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ワッツ・ミサカ

アメリカ合衆国のバスケットボール選手

ワタル・ミサカ: Wataru Misaka、日: 三阪 亙1923年12月21日 - )は、日系アメリカ人二世)の元バスケットボール選手。

ワタル・ミサカ
Wataru Misaka
Wat Misaka.jpg
引退
ポジション(現役時) PG
背番号(現役時) 15
身長(現役時) 170cm (5 ft 7 in)
体重(現役時) 68kg (150 lb)
基本情報
愛称 Wat
Kilo Wat
ラテン文字 Wataru Misaka
日本語 三阪 亙
誕生日 (1923-12-21) 1923年12月21日(95歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ユタ州ウィーバー郡オグデン
ドラフト 1947 
選手経歴
1947-1948 ニューヨーク・ニックス
映像外部リンク
オバマ大統領による演説(2009年10月14日)
The President Observes Diwali - ホワイトハウス公式YOUTUBEチャンネル。動画内のメガネをかけた白髪・青シャツの人物がミサカ。アメリカに貢献した人物として称賛している。

なおニックネーム「Wat Misaka」の発音は「ワット・ミサカ」が正しい(右テンプレートの下にあるバラク・オバマアメリカ合衆国大統領の映像を参照)。日本では「ワッツ・ミサカ」として紹介され現在でも一部メディアで用いられているため、本表題でもそれに従う。

非白人のバスケットボール選手として史上初のNBA[注 1]プレーヤー[1][2]ポジションポイントガードユタ大学卒。

来歴編集

若年期編集

映像外部リンク
2010年の特集
  Wat Misaka - Weber State Basketball Legend - ウィーバー州立大学公式YOUTUBEチャンネル。この中で若年期時代を中心に語っている。

両親は広島県御調郡岩子島村(現尾道市向島町岩子島)出身[3]。父は1902年(明治35年)母は1922年(大正11年)にアメリカへ移民し結婚、ユタ州ウィーバー郡オグデンで理髪店「バーバー・ミサカ」を営んだ[3][4]。オグデンで3人の息子を産み、ワタル・ミサカはその長男[3]。幼い頃は兄弟と様々なスポーツを楽しんだ[3]。当時から日本語を話すことはあまりなかった[5]

1939年、父が死去する[6]。以降、父の代わりとして兄弟の面倒を見、母に経済的な負担をかけない進路をとる[6]。本格的にバスケをやりだしたのもこの頃である[7]。地元オグデン高校英語版では1940年ユタ州の大会で優勝し、1941年ウィーバーカレッジ[注 2]に進学すると2度カンファレンス優勝し大会優秀選手に選出された[7][8]

当時第二次世界大戦中で、1941年12月日本による真珠湾攻撃から日米間での本格的な戦争が始まると日系人は全米で虐げられていき、1942年から日系人の強制収容が始まったが、ユタ州はその中でも比較的寛大な方だった[注 3]ことから、ミサカ自身アメリカ兵の友人を持ちウィーバーカレッジでバスケをするという幸運に恵まれた[5][10]。当時の地元紙でウィーバーの「Wat Misaka」の活躍が報道されている(右の動画参照)。1943年春にカレッジを卒業する[5]

ユタ大/兵役編集

1943年3年生からユタ大学に編入する[5][6]と、守備の名手としてならした[7]。1944年ユタ大はナショナル・インビテーション・トーナメント (NIT) に出場するも初戦のケンタッキー大学相手に敗れてしまう[注 4][11]。ちょうどその時交通事故の影響で出場辞退したアーカンソー大学の代替としてNCAA男子バスケットボールトーナメント出場を果たすと、下馬評を覆し優勝を飾った[注 5][11]。当時ミサカはシックスマン[2][12]マディソン・スクエア・ガーデンでの決勝対ダートマス大学戦の活躍を目にしたスポーツライターは「"Kilo Wat" Misaka」("キロワット"ミサカ)[注 6] と名付けた[13]

NCAA優勝から故郷へ帰ると、アメリカ軍から召集令状が届いていることを知る[5][14]。1944年6月アメリカ陸軍入隊[2][14]アメリカ陸軍情報部日系語学兵となり[15]、同年8月ミネソタ州ミネアポリススネリング砦英語版内にあった日本語学校[注 7]に入校、約9ヶ月間学ぶ[5][8][16]フィリピンマニラの基地に配属が決定し移動途中の航海上で、1945年9月2日終戦を迎える[5]。フィリピンではルソン島捕虜収容所で尋問任務についた[注 8][5]。後に連合国翻訳通訳部英語版での任務となり日本に移動、同年11月横田基地に配属され米国戦略爆撃調査団戦意調査部で翻訳通訳担当となった[5][16]。その最初の仕事が両親の故郷である広島県での、広島市への原子爆弾投下後の現地調査[注 9]だった[8][17]。広島で1週間、次に山口県萩市で1週間現地調査を行い、その後は東京で半年ほど任務についた[5][16]。この際広島市内に住む叔父家族、両親の故郷岩子島を訪ねている[5][17][18]

1946年9月、2年間の兵役を終えユタ大学に復学する[12]。徐々にスターターに定着していくと、1947年3月NITでも優勝を飾る[注 10][12]。決勝対ケンタッキー大学戦では相手のエースラルフ・ベアード英語版[注 11]をマークし1得点に抑え勝利に貢献した[12]。なおNCAAとNITで優勝した日系人はミサカ以外にはいない[19]

ニックス編集

1946年に創立したBAA[注 1](後のNBA)は大学バスケよりも知名度が低くスターを欲していた[20]。そこでNCAAとNITで優勝し知名度があったミサカに白羽の矢を立つことになった[20]

1947年7月1日、BAA史上初めて行われたカレッジドラフトで、ニューヨーク・ニッカーボッカーズ(現ニューヨーク・ニックス)が指名する[注 12]。なおニックスのドラフト1巡目はディック・ホルブ英語版で、ミサカはその他にドラフト指名された9人のうちの一人[21]。ニックスのネッド・アイリッシュ英語版球団社長は契約のためユタ州に訪れ、州最大のホテルの一室でミサカと交渉した[22]。ミサカはすぐに入団を決め契約、ニックスにおけるその年のドラフト組の契約第1号となった[22]。非白人として史上初のNBA入りした選手[22]となり、ユタ大出身としては初めてNBA入りした選手となった。契約金は3,000ドル[注 13][20]。背番号は"15"[22]。この時点でもアメリカと日本の二重国籍を有していた[22]

日付 対戦 G F P 勝敗
1 11.13 WSC H 1 0 2
2 11.15 STB H 出場なし
3 11.18 PRO A 2 1 5
4 11.19 CHS H 0 0 0
5 11.20 BLB A 出場なし
6 11.22 PHW H 出場なし
11.24 解雇
7 11.25 BOS A -
G:フィールドゴール、F:フリースロー
P:得点、H:ホーム、A:アウェー

ジョー・ラプチック英語版監督のもと、開幕までに練習試合が組まれ、開幕ベンチ入り12人の選手枠にも残った[24]が、出場機会は徐々に減らされていった[25]。ミサカのポジションであるガードの選手が過多だったのも災いした[26]。ニューヨークのメディア各紙では、ミサカの人気より得点能力の低さを問題視された[24]

1947-1948シーズンのBAA開幕戦に途中出場、第3節のプロビデンス・スチームローラーズ英語版戦では5得点をあげたが、更に出場機会が減っていき、第5節以降は出番がなかった[26]。チームは開幕から3連勝を飾るものの、その後3連敗を喫した[27]。そこへチームが選手補強するため過多だったガードから選手を削ることとなり、同年11月24日アイリッシュ球団社長から解雇を言い渡された[24][26][28]。一部メディアでは、ラプチック監督が戦後日系人に対してよく思っていなかったためとする報道もある[23]

直後ハーレム・グローブトロッターズ[注 14]からオファーがあったがこれを断り、以降バスケからは引退した[2][22]

BAA通算で3試合7得点[29]。開幕戦からの出場記録[27]は、右表のとおり。

以降編集

映像外部リンク
2010年現在のインタビュー
  Wat Misaka Interview - 全米日系人博物館公式YOUTUBEチャンネル。

ニックスとの契約金を使って再びユタ大学に復学し機械工学の学士を取得、1948年6月に卒業した[1][2][24]。それからはユタ州ソルトレイクシティにあったスペリー社でミサイル制御システム設計担当として勤務した[2][28][30]

1999年、ユタ州のスポーツ殿堂に選出される[8]。2000年には全米日系人博物館で企画展が開催された[2]。 2008年には、ドキュメンタリー映画が制作された[1][10]

スタッツ編集

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
1947-48 NYK 3 .231 .333 0.0 0.0 2.3
略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック   TO  平均ターンオーバー  PPG  平均得点
 太字  キャリアハイ    リーグリーダー    優勝シーズン

備考編集

脚注編集

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注釈
  1. ^ a b 当時はBAA(Basketball Association of America)。
  2. ^ 当時はユニバーシティ・カレッジで現ウィーバー州立大学英語版
  3. ^ ユタ州は全米で迫害されたモルモン教徒が多く、そのことから日系人にシンパシーを感じていたため[9]。1942年9月ユタ州にトパーズ強制収容所ができるが、ユタ州の日系人ではなく西海岸の州から送られてきた人が収容された[9]
  4. ^ en:1944 National Invitation Tournament参照。
  5. ^ en:1944 NCAA Men's Division I Basketball Tournament参照。
  6. ^ 電力の単位であるキロワット(kilo Watt)と掛けたもの。
  7. ^ アメリカ国防総省語学学校日本語学部 。当時日系人はここと第100歩兵大隊第442連隊戦闘団の3つにほぼ配属された。詳細はen:Japanese American service in World War II参照。
  8. ^ ミサカはマニラ軍事裁判の内容をはっきりと知らず処刑も見ていないと証言している[5]
  9. ^ この時の聞き取り調査の資料は現在広島平和記念資料館に残っている[15]
  10. ^ en:1947 National Invitation Tournament参照。
  11. ^ 1948年ロンドンオリンピックのバスケットボール競技金メダリスト。
  12. ^ 当時は地域別で優先的にドラフト指名できる権利を持ち、ユタ州はニックスの管轄だった[20]
  13. ^ 当時の工学系大卒1年目の年収と同程度[23]
  14. ^ 当時は現在のような娯楽性を追求したチームではなく、真剣に勝利を目指していた非白人系のチーム。詳細は当該チームの歴史項を参照。
出典
  1. ^ a b c Vecsey, George (2009年8月11日). “Pioneering Knick Returns to Garden” (英語). ニューヨーク・タイムズ: p. B-9. http://www.nytimes.com/2009/08/11/sports/basketball/11vecsey.html?hp 2013年3月2日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g Robbins, Liz (2005年1月5日). “Size 7 Sneakers Are Still Hard to Fill” (英語). ニューヨーク・タイムズ. http://www.nytimes.com/2005/01/05/sports/basketball/05misaka.html?_r=0 2013年3月10日閲覧。 
  3. ^ a b c d 父の影響? 球技に熱中”. 中国新聞 (2006年3月22日). 2013年3月2日閲覧。
  4. ^ 物静かさに気骨秘める”. 中国新聞 (2006年3月25日). 2013年3月3日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l Interview of Wataru Misaka (PDF)” (英語). KUED Channel 7. 2013年3月10日閲覧。
  6. ^ a b c 「米に残る」 はっきり主張”. 中国新聞 (2006年3月23日). 2013年3月2日閲覧。
  7. ^ a b c 高校・大学 常に優勝経験 ”. 中国新聞 (2006年3月24日). 2013年3月2日閲覧。
  8. ^ a b c d Nielsen, Chad (2010年). “That’s Just How It Was” (英語). Continuum. 2013年3月2日閲覧。
  9. ^ a b ユタ州における日系人の歴史”. 在デンバー日本国総領事館. 2013年3月2日閲覧。
  10. ^ a b Chappell, Bill (2012年2月15日). “Pro Basketball's First Asian-American Player Looks At Lin, And Applauds” (英語). NPR. http://www.npr.org/blogs/thetwo-way/2012/02/15/146888834/pro-basketballs-first-asian-american-player-looks-at-lin-and-applauds 2013年3月5日閲覧。 
  11. ^ a b 代替出場で全米を制す”. 中国新聞 (2006年3月26日). 2013年3月2日閲覧。
  12. ^ a b c d 大役に奮起 栄冠つかむ”. 中国新聞 (2006年4月22日). 2013年3月2日閲覧。
  13. ^ Rock, Brad (2012年2月15日). “Utah's Wat Misaka tracks 'Linsanity' with interest” (英語). Deseret News. 2013年3月5日閲覧。
  14. ^ a b 揺れる心抑え米軍入隊”. 中国新聞 (2006年4月18日). 2013年3月2日閲覧。
  15. ^ a b 米の日系語学兵が面接 1945年12月 広島の被爆者調査”. 中国新聞 (2010年1月8日). 2013年3月28日閲覧。
  16. ^ a b c 日本語学ぶ合間も球技”. 中国新聞 (2006年4月19日). 2013年3月2日閲覧。
  17. ^ a b 市民の悲しみ聞き取る”. 中国新聞 (2006年4月20日). 2013年3月2日閲覧。
  18. ^ 「古里」で深めた きずな”. 中国新聞 (2006年4月21日). 2013年3月10日閲覧。
  19. ^ NYファン 拍手と歓声”. 中国新聞 (2006年4月23日). 2013年3月2日閲覧。
  20. ^ a b c d プロから誘い 入団即決”. 中国新聞 (2006年5月16日). 2013年3月2日閲覧。
  21. ^ 1947 BAA Draft” (英語). Basketball-Reference.com. 2013年3月4日閲覧。
  22. ^ a b c d e f 白人以外 初のプロ選手”. 中国新聞 (2006年3月21日). 2013年3月7日閲覧。
  23. ^ a b 後輩の田臥にエール/NBA初の日系二世選手”. 東奥日報 (2004年11月18日). 2013年3月28日閲覧。
  24. ^ a b c d 厳しい評価 競技と決別”. 中国新聞 (2006年5月19日). 2013年3月2日閲覧。
  25. ^ 期待と注目 一身に受け”. 中国新聞 (2006年5月17日). 2013年3月2日閲覧。
  26. ^ a b c 開幕1ヵ月 無情の解雇”. 中国新聞 (2006年5月18日). 2013年3月2日閲覧。
  27. ^ a b 1947-48 New York Knicks Schedule and Results” (英語). Basketball-Reference.com. 2013年3月10日閲覧。
  28. ^ a b Wertheim, Jon (2012年2月11日). “Decades before Lin's rise, Misaka made history for Asian-Americans” (英語). Sports Illustrated.. 2013年3月2日閲覧。
  29. ^ a b 不遇時代に勇気与える”. 中国新聞 (2006年5月20日). 2013年3月2日閲覧。
  30. ^ 世話好き 周囲まとめる”. 中国新聞 (2006年6月8日). 2013年3月2日閲覧。

参考資料編集

関連項目編集

外部リンク編集