問)[57]ミンスク[58]ビリニュスリガオデッサソチモスクワと回る。[59]
モスクワ中央文化人会館は、ロイヤルナイツがこの街を訪れるたびに招かれ、地元芸術家たちとの交流を重ねて来た場所である。1972年、5回目のソ連演奏旅行では、5月23日、ソチから空路モスクワに到着したその晩、早速ここでソ連文化人のためのスペシャル・コンサートが開かれた。第一部が地元芸術家たちによる歌や踊り、楽器演奏、パントマイムなどの披露、第二部がロイヤルナイツのステージである。
ロイヤルナイツの演奏がすべて終わり、まだ感動の余韻も醒めやらぬ中、一人の大柄な紳士が舞台に上って来た。少し猫背で、口元には髭をたくわえている。
「自分の曲を外国人がこれほど素晴らしく歌ってくれたのは初めてだ。ありがとう、...ありがとう、...ありがとう、......」
この紳士こそが、ソ連ポピュラー音楽界で最も有名な作曲家の一人、ヤン・フレンケリであった。今回の公演で、ロイヤルナイツは彼の作品『ロシアの草原』(Русское поле) をプログラムに組んでいたのである。
ロイヤルナイツも、早くから彼の『八月』(Август)[60]をレパートリーに加えるなどしており、これだけ美しい旋律を書ける作曲家に是非会ってみたい、とかねてから思っていただけに、この初めての出会いの瞬間は天にも昇るほど感動的であった。
コンサート後のパーティー会場には、『カチューシャ』の作曲家ブランテルや、『モスクワ郊外の夕べ』の作曲家ソロヴィヨフ=セドイらもいた。現地の有名歌手たちがお返しに歌ってくれたりして、賑やかなパーティーが一段落したところで、フレンケリがピアノに向かい、幾つかの自作の曲の弾き語りを始めた。ロイヤルナイツの一行が初めて耳にする歌も少なくなかったが、中でもとりわけ印象の強い、その場の一同が別世界の力に打たれたようにうっとりと聴き入っている曲が一つあった。それを歌い終えるとフレンケリは、
「あなた方の『ロシアの草原』(Русское поле)は素晴らしかった。だから、この曲は、是非あなた方にプレゼントしたい」
と、直筆の譜面を上着のポケットから出し、ロイヤルナイツに手渡した。
これが、名曲『』(Журавли)とロイヤルナイツとの出会いである。が、この時の譜面は書き上げられたばかりで、まだ歌詞さえも記入されてはいなかった。
爾来、ロイヤルナイツは、この曲を40年以上に亘り歌い続ける。[61]
  • 帰国後の翌1973年4月、NHKテレビの新番組『ロシア語講座』の最初の「今月の歌」として、山下は『』をロシア語で歌った。それは、日本人視聴者のみならず、在日ソ連人の間でも大変な反響を呼び、テレビの前で歌詩を書き取る人が続出する[62]
同年9月25日に、日本放送出版協会より上梓された『NHKロシア語《歌と詩》カセットテープ』(著者は、対訳と解説を担当した「藤沼貴佐藤純一」となっている)では、詩の朗読はアンナ・ニコラーエヴナ・シャチーロヴァ[63]が、歌はロイヤルナイツが担当し、革命前のロシア民謡から戦後ソ連歌謡まで幅広い選曲が為され、『』(Журавли)・『ロシアの草原』(Русское поле)・『八月』(Август)を含む全12曲が収録された。但しこの時は情報不足で、『』の作詩者は「ユダヤ系女流詩人ゴッフ(Гофф)[64]」と誤記されている。
また当時は、NHKのラジオ講座(当時の番組名は『ロシア語入門』)の応用篇(金・土、各20分)にも「今月の歌」のコーナーがあり、1973年度(1973年4月~1974年3月)はロイヤルナイツが担当したが[65]、1973年9月に『』が歌われている。

第6回ソ連公演 (松川‐勝山‐山下‐佐々木)編集

1975年。1月を含む[66]
この時モスクワ・オスタンキノテレビで収録された画像が、旧ソ連ゴステレラジオフォンド(Советские телевидение. ГОСТЕЛЕРАДИОФОНД России)の公式チャンネルを通じて、YouTube上にアップされている(公開2019年8月1日)。曲は全部日本語歌詞の『恋のバカンス』(Каникулы любви)。[4]

第7回ソ連公演 (松川‐勝山‐牧野‐佐々木)編集

1978年。6月末から約1ヶ月間、ハバロフスクノボシビルスクフルンゼタシケントソチクラスノダールレニングラードなどを回り、モスクワ公演(国立中央コンサートホール)が最終日程。米国のポップス、ロシア・ソ連の歌、日本の歌、フランスのシャンソンなどが歌われたが、中でも日本語で歌われた日本の歌謡曲がとりわけ新鮮な感動を呼んだ。全43回公演。8月3日に現地解散。[67]

ソ連現地録音曲の露訳タイトル‐原タイトル対照表(ディスク番号含む)編集

  • レーベルは、「メロディア」(ソ連国営レコード会社)である。訪ソメンバーは、トップテナー‐セカンドテナー‐バリトン‐バスの順。
  • 特に断りのない限り、日本の歌は日本語で、アメリカン・スタンダードは英語で歌われている。
  • 露訳タイトル直後のカッコ内はロシア語からの直訳である。原タイトル不明なもの、および原タイトルと露訳タイトルとの間で意味やニュアンスに差異があるもののみ記入してある。
  • 原タイトル不明のもので、日本の歌と思われるものは『 』という空欄、米欧の歌と思われるものは何もない空欄にしてある。
  • 歌詞の流れから、原タイトルはほぼ正確に推測できるが、正規のタイトルおよび作者が未確認のものは、「 」? と表記してある。

1966年  (くすのせ‐山下‐舟田(勝)‐佐々木) 11月下旬に船で日本を発ち、公演は12月~翌年1月にかけて行われる。

  • SP (78rpm) (46479-80)  (発売は翌1967年)
Мистер бейсман   …Mr.Bass Man
Холодное утро   …『寒い朝
  • EP (33Д00019329-30)  (発売は翌1967年)
У нас есть завтра  …『明日があるさ』 日・露
Тень(影)       …『翳』(かげ)
菅野光亮作曲によるクラリネット独奏曲。
Мистер бейсман    …Mr.Bass Man
Красная роза(赤い薔薇) …『赤いつるばら』(作曲・平尾昌晃、作詞・水島哲)[68]
須美杏子のソロ。

1967年  (くすのせ‐山下‐舟田(勝)‐佐々木) 9月下旬に日本を発ち、10月~11月を中心に12月初旬まで。

  • EP (33ГД000847-8)  (発売は翌1968年)
Будем танцевать(踊り続けよう)  …『今夜は踊ろう』
Садилось солнце   …『沈む太陽』(作曲・鈴木淳)[69]
Мэдисон любви(恋のマディソンダンス) …『 』
В дальний путь(遠い道を)  …『 』

1968年  (松川‐山下‐舟田(勝)‐佐々木) モスクワの「ジャパン・デー」に1日参加してのち、約1ヶ月間の東欧公演(ルーマニアハンガリーユーゴスラビア)を5月下旬~6月下旬にかけて行う。再び国境西からソ連入りし、8月下旬(帰国は9月)まで約2ヶ月間の公演。 

  • EP (33ГД0001187-88)
Холодный ветер(冷たい風) …『風が泣いている
Голубой замок  …『ブルー・シャトウ[70] 
Синее небо(青い空) …『あの空の青さ』(作曲・白井幹也、作詩・檀 寛)[71]
Вечерний Токио(黄昏の東京) …『ウナ・セラ・ディ東京[72]
  • LP (Д23631-2)
Синее небо(青い空)  …『あの空の青さ』(作曲・白井幹也、作詩・檀 寛)[71]
Будем танцевать(踊り続けよう) …『今夜は踊ろう』
Будь со мной
これは、このアルバムには珍しい、当時流行ののソ連歌謡である。作曲はババジャニャン(Бабаджанян)。タイトル直訳は「我と共に留まれ」(Stay With Me)。「行かないで」という意訳も可能だが、ロシア語の原タイトルとは微妙に違ったニュアンスとなる。1番がロシア語、2番が日本語。
У нас есть завтра  …『明日があるさ』 日・露
Македонское лето(マケドニアの夏) …
Холодный ветер(冷たい風)   …『風が泣いている
Мистер бейсман  …Mr.Bass Man
Чистые косточки(ドライ・ボーンズ?) …
Ночные звезды(夜空の星々) …『 』
Голубой замок  …『ブルー・シャトウ[70]

1970年  (松川‐山下‐勝山‐佐々木) 2月~3月を中心に4月初旬まで。

  • EP (ГД0002083-4)
Я иду искать тебя(君を探して) …『涙の日曜日』 日・露[73]
Весенний цветок(春の花)  …「木瓜(ぼけ)の花」?
Лев спит ночью   …The Lion Sleeps Tonight
Маленькое кафе(小さなカフェ) …『』 下のLPの解説参照。
  • LP (33Д028407-08)
1.Погоня за счастьем(幸せを求めて) …『涙をこえて
  ロイヤルナイツと大庭照子の共演。
2.Белые качели  …『白いブランコ』
3.Рай й ад  …「天国と地獄」?
4.Воспоминание(思い出) …『 』
  大庭照子のソロ。
6.Шуточная детская песня(子供の戯れ歌) …『おへそ』
8.Я иду искать тебя(君を探して) …『涙の日曜日』 日・露[73]
9.За синим небом(青空を探しに) …『青空のゆくえ』[72]
10.Весенний цветок(春の花)  …「木瓜(ぼけ)の花」?
11.Лев спит ночью  …The Lion Sleeps Tonight
12.Билет в 50 центов …「50セントの切符」?
このアルバムでは、5.Кофе и вино(コーヒーとワイン)をかけると『Bというスナック』が、7.Маленькое кафе(小さなカフェ)をかけると『コーヒーとマルティーニ』が出てくる。入れ替わりである。

1972年  (松川‐勝山‐山下‐佐々木) 4月~5月。

  • EP (ГД0003069-70)
Сон Наоми  …『ナオミの夢』 厳密にはイスラエルの曲だが、日本語版が大ヒットした。
Чудо в любви …『愛の奇跡
Разбитая любовь(壊れた恋) …『悪魔がにくい
До новых встреч …『また逢う日まで[74]
  • また、1972年または1975年に「ソ連歌謡を日本語訳詞で歌う」という企画のレコードの現地録音が為された可能性がある(YouTubeにそれらしい投稿がかなり見られる)が、ディスク番号などの全貌は不明(2020年11月現在)。

1978年  (松川‐勝山‐牧野‐佐々木) 6月末~8月初。1978年の現地録音では、EPは同年内に発売されたが、LPは翌1979年に発売された。重版によるものは、表示が1980年となっている。

  • EP (Г62-06991-2)
Я верю в музыку …I Believe in Music
Джомболая  …Jambalaya
Прощай, юность …『さらば青春
Зимняя гроза  …『冬の稲妻
  • LP (С60-11687-88)  (発売は翌1979年)
Я верю в музыку …I Believe in Music
Чувства  …Feelings
Рабочая песня …Work Song
Джомболая …Jambalaya
Я не могу дать ничего, кроме моей любви …I Can't Give You Anything But Love
Прощай, юность  …『さらば青春
Цветок цикламенов(シクラメンの花) …『シクラメンのかほり
Фейерверки(花火) …「線香花火」? (作曲・松川義昭)[75]
Пойми меня  …『わかって下さい
Кэ сера  …『ケ・サライタリア曲、日本語訳詞は岩谷時子

エピソード編集

小保方淳の謎編集

デューク・エイセスの元メンバー・小保方淳は、デューク側の証言によると「ロイヤル・ナイツからデューク・エイセスに移って来た」とされている[76]。が、ロイヤルナイツ側の記録には、小保方の名前は一切登場しない。

関連項目編集

  • ミハイル・ゴルバチョフ - 山下健二は1989年の米ソ首脳会談の際、NHKのスタジオで実況中継の露日同時通訳を務めていた[77]。/ゴルバチョフがソ連大統領として1991年4月に日本を公式訪問した際、ロイヤルナイツの四人は、首相主催レセプションへの答礼パーティーに招かれ、大統領夫妻の前で『Журавлиなどを歌った[78]
  • 夢であいましょう』(NHK) - ビデオテープが貴重品だった時代の生中継番組であるが、1965年2月某日放送分の録画が[79]奇跡的に全部残っており、その中で山下健二がロシア語通訳を務めている。ゲストは、当時まだ演劇大学の学生だったアナスタシア・ヴェルチンスカヤ(Анастасия Вертинская)。YouTubeで視聴可能。(通訳の場面は25'57-28'25 および38'09-38'49) [5]

脚注編集

  1. ^ ソ連公演では、原発音「ロイヤルナイツ」(Ройял Найтс)に「カラリェーフスキエ・ルィーツァリ」(Королевские Рыцари=「皇帝の騎士」)を併用していたが、KnightsをNightsと誤記したYouTube投稿は、今日でも稀にではあるが時折見られる。
  2. ^ a b 1979年説もあり。「ノート」参照。
  3. ^ 第1回・第2回ソ連公演を報じた新聞・雑誌では、「くすのせ・けんじ」(朝日新聞・1966年11月19日(夕刊)・12月21日(夕刊)・1967年9月9日(夕刊))ないし「くすのせけんじ」(『音楽の友』1967年4月号・p.188、朝日新聞・1967年12月1日(夕刊))となっている。
  4. ^ a b 『NHK ロシア語入門』1974年1月号(日本放送出版協会。『ロシア語入門』はラジオ講座の当時の名称)、p.79 のロイヤルナイツ紹介記事では、松川は「京都生まれ」、勝山は「佐賀生まれ」となっている。神戸出身・福岡出身は再結成(1988年)以降の事務所の公式発表だが、もし両方とも正しければ、松川は京都生まれの神戸育ち、勝山は佐賀生まれの福岡育ちとなる。
  5. ^ a b c 1970年のソ連現地録音の「メロディア」レーベルのLP(33Д028407-08)ジャケットでは、向かって左から松川・山下・勝山・佐々木の順に並んだ大きな肖像画が採用され、解説にも「…ケンジ・ヤマシタ-第2テノール、クニオ・カツヤマ-バリトン、…」とロシア語で明記されている。実際の録音でも、「セカンドテナーの山下」「バリトンの勝山」らしき声が随所に聞こえる。
  6. ^ 『NHK ロシア語入門』1974年1月号(日本放送出版協会)、p.79。
  7. ^ 『NHKラジオ・ロシア語講座』1993年2月号(日本放送出版協会)、p.62。および本人ステージトークより。
  8. ^ 本人ステージトークより。当時、日本語習得に大変苦労していたにもかかわらず、先生や同級生がとても親切にしてくれた、と述べている。
  9. ^ 『NHKラジオ・ロシア語講座』1992年4月号(日本放送出版協会)、p.78。当時のNHK国際放送は、通称ラジオ・ジャパンだが、ロシア語ネット上のロイヤルナイツ評伝では、これがしばしば誤訳されている。
  10. ^ 『NHKロシア語《歌と詩》カセットテープ』(日本放送出版協会、昭和48年(1973年)9月25日)p.46。および『NHKテレビ ロシア語会話』1998年12・1月号(日本放送出版協会)。テレビ『ロシア語講座』は、1990年4月に『ロシア語会話』と番組名を変更した。
  11. ^ a b 牧野の主宰団体「社会を音楽化する研究会」(有限会社 文化センターボックス内)のサイト内「セラピー音楽家 牧野俊浩プロフィール」[stage.yakkora.com/profile.html](2021年1月13日現在セキュリティ保護なし)より。
  12. ^ ネット上では1974年となっているものが多いが、山下→牧野の交代は、1975年晩夏~秋に為されたと見るのが妥当である。根拠は、(1)1975年のソ連公演で、モスクワ・オスタンキノテレビで収録された画像が、YouTube公式チャンネル(旧ソ連ゴステレラジオフォンド)によって収録年入りでアップされているが(公開2019年8月1日)、歌っているのは松川・勝山・山下・佐々木の四人である。(曲は全部日本語歌詞の『恋のバカンスКаникулы любви)。尚、1978年8月7日の朝日新聞(夕刊)によると、1975年のソ連公演は「1月」となっている。  (2)日本コロムビアのLP『ロシア民謡、凍れる大地からの歌』(GZ-7034)の収録は、1975年7月4・6・12日に、山下も参加して行なわれた。そして同年11月19・20日、12月16日に、新メンバー牧野を迎え、同社のLP『宵待草・初恋』(GZ-7040)が収録されている。
  13. ^ ザ・ブレッスン・フォーの元メンバーと共に結成。
  14. ^ NHK朝の連続テレビ小説ロマンス』の放映された1984年は、ロイヤルナイツは解散していたはずである。(主題歌『夢こそ人生』のメイン歌唱は芹洋子榎木孝明、作曲は山本直純。) また同年の世界歌謡祭では、コーラス担当がロイヤルナイツとなっている。単なるミスプリか、それとも実際に臨時編成が為されたのか、要検証事項である。
  15. ^ 1970年のソ連現地録音のメロディアのLP(33Д028407-08)では、この2曲の露訳タイトル(Маленькое кафе『Bというスナック』、Кофе и вино『コーヒーとマルティーニ』)と中身(いづれも歌詞は日本語で歌われている)が、そっくり入れ替わっている。
  16. ^ 再結成(1988年)以降の、日本航空の招きによる海外コンサートは、ここには含めない。
  17. ^ 佐々木襄のソロLP『ロシアの歌』(東芝EMI、TA-72124、1985年)のライナーノーツより。
  18. ^ 日本経済新聞・夕刊(首都圏版)、1989年9月22日「[ただいま制作中]ロイヤル・ナイツ 別々の道、10年ぶり合流」より。この記事では、「ソ連45都市で500回にのぼる公演」となっている。
  19. ^ 読売新聞(夕刊)、1968年4月20日。
  20. ^ 朝日新聞(夕刊)、1966年11月19日。
  21. ^ 毎日新聞(夕刊)、1968年4月30日。
  22. ^ 菅野光亮のバンドは、ソ連公演に際し「菅野光亮クインテット」と名乗っている。
  23. ^ 読売新聞(夕刊)、1967年9月13日。
  24. ^ 読売新聞(夕刊)、1970年1月31日。また同年のメロディアLP(33Д028407-08)にも記載あり。
  25. ^ a b 滋賀朱実「音楽を通しての心の交流 "ロイヤル・ナイツ" 5回目のソ連公演」(『今日のソ連邦』(ソ連大使館広報部発行、日本語)1972年8月1日号(同年第15号) p.28-9)。滋賀は当時のマネジャー。
  26. ^ 朝日新聞(夕刊)、1978年8月7日。また翌年発売のメロディアLP(С60-11687-88)にも記載あり。
  27. ^ 結城久のバンドは、一連のソ連公演に際し、「結城久とアンサンブル・ミュゼット」と名乗っている。
  28. ^ 朝日新聞(夕刊)、1966年11月19日。また翌1967年発売のメロディアEP(33Д00019329-30)に録音あり。
  29. ^ 毎日新聞(夕刊)、1968年4月30日。この記事によると令子は、米国でも活躍した映画俳優・早川雪洲の長女で、劇団「雲」所属の女優だが、銀座でアルバイトで歌っているところを菅野光亮にスカウトされた。(『音楽旬報』1968年4月21日には「銀座のシャンソン喫茶で歌っているところをリーダーの舟田(バリトン)にスカウトされた」とある。) シャンソン歌手として同行。
  30. ^ 読売新聞(夕刊)、1970年1月31日。また同年のメロディアLP(33Д028407-08)に録音・解説あり。
  31. ^ 滝むつみ公式サイト「夢見中くらぶ」[www.takimutsumi.com/profile/profile.html] (2021年1月13日現在セキュリティ保護なし)より。また78年公演に関しては、朝日新聞(夕刊)・1978年8月7日にも記載あり。
  32. ^ 朝日新聞(夕刊)、1966年12月21日。
  33. ^ 朝日新聞(夕刊)、1967年9月9日。
  34. ^ 当時の日本で「ロシア民謡」とひと括りにされていた『トロイカ』『カチューシャ』などは既にソ連では歌われていない、という情報は、第1回訪ソの前には既にソ連側からもたらされていたため、ステージでのソ連歌謡は、常に当時の最新ソ連レコードから選曲・採譜され準備された(『音楽旬報』1966年12月1日)。
  35. ^ 朝日新聞(夕刊)、1967年9月9日。
  36. ^ 朝日新聞・1966年11月19日(夕刊)・12月21日(夕刊)、および『音楽の友』(音楽之友社)1967年4月号、p.188-193「3万キロ歌いあるき〈ロイヤルナイツ、ソ連の旅〉」より作成。
  37. ^ 「3万キロ歌いあるき〈ロイヤルナイツ、ソ連の旅〉」(『音楽の友』(音楽之友社)1967年4月号、p.188-193)。
  38. ^ この時、往きの同じ船に乗り合わせた人物の目撃証言があるが、ロイヤルナイツは「カルテット」ではなく「グループサウンズ」と認識されている。「1967年9月私は初めてモスクワへ旅した。当時空の便は無く、横浜から汽船に乗り2泊3日の航海でナホトカへ、汽車に乗り継ぎ翌朝ハバロフスク、そして飛行機でモスクワへ向かう都合3泊4日の行程であった。船はソ連の客船でオルジョニキーゼ号。...余談で私事に亘り恐縮だが、横浜からの旅に偶然グループサウンズ「ロイヤルナイツ」のメンバーと一緒になり、それ以来山下健二氏とは今も親交を篤くしている。その時教わったロシア歌謡「八月」という歌が気に入っていつも季節が来ると口ずさんでいる。」(環日本海経済研究所(ERINA)Web上コラム『「国境」私考』千々松和夫・サハリン日本センター所長(肩書は当時)、2005年7月1日[1])。尚「当時空の便は無く」は千々松の思い違いで、実際には1967年4月に東京‐モスクワ間の直通定期旅客航空路線が就航開始している(「トラベルウォッチ・インプレス」の記事[2]。また主要各紙の同年4月の記事でも確認可能)。最初は週1往復で、初代機は全116席のTu(ツポレフ)-114型機。片道運賃はエコノミーが193,900円、ファーストクラスが315,000円であった(日本航空の広告(1967年4月2日「読売新聞」第2面))。
  39. ^ 「オルジョニキーゼ号」関連以外の固有名詞と日程は、読売新聞・1967年9月13日(夕刊)、朝日新聞・1967年9月9日(夕刊)・12月1日(夕刊)より作成。
  40. ^ 避暑地の小さな町。西側観光客にも人気があった。『音楽旬報』1968年8月11日によると、ここの野外ステージでコンサートが開かれた。
  41. ^ 読売新聞(夕刊)、1989年1月18日。
  42. ^ 毎日新聞(東京夕刊)1968年4月30日。
  43. ^ 『音楽旬報』1968年8月11日。
  44. ^ 『音楽旬報』4月21日では「当初チェコ、ルーマニア、東ドイツなどが」とあるが、「ルーマニア」がミスプリであることは明白である。同紙8月11日では、メンバーが「ポーランド、チェコに行けなかったのが残念」と語っている。
  45. ^ ポーランド東ドイツの指導者は、チェコの「プラハの春」の影響が自国に飛び火するのを極度に警戒しており(岩田賢司「チェコ事件」。木戸蓊(しげる)・伊東孝之・編『東欧現代史』有斐閣選書(1987年2月)に所収、p.238)、域内には不穏な空気が漂っていた。そして当然、「プラハの春」を快く思わないソ連の動向も注視すれば、最悪の事態・チェコ事件(1968年8月20日)は5ヶ月前から予測可能であった。また、チェコスロヴァキアに「プラハの春」をもたらした、ドプチェク共産党第一書記の就任は1968年1月5日だが、同年2月25日には、保守派の巻き返しを図る陸軍少将シェイナが軍事クーデターに失敗し、米国に亡命する事件も起きている(同、p.231)。
  46. ^ 「エレバン」以外の公演地と日程は、毎日新聞・1968年4月30日(夕刊)、読売新聞・1968年4月20日(夕刊)、『音楽旬報』1968年4月21日・8月11日より作成。
  47. ^ 2020年1月22日に公式チャンネル「ラジオアルヒーフ」(Радиоархив)により投稿されたが、現在は削除されている(確認2021年3月14日)。が別の投稿者による同一内容の投稿があり、リンクはこちらのURLを採用する(2021年3月14日現在)。
  48. ^ ラジオアルヒーフによる投稿の見出しには、放送年月日不明(дата эфира неизвестна)と書かれていた。
  49. ^ 「モスクワの皆様、こんにちは」「3回目のソヴィエト公演」と、日本語、ロシア語の両方で語られている。またロシア語で、黒海カスピ海で泳いだことが語られている。
  50. ^ 番組収録の前日・前々日に公演が為され、お客様にとても喜んでもらえた、と語られている。
  51. ^ 厳密には、ウクライナ民謡をもとにしたソ連歌謡。1965年5月発表、作曲はワシリー・ミハイリュク(Василий Михайлюк)、作詩はニコライ(ウクライナ語ではミコライ)・ユーリチュク(Николай Юрийчук)。
  52. ^ パフムトワは『アンガラ川を下りて』(По Ангаре)の作曲者でもある。
  53. ^ 『音楽旬報』の訳語をそのまま引用したが、前後の文脈から判断し、ソビエト連邦中央テレビのモスクワ本局のことだと思われる。
  54. ^ 読売新聞(夕刊)・1970年1月31日、および『音楽旬報』1970年4月11日より作成。但し、読売新聞では1968-9年の写真とメンバー表が、『音楽旬報』では1966年の写真が使われているが、現地録音のメロディアのLP(33Д028407-08)のジャケットには「クニオ・カツヤマ(バリトン)」の記載と、バリトン位置・勝山の肖像画が間に合っている。
  55. ^ ハバロフスク公演は1967年1月の第1回ソ連演奏旅行以来である。同じコンサートホールが使われた。
  56. ^ 同宿の日本人派遣技術者によると、ケメロヴォへの日本人の来訪は3年ぶりで、しかも日本人女性は初めてであった。
  57. ^ カザンのコンサートでは、5千人収容可のスポーツパレスが使われた。
  58. ^ 一行はミンスクでメーデー(ソ連では祝日)、即ち5月1日を迎えた。
  59. ^ 滋賀朱実「音楽を通しての心の交流 "ロイヤル・ナイツ" 5回目のソ連公演」(『今日のソ連邦』(ソ連大使館広報部発行、日本語)1972年8月1日号(同年第15号)、p/28-9)より作成。
  60. ^ 第2回ソ連公演の「オルジョニキーゼ号」の脚注参照。またロイヤルナイツは、1969年7月に、この曲を常田哲司(佐々木襄)の日本語訳詞により『夜ごとの想い AUGUST』と題して日本でレコード化している(CBSソニー、SONA-86046。読売新聞(夕刊)1969年8月21日に「ロイヤル・ナイツが歌謡調のレコード」と取り上げられているが、記事では作曲者名は省略されている)。但し日本語版は、当時の日本のムード歌謡調を極端に強調した編曲で、原曲とは相当印象が異なっている。のちにNHKのロシア語講座(TV・1975年10月の「今月の歌」。山下脱退直前のフルメンバーによる収録)、及びそれに関連して歌われたロシア語版(『NHKロシア語《歌と詩》カセットテープ』(日本放送出版協会、1973年9月25日)収録版)は、ゆっくりと奏でられる三連符のアルペジオを基調とした原曲の清冽な透明感をそのまま生かした編曲となっている。
  61. ^ 日本コロムビアのシングルCD『つる』(CODA-8784、1991年8月[D・8・21])のライナーノーツ、および滋賀朱実「音楽を通しての心の交流 "ロイヤル・ナイツ" 5回目のソ連公演」(『今日のソ連邦』(ソ連大使館広報部発行、日本語)1972年8月1日号(同年第15号)、p.28-9)より作成。滋賀は当時のマネジャー。フレンケリとの運命的な出会いの日は、前者では「4月」、後者では「5月23日」と大幅に異なっているが、演奏旅程の構成、および記事の書かれた状況などを総合的に判断し、後者を採用する。
  62. ^ 『NHKロシア語《歌と詩》カセットテープ』(昭和48年(1973年)9月25日、日本放送出版協会)、p.46。
  63. ^ NHKテレビ『ロシア語講座』のためにモスクワTVから招聘された初代アナウンサー。放送開始から約19年間、ソ連のテレビ局から招かれたアナウンサーが1年交代でレギュラー出演していた。アンナ・シャチーロヴァの所属は、本書では「モスクワ放送局アナウンサー」だが、『NHK ロシア語入門』1973年8月号(日本放送出版協会。当時のラジオ講座テキスト) p.61「アンナさんの印象」では「モスクワテレビ放送局アナウンサー」と、当時のNHKの内部でも訳語が必ずしも統一されていない。ここでは「モスクワTV」と表記する。
  64. ^ ゴッフは『ロシアの草原』『八月』の作詩者。尚、『八月』の日本語版であるシングルレコード『夜ごとの想い AUGUST』(CBSソニー、SONA-86046、1969年7月)では、原作詩者名が「 I. タラノフ」と誤記されている。
  65. ^ 1974年度~1975年度上半期(1974年4月~1975年9月)はソ連レコードを使用。その後はラジオの「今月の歌」は廃止。
  66. ^ 1978年8月7日・朝日新聞(夕刊)によると、第6回公演は「75年1月」。
  67. ^ 1978年8月7日・朝日新聞(夕刊)より作成。
  68. ^ 『赤いつるばら』は、1966年9月にリリースされた(キング BS-492 歌:梓みちよ)。作曲は平尾昌晃(当時は昌章)だが、メロディア版では作者名はタイトルの直後に (M.ヒラオ) とだけ印刷されており、作詩者の水島哲の名は抜け落ちている。
  69. ^ 『沈む太陽』(作曲・鈴木淳、作詩・大町志郎)は、1966(昭和41)年3月、ロイヤルナイツの結成メンバー(くすのせ・舟田兄弟・佐々木)によってリリースされた(ビクター、SV-365)。が、メロディア収録版では、歌詩の約二分の一が書き直されており、作詩者の位置には Д. Сига (= D.シガ) と印刷されている。
  70. ^ a b ブルー・シャトウ』の作詩は橋本淳だが、「作曲・作詩、T. イノウエ」と表記されている。
  71. ^ a b 『あの空の青さ』(作曲・白井幹也、作詩・檀 寛)は、1967(昭和42)年5月1日、ダークダックスによってリリースされた(キング、BS-638)。Wikipedia日本語版「どこまでも行こう」では、「シングルレコード『どこまでも行こう』のB面収録曲」と解説されており、盤面の請求番号も、『どこまでも行こう』がSF-2247、『あの空の青さ』がSF-2248の順なのだが、ジャケットのデザインは、『あの空の青さ』(新曲)の方が、『どこまでも行こう』(既製ヒット曲のカバー)よりも格上に見える配置・配色となっている。歌い出しの1行目で、ダーク版「あの空の青さの…」、ロイヤルのメロディア版「あの空の青さは…」と、助詞1文字分の差異が見られる。作曲者の白井幹也は「しらい・みきや」と読むが(白井の親族に直接確認済み)、メロディア版では K.シライと誤記されている。また作詩者は檀寛ではなく S.ツカダとなっている。
  72. ^ a b 作曲者は宮川泰だが、Ya. ミヤガワと誤記されている。「ひろし(泰)」が「やすし」と誤読されたためと思われる。
  73. ^ a b 『涙の日曜日』の作詩はなかにし礼だが、M. オカノと誤記されている。
  74. ^ また逢う日まで』の作詩は阿久悠だが、S. ナカムラとなっている。『愛の奇跡』の作詩家・中村小太郎と混同したものと思われる。
  75. ^ レコード盤面およびジャケットには、Фейерверки (Ё. Мацукава - Х. Сакума)と印刷されている。即ちミスプリでなければ、作曲は松川義昭、作詩は H. サクマとなる。
  76. ^ 谷道夫『人生はハーモニー』(宮日文化情報センター、2005年11月1日。『宮崎日日新聞』の連載をまとめる)。槇野義孝の証言も有り。
  77. ^ NHKのVTRから確認可能。
  78. ^ 『NHKラジオ・ロシア語講座』1992年4月号(日本放送出版協会)、p.76-7。
  79. ^ 録画の冒頭には、投稿者による字幕「1965年2月」が入っているだけだが、朝日新聞(夕刊)および毎日新聞(夕刊)の1965(昭和40)年2月6日(土)のテレビ欄で、出演者「ベルチンスカヤ」(ヴェルチンスカヤの当時の一般的表記)の名が確認できる。放送時刻は午後10:10-10:50(総合テレビ)。更に朝日新聞夕刊(東京本社版)の同一ページ(同日第8面)の中段には、「"オフェリア"来日 ベルチンスカヤ嬢」の写真入り記事がある。ヴェルチンスカヤは、当時話題のソ連映画『ハムレット』(1964年、グリゴーリィ・コージンツェフ監督)にオフェリア役で出演したことから訪日が実現した。番組中の坂本九とのミニ・コントでも、ハムレット役のインノケンティ・スモクトゥノフスキーの名が言及されている。

外部リンク編集

  • メロディア版が豊富なディスコグラフィー投稿サイト"Discogs"(盤面またはジャケットの写真入り)[6]