ローマ海軍
ローマ海軍(ローマかいぐん)は、古代ローマの海軍。ラテン語で海軍あるいは艦隊をさす単語として「クラッシス」(Classis)がある。
![]() | |
古代ローマ軍 紀元前753年 – 西暦476年 | |
制度史 | |
---|---|
陸軍 (兵種と役職、正規軍、アウクシリア、将軍の一覧) | |
海軍 (艦船、提督の一覧) | |
戦史 | |
戦争 | |
著名な戦闘 | |
戦功 | |
兵器史 | |
軍事技術 (個人装備、攻城兵器、カストラ、凱旋門、街道) | |
軍政史 | |
歩兵戦術 | |
攻城戦 | |
国境防衛 (城壁、ハドリアヌスの長城、アントニヌスの長城) | |
概要編集
元々、ローマはイタリアの都市国家からスタートし、市民軍であるローマ軍団を中心として勢力を拡大してきたため、海軍の必要性は少なかった。なお、紀元前311年に2人の長官(ドゥオウィリ)からなる委員会を設立し、20隻ほどの艦隊が作られた記録が残っている。しかし、どちらかと言えばフェニキアやギリシャなどの海洋国家の同盟軍の海軍に頼ることが多く、しばらくは目立った活躍も無かった。
だが、第一次ポエニ戦争では地中海で一、二を争う海軍国カルタゴが相手とあって、捕獲したカルタゴ船から学んだ技術を模倣するなどして大艦隊の建造を開始した。その際に2ヶ月でローマは艦隊を作り上げたとされており、これは後世の誇張と思われていたが、カルタゴ船を海底から引き上げたところ船の木材の接合場所などに記号や印が付けてあり、当時には既に大量生産の仕組みが確立されていたと考えられるようになった。
ローマ海軍は、新兵器「コルウス(カラス)」の導入や、陸・海の連携攻撃を成功させて、シチリアにいたハミルカルへのカルタゴ本国の補給を寸断するなど活躍したが、経験の浅いことが仇となり、戦闘よりむしろ海難事故での死者が十数万以上に及ぶほど大惨事が度々起こった。それでも徐々に経験が深くなるにつれ、海上では一度の戦闘以外は勝利を続け、カルタゴ相手に優勢に戦った。第二次ではハンニバルへの補給を妨害し続けるなど活躍し、共和制末期にもポンペイウスが海軍を率いて当時活発だった海賊を制圧するなど、活躍の機会は多かった。
帝政以降にはヴァンダル族やパルティアやペルシア、新興国のイスラム帝国の海軍とも戦い、ギリシア火を搭載した船で戦ったが、末期にはヴェネツィアに頼って解散したり、あるいは徹底的に壊滅させられたりして、徐々に戦力を減少させ、領土の縮小・帝国滅亡と共に消滅した。
戦術編集
共和制時代の地中海の海軍は、三段櫂船や五段櫂船などのガレー船が主体であった。ペルシア戦争のサラミス海戦のように、当時は全力疾走で敵船に突っ込み、船首の衝角を船腹に当てたり、櫂を破壊したりする攻撃。あるいは接舷しての斬りこみがあった。
衝角戦法は船員の錬度が高ければ可能であり、初期のローマ海軍は急募した水夫が漕いだため、細かい航路変更が出来ず、躱され切り込まれるなどむしろ自船の危険性が高かった。そこで搭乗用タラップ「コルウス」を新造艦に設置し、白兵で優れるローマ軍団を直接かつ速やかに送り込む方法が考え出された。それは船首にマストのように立てられ、方向が360度変更可能だったと推測され、敵船に大釘で食い込むものであり、初戦からカルタゴ相手に勝利を収めた。
しかし、ローマにとって初めての海軍だったため、カルタゴ海軍が操船に慣れていないローマ海軍に接近せずに浅瀬に追い込む戦術に出たことと、嵐の時に初心の司令官が経験豊かな同盟国の船長の忠言を聞かずに、心理的な恐怖から沿岸から遠ざかることを拒否し、そのため岩礁に砕かれ、もしくは船同士の衝突で艦隊が幾度も壊滅状態になっている。
第一次ポエニ戦争中に「コルウス」は使用されなくなったが、それはコルウスの動きによって重心が移動し船を不安定にさせ海難事故の多発原因の一つに挙げられた事と、兵士移動の際の危険性によるものである。既にカルタゴ海軍以上の錬度に達したからと言われる。事実、最後のアエガテス諸島沖の海戦で、カルタゴ海軍は完敗を喫した。
東ローマ帝国以降は二段櫂帆船にギリシア火を搭載したデュロモイを使用して制海権を握っていたが、徐々にヴェネツィア海軍に抑えられていき、首都コンスタンティノポリス周辺を補給路を確保する程度の戦力に落ちていった。
主要基地編集
参考文献編集
- エイドリアン・ゴールズワーシー 『古代ローマ軍団大百科』