ロベール1世 (ブルゴーニュ公)
ロベール1世 老公(フランス語:Robert Ier, 1011年 - 1076年3月21日)は、ブルゴーニュ公(在位:1032年 - 1076年)。フランス王ロベール2世の息子で、アンリ1世の弟。
ロベール1世 Robert Ier | |
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ブルゴーニュ公 | |
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在位 | 1032年 - 1076年 |
出生 |
1011年 |
死去 |
1076年3月21日 フランス王国 ブルゴーニュ公国、フルーレ=シュル=ウシュ |
配偶者 | エリー・ド・スミュール |
エルマンガルド・ダンジュー | |
子女 |
エリー・ド・スミュールとの子 ユーグ アンリ ロベール シモン コンスタンス エルマンガルド・ダンジューとの子 イルデガルド |
家名 | ブルゴーニュ家 |
父親 | フランス王ロベール2世 |
母親 | コンスタンス・ダルル |
生涯編集
1030年に、母コンスタンス・ダルルに押され、兄のアンリ1世と共に彼らの父王ロベール2世に対して反逆を起こし、アンリはドルーの城を、ロベールはボーヌとアヴァロンを略取した。
2人はディジョンにあるサン=ベニーユ修道院のギヨーム・ド・ボルピアーノの命での扇動で父と和解した。
その翌年の1031年に父ロベール2世崩御後、次兄の新王アンリ1世に対する反乱が起きた。ロベールは母コンスタンス・ダルルの援助[1]を受けてこれに加担したが、アンリ1世よりブルゴーニュ公国を贈与されたことにより講和を結んだ。ロベールは暴力的かつ気性が激しいことで有名であった[2]。
ブルゴーニュ公国治世中のロベール1世は家臣を取り締まれない強盗騎士でしかなく、自分の領地の中で特に教会を頻繁に荒らし、オータン主教区の所得とディジョン司教座聖堂参事会からワインを奪い取る等の略奪行為をしていた他、オセールのサンジェルマン修道院にも荒らしに入った。
ロベール1世は1033年頃に又従妹に当たるエリー・ド・スミュール(スミュール家 ダルマス1世の長女)(1016年 - 1055年以降4月22日)と結婚し、4男1女をもうけた。
- ユーグ(1034年 - 1059年) - 戦死
- アンリ(1035年 - 1074年?) - 後のブルゴーニュ公ユーグ1世の父
- ロベール(1040年 - 1113年) -シチリア伯ルッジェーロ1世の娘ヴィオランテと結婚、次兄アンリの子ユーグ1世に追放され後に暗殺された
- シモン(1045年 - 1087年)- 兄ロベールと同様、甥ユーグ1世により追放、その後は不明
- コンスタンス(1046年? - 1093年?) - カスティーリャ王アルフォンソ6世妃
しかし、1048年にロベール1世は妻エリーとは近親結婚であることを教会に主張し離婚し、必然的にエリーの実家であるスミュール家との関係が悪化した。
晩餐会でロベール1世はダルマス1世と喧嘩になり、それに介入したダルマス1世の四男でエリーの弟ジョスラン・ド・スミュール共々、双方怒りに任せて殺害した、もしくはオセールのサンジェルマン修道院を襲撃してダルマス1世を暗殺したとされる。
この事件により、贖罪としてロベール1世はローマへの巡礼とスミュール=アン=ノーソワ教会を建設した。教会の左側の柱廊には、ロベール1世のダルマス1世殺害場面が描かれ、彫刻されたレリーフが存在する。
離婚後のエリーはマルシーニ修道院に篭り以降、歴史家によれば、名をペトロニーユと改め、尼僧として晩年まで過ごしたた数年後に亡くなっている[3]。
2番目の妻も又従妹に当たるアンジュー伯フルク3世[4]の娘でガティネ伯ジョフロワ2世(Geoffroy II de Gâtinais)の未亡人エルマンガルドで、彼女との間には1女が生まれた。
脚注編集
- ^ コンスタンス・ダルルは王位を継承したアンリよりウードとロベールを可愛がっており、ロベールを王位継承者に推していた
- ^ “Robert Ier de Bourgogne” (フランス語). Wikipédia. (2018-01-14) .
- ^ J.リチャードは、エリーの弟によって創設されたマルシニー修道院またはボーヌにはその当時、尼僧はいなかったことから、そのどちらの修道院にもエリーは隠棲しなかったとしている。
- ^ 最初の妻エリーを近親婚での婚姻の無効を訴えて離婚したにもかかわらず、後妻に選んだエルマンガルドも親族であったため、教会から非難された
- ^ フルーレ=シュル=ウシュの教会で悲惨な事故(暗殺説有)遭ったとされている
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