ロバート・ヘンリー (初代ノーティントン伯爵)

初代ノーティントン伯爵ロバート・ヘンリー英語: Robert Henley, 1st Earl of Northington PC 1708年頃 - 1772年1月14日)は、グレートブリテン王国の大法官。ホイッグ党の一員であり、ウィットと著作で知られる[1]

The Right Honourable英語版
ノーティントン伯爵
PC
トマス・ハドソンによる肖像画
トマス・ハドソンによる肖像画
国璽尚書
フェラーズ伯爵の裁判担当大家令
任期
1757年6月30日 – 1761年1月16日
君主 ジョージ2世
ジョージ3世
首相 ニューカッスル公爵
前任者 空位(前任者はハードウィック伯爵大法官として)
後任者 自身(大法官として)
大法官
レディ・キングストン英語版の裁判担当大家令
任期
1761年1月16日 – 1766年7月30日
君主 ジョージ3世
首相 ニューカッスル公爵
ビュート伯爵
ジョージ・グレンヴィル
ロッキンガム侯爵
前任者 自身(国璽尚書として)
後任者 カムデン男爵英語版
枢密院議長
任期
1766年7月30日 – 1767年12月22日
君主 ジョージ3世
首相 チャタム伯爵
前任者 ウィンチルシー伯爵英語版
後任者 ゴア伯爵
個人情報
生誕 1708年
グレートブリテン王国 グレートブリテン王国ハンプシャー
死没 1772年1月14日
グレートブリテン王国 グレートブリテン王国ハンプシャー
国籍 イギリス
政党 ホイッグ党
配偶者 ジェーン・ハバンド
子供 8
アンソニー・ヘンリー

生涯編集

初期の経歴編集

ハンプシャーの裕福な家族でアンソニー・ヘンリー英語版の次男として生まれた。祖父のサー・ロバート・ヘンリーはMaster of the Court of the King's Bench英語版であった。

ヘンリーの父アンソニー・ヘンリーはオックスフォード大学で教育を受け、文学に興味を持った。彼はロンドンに引っ越した後、ドーセット伯爵英語版サンダーランド伯爵ジョナサン・スウィフトアレキサンダー・ポープトーマス・バーネットの友人になった。アンソニー・ヘンリーは結婚した後、1698年にアンドーヴァー選挙区英語版で当選してイングランド庶民院英語版の議員になった。彼は1711年8月に死去、家督は長男アンソニー、ついで次男ロバートが継承した[2]

 
ノーティントンのザ・グランジ英語版

ヘンリーはウェストミンスター・スクールオックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ英語版で教育を受けた後[1]、1727年にオール・ソウルズ・カレッジのフェロー(研究員)になり、1729年にインナー・テンプルで法律を学んだ。1732年6月23日に弁護士資格免許を得た後、1746年に兄からハンプシャーザ・グランジ英語版を継承した。ザ・グランジはイニゴー・ジョーンズがヘンリーの祖父に建てた建物だった。

政歴編集

1747年にバース選挙区英語版で当選して庶民院議員になり、1756年にイングランド及びウェールズ法務総裁に任命されナイトに叙された。翌年に国璽尚書に昇進(国璽尚書はヘンリーを最後にほかの官職に統合された)、貴族院に移籍したが、貴族に叙されるのは1760年のことだった(グランジのヘンリー男爵[3]。1760年にジョージ3世が即位した後、ヘンリーは1761年に大法官に任命され、1764年にノーティントン伯爵に叙された[4][1]

叙爵が遅れたのはヘンリーが元プリンス・オブ・ウェールズフレデリック・ルイス(1751年没)を支持したレスター・ハウス党の一員だったため、国王ジョージ2世に嫌われたことが一因であり、1760年に男爵に叙されたのもフェラーズ伯爵の裁判に出席するのに必要だったためである。1767年に大法官を辞任した後、1772年1月14日にハンプシャーの自宅で死去した。息子ロバートがノーティントン伯爵の爵位を継承した。

家族編集

1743年、ジェーン・ハバンド(イプスリーのサー・ジョン・ハバンドの娘)と結婚、3男5女を設けた。5人の娘はキャサリン(1779年1月9日没)[5]、ブリジット(1796年3月13日没)[6]、ジェーン(1823年2月没)[7]、エリザベス(1821年8月20日没)[8]、メアリー(1753年 - 1814年)[9]だった。

担当裁判編集

  • ヴァーノン対ベセル英語版 (1762) 28 ER 838 - 「困窮している人は真に自由な人ではない」と述べ、譲渡抵当付き債務を抱えている者は債務を償還して抵当を取り戻す権利を放棄できないという判決を出した
  • シャンリー対ハーヴィー英語版 (1763) 2 Eden 126, 127 - 「イングランドに足を踏み入れた時点で自由人になる」という判決を出し、奴隷解放の一助となった
  • ブラウン対ペック (1758) 1 Eden 140 - 同棲を妨げる条項は公序に反するとして無効とする判決を出した。裁判で挙げられた契約は「夫と別居した場合は1か月毎に5ポンドを与え、しなかった場合は1か月毎に2ポンドを与える」という遺言状だったが、選択にかかわらず5ポンドを得る権利があるとした。
  • Hussey対Dillon 2 Amb 603, 604 - 「孫」(grandchildren)の定義
  • パイク対ホーア、2 Eden, 182; Amb. 428

脚注編集

  1. ^ a b c Robert Henley, 1st Earl of Northington”. WordiQ. WordiQ. 2011年1月30日閲覧。
  2. ^ Henley (2nd Baron), Robert (1831). A memoir of the life of Robert Heneley, earl of Northington, lord high chancellor of Great Britain. Oxford: Oxford University. pp. 162 
  3. ^ "No. 9986". The London Gazette (英語). 29 March 1760. p. 1.
  4. ^ "No. 10418". The London Gazette (英語). 19 May 1764. p. 4.
  5. ^ Cokayne, G.E. (1910–1959). The Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdoms, Extant, Extinct or Dormant. Glouester, U.K.: Alan Sutton Publishing. pp. 474 
  6. ^ Mosley, Charles (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knightage. Wilmington, Delaware, U.S.: Burke's Peerage. pp. 1248 
  7. ^ Maubois, Caroline (2008). re: Penancoet Family 
  8. ^ Cokayne, George Edward (1983). Complete Baronetage. Gloucester, U.K.: Alan Sutton Publishing. pp. 49 
  9. ^ Mosley, Charles (1867). Burke's Peerage and Baronetage 

外部リンク編集

グレートブリテン議会英語版
先代:
ジョージ・ウェイド
フィリップ・ベネット英語版
庶民院議員(バース選挙区英語版選出)
1747年 - 1757年
同職:ジョージ・ウェイド 1747年
ジョン・リゴニア英語版 1748年 - 1757年
次代:
ジョン・リゴニア英語版
大ピット
司法職
先代:
ウィリアム・マレー英語版
イングランド及びウェールズ法務総裁
1756年 - 1757年
次代:
サー・チャールズ・プラット英語版
公職
先代:
空位
国璽尚書
1757年 - 1761年
次代:
カムデン男爵英語版
大法官として
大法官
1761年 - 1766年
先代:
ウィンチルシー伯爵
枢密院議長
1766年 - 1767年
次代:
ゴア伯爵
名誉職
先代:
カーナーヴォン侯爵
ハンプシャー統監
1764年 - 1771年
次代:
シャンドス公爵
グレートブリテンの爵位
新設 ノーティントン伯爵
1764年 - 1772年
次代:
ロバート・ヘンリー
新設 ヘンリー男爵
1760年 - 1772年