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ロシタ・マウリ

ロシタ・マウリ(Rosita Mauri、María Isabel Amada Antonia Rosa Mauri SeguraあるいはRoseta Mauri y Segura、1850年9月15日 - 1923年12月3日)は、スペイン出身のダンサー兼バレエ教師である。カタルーニャ人バレアレス諸島マヨルカ島パルマ・デ・マヨルカで生まれ、フランスパリで没した。

ロシタ・マウリ
Rosita Mauri
Rosita Mauri 1881.jpg
ナダールが1881年に撮影した肖像写真
生誕 María Isabel Amada Antonia Rosa Mauri Segura
(1850-11-15) 1850年11月15日
スペインの旗 パルマ・デ・マヨルカ
死没 1923年12月3日(1923-12-03)(73歳)
フランスの旗 フランスパリ
埋葬地 モンパルナス墓地
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国籍 スペイン
職業 ダンサー、バレエ教師
バレリーナの肖像 レオン・コメール(Léon Comerre)作
『アラベスクの終わり』(Fin d'arabesque) 1877年 エドガー・ドガ

1849年9月15日、1850年9月15日、1856年11月15日と、マウリの生年月日にはさまざまな説がある。国際的な名声を得たプリマ・バレリーナとして、ロシタ・マウリは、画家、彫刻家、そして写真家によってしばしば作品の題材となり、またいくつかの詩的賛辞の主題にもなった[1]

目次

経歴編集

ロシタ・マウリはバレアレス諸島マヨルカ島パルマ・デ・マヨルカに生まれた。バレエ教師で振付師のペドロ・ラファエル・ハイメ・マウリ(Pedro Rafael Jaime Mauri)の娘であり、スターの地位を得るべく子供時代から訓練をほどこされた。ロシタ・マウリはスペイン本土のタラゴナ県レウスで育ち、しばしばレウスが出生地であると主張されることがある。ロシタ・マウリのダンス歴は1865年からはじまった。1877年に、フランスの作曲家シャルル・グノーがミラノのスカラ座でロシタ・マウリが踊っているのを見たとき、ロシタ・マウリのヨーロッパのプリンシパル・バレリーナの1人にのし上がる経歴がはじまった。グノーはそれから、パリ国立オペラに、ロシタ・マウリと契約するように説得し、ロシタ・マウリは翌年、シャルル・グノーの『ポユクト』(Polyeucte)で初演した。ロシタ・マウリは、フルタイムのダンシングから引退したのち、1898年と1920年のあいだパリ・オペラ座バレエの「完成クラス」(‘Class of perfection’)の未来世代のダンサーを教えた[2]。1923年に死亡するや、ロシタ・マウリはモンパルナス墓地に埋葬され、墓上の名前はイザベル・アマダ・ロシタ(Isabel Amada Rosita)であった。バルセロナのロシタ・マウリ・ダンス・アカデミー(英語:Rosita Mauri Academy of Dance)は、1978年に彼女にちなんで命名され[3]、故郷のレウスは2002年以来、彼女の名前の国際ダンス競技会を主催している[4]

人物編集

その温厚な性格のために、ロシタ・マウリは芸術界の寵児であった。詩人フランソワ・コッペ(François Coppée)は、ロシタ・マウリのために、たいへん人気のあるバレエ『コリガンの女』(La Korrigane)をつくり、1880年、音楽シャルル=マリー・ヴィドール(Charles-Marie Widor)、振付ルイ・メラント(Louis Mérante)で、初演した[5]。彼につづいて、1885年にジュール・マスネは、オペラ『ル・シッド』(1885年)のなかのバレエを特別にロシタ・マウリのためにつくった[6]。翌年、詩人ステファヌ・マラルメは、ロシタ・マウリがアンドレ・メサジェの『二羽の鳩』で黒髪を振り乱して主役を演じるのを見たのち、どのように自分がロシタ・マウリの儀式化された動物性(sa divination mêlée d’animalité)によってつよく印象づけられたかを書いた[7]

ロシタ・マウリはしばしば画家によって描かれた。エドガー・ドガはロシタ・マウリを、数回にわたって描いたーー『アラベスクの終わり』(Fin d'arabesque)(1877年、上述)、『Danseuse sur la scène』(1878年、ギャラリー参照)、『Ballet vu d'une loge de l'Òpera』(1885年)[8]。そのほかには、エドゥアール・マネ(『ロシタ・マウリの肖像』(Portrait of Rosita Mauri)1877年/1879年、別名『Jeune femme en rose』(ギャラリー参照))、ピエール=オーギュスト・ルノワールレオン・ボナ、レオン・コメール(Léon Comerre)、アンデシュ・ソーン(1888年の肖像と1889年のエッチング)[9]、そしてリュドヴィック=ナポレオン・ルピックがいる。彼女はまた、フランスのデニス・ピュエシュ(Denys Puech)、ローラン・マルクスト(Laurent Marqueste)およびスペインのエウゼビ・アルナウ(Eusebi Arnau)によって彫刻作品がつくられた。写真家ナダールは、ロシタ・マウリの生涯をつうじて肖像写真を撮った[10]

ロシタ・マウリの芸術家気質のべつの側面は、短気であった。上演中、ツァーリが連れと話していたので、ロシタ・マウリはキャビアを食べることをこばんだという逸話がある[11]。またフランスの政治家アントナン・プルーストはロシタ・マウリのために苦しんだとうわさされたが、アントナン・プルーストは、以前は子供時代の友人エドゥアール・マネとともに美術を学び、そして短期間、芸術大臣をつとめた(1881年 - 1882年)。1905年3月にアントナン・プルーストはロシタ・マウリといっしょに食事をした2日後に銃で自殺をとげたが、数紙によればこれはロシタ・マウリとのいさかいの結果である[12]

大衆文化編集

ロシタ・マウリは、コンピューター・アニメーション・ミュージカル・アドベンチャー・コメディー映画『Ballerina』(2016年)に、エレナ・ダンケルマン(Elena Dunkleman)が声で出演した登場人物として現われる[13]

ギャラリー編集

脚注編集

  1. ^ La Dansarina Roseta Mauri, L’Associació d’Estudis Reusencs, 1971
  2. ^ Lynn Garafola, Legacies of twentieth-century dance, Wesleyan University Press, CT 06459, 2005, p.160
  3. ^ Cmagnet.com
  4. ^ Rosetamauri.org
  5. ^ Rollin Smith, Louis Vierne: organist of Notre-Dame Cathedral, Pendragon Press, 1999, p.57; there is a contemporary photograph of her in this role
  6. ^ The Standard Opera and Concert Guide Part Two, George P. Upton and Felix Borowski (Kessinger Reprint, 2005) p.332
  7. ^ Mary Lewis Shaw, Performance in the Texts of Mallarmé, Pennsylvania State University, PA 16802, 1993, p.61
  8. ^ Wikipaintings
  9. ^ Zorngallery.se
  10. ^ There are examples in the gallery and at Gettyimages.co.uk Getty Images
  11. ^ Originally recorded by Carl van Vechten in 1922: Caruso’s Mustache Off, New York, 2010, p.105
  12. ^ New York Times, 23 March 1905 query.nytimes.com
  13. ^ “Ballerina, como La La Land, también nos habla de perseguir nuestros sueños…” (スペイン語). Opera World. (2017年2月18日). http://www.operaworld.es/ballerina-la-la-land-tambien-nos-habla-perseguir-suenos/ 2018年1月15日閲覧。. 

参考文献編集