ヴァシリコ・ヤロポルコヴィチ

ヴァシリコ・ヤロポルコヴィチロシア語: Василько Ярополкович12世紀後半)はリューリク朝出身の公(クニャージ)である。

キエフ大公ヤロポルクシュムスク公ヤロポルク、またヴォルィーニ公アンドレイの子のヤロポルク、キエフ大公ムスチスラフ(ムスチスラフ1世)の子のヤロポルク(ru)らが、ヴァシリコの父として推定されているが、いずれも断定はできない。また、史料上に残るヴァシリコは同名の二人の人物が同一視されているとする説もある。

ヴァシリコに関する史料上の初出は、1151年のヴォルィーニ公イジャスラフガーリチ公ウラジーミルとの闘争(参照:ルーシ内戦 (1146年 - 1154年))に関する記述である。このとき、イジャスラフは、ペレソプニツァに滞陣していたアンドレイ(ボゴリュブスキー。後のウラジーミル大公。)を味方に引き入れる使者として、ヴァシリコを派遣している[1]

1165年、ヴァシリコはローシ川ポロヴェツ族を破った[2]。なお、このヴァシリコに関しては、シュムスク公ヤロポルクの一人目の妻の子とする説がある[2]。また、1167年春には、キエフ大公ムスチスラフ(ムスチスラフ2世。ヴァシリコがシュムスク公ヤロポルクの子であるならば、ムスチスラフの甥となる。)の命によって、キエフの管理についている[3]。しかし1171年にはキエフ大公グレプと、グレプと結んだポロヴェツ族に敗れた。このときヴァシリコが所領としていたミハイロフは焼かれ、ヴァシリコはチェルニゴフへと追いやられた[4]。なお、V.タチシチェフ(ru)の説では、その後ヴァシリコはベレスチエとドロギチン(ru)を受領したとされる。また、L.ヴォイトヴィチの説では、ヴァシリコは1168 - 1180年間にシュムスク公位、1180 - 1182年間にドロギチン公位にあったとしている。

妻子に関しても諸説あるが、詳細は不確定である。例えば、N.バウムガルテン(ru)、L.ヴォイトヴィチ等は、ポーランド大公ボレスワフ4世の娘を妻としたとみなしているが、D.ドンブロフスキはこの説を否定している。

出典 編集

  1. ^ 中澤ら 2016, p. 351.
  2. ^ a b 中澤ら 2017, p. 248.
  3. ^ 中澤ら 2017, p. 262.
  4. ^ 中澤ら 2017, p. 289.

参考文献 編集

  • Литвина А. Ф., Успенский Ф. Б. Выбор имени у русских князей в X—XVI вв. Династическая история сквозь призму антропонимики. — М.: Индрик, 2006. — С. 109—110.
  • Домбровский Д. Генеалогия Мстиславичей. Первые поколения (до начала XIV в.) / Пер. с польского и вступ. слово к рус. изд. К. Ю. Ерусалимского и О. А. Остапчук. — СПб.: ДМИТРИЙ БУЛАНИН, 2015. — С. 702—710.
  • 中澤敦夫, 吉田俊則, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(4) : 『キエフ年代記集成』(1149~1151年)」『富山大学人文学部紀要』第64巻、富山大学人文学部、2016年2月、321-372頁、CRID 1390009224806493184doi:10.15099/00015126hdl:10110/00015126ISSN 03865975 
  • 中澤敦夫, 吉田俊則, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(6) : 『キエフ年代記集成』(1159~1172年)」『富山大学人文学部紀要』第66巻、富山大学人文学部、2017年2月、191-296頁、CRID 1390290699784656000doi:10.15099/00016851hdl:10110/00016851ISSN 03865975