ヴァンサン・オリオール

ジュール=ヴァンサン・オリオール(フランス語:Jules-Vincent Auriol1884年8月27日1966年1月1日)は、フランス政治家、弁護士、ジャーナリスト。第16代フランス大統領(在任: 1947年1月16日 - 1954年1月16日)。

ヴァンサン・オリオール
Vincent Auriol
VincentAuriol.png

任期 1947年1月16日1954年1月16日
首相 ポール・ラマディエ
ロベール・シューマン
アンドレ・マリー
ロベール・シューマン
アンリ・クイユ
ジョルジュ・ビドー
アンリ・クイユ
ルネ・プレヴァン
アンリ・クイユ
ルネ・プレヴァン
エドガール・フォール
アントワーヌ・ピネー
ルネ・マイエール
ジョゼフ・ラニエル

出生 1877年8月27日
Flag of France (1794–1815, 1830–1958).svg フランス オート=ガロンヌ県ルヴェル
死去 (1966-01-01) 1966年1月1日(81歳没)
フランスの旗 フランス パリ
政党 社会党(SFIO)
出身校 トゥールーズ大学
配偶者 ミシェル・オクチュリエ(1896 – 1979)
子女 1人
署名 Signature de Vincent Auriol - Archives nationales (France).png

生い立ち及び初期の経歴編集

1884年8月27日にオート=ガロンヌ県ルヴェルにて、肉屋の息子として誕生する。ルヴェル・カレッジで法律を学び、1904年にツールーズで弁護士を開業する。この間社会主義者となり、『ル・ミディ・ソシアリスト(社会主義者の南仏)』(Le Midi Socialist紙)の共同設立者となる。これが1908年のことで、この時点でオリオールは、トゥルーズのジャーナリスト協会の会長となっていた。

1914年にミュレから下院議員に立候補し当選する。以後、1940年まで下院議員。1925年にはミュレ市長に選出され、1946年まで務める。1928年にオート=ガロンヌ県議会議員に選出される。統一社会党分裂後、新たな社会党(旧社会党)の創設に参加し、党スポークスマンや財務を担当した。1924年に代議院財務委員長を経て、1936年にレオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣で財務大臣として初入閣する。蔵相となったオリオールはドルに対してフランを30パーセント切り下げたが、一層の経済不安となった。ブルムはフランの切り下げと産業統制を主張したが、1937年6月に急進社会党カミーユ・ショータンと首相を交代する。オリオールはショータン内閣の法相、1938年にブルムによる第二次人民戦線内閣でコンセイユ・デタ(国務院)調整相を短期間務めるが、同年4月にエドゥアール・ダラディエの急進社会党内閣が成立し、オリオールは閣僚を辞した。

第二次世界大戦が勃発し、フランスはナチス・ドイツに敗北し占領される。1940年7月10日にヴィシー国民議会が開催され、フィリップ・ペタン元帥に全権を付与するが、オリオールは反対票を投じ、一年余り自宅軟禁に置かれる。1942年10月に脱出に成功し、レジスタンス運動に参加する。1943年10月にはロンドンへ亡命し、シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスに参加、国民解放フランス委員会の社会党代表に選出された。1944年7月アメリカ・ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開催された国連通貨金融会議のフランス代表としてアメリカに渡り、ブレトン・ウッズ協定を締結した。

第四共和政成立と大統領就任編集

 
アメリカのトルーマン大統領と(1951年)

ド・ゴールを首班とする臨時政府国務大臣として入閣する。オリオールは戦後、第四共和制発足に当たり、憲法制定議会で議長に選出された。オリオールは、ド・ゴール派フランス共産党の間にあって「第三勢力」の結集に動いた。1946年に国際連合が発足すると、オリオールは初代フランス国連代表となった。同年の総選挙でオート=ガロンヌ県から国民議会議員に選出され、1947年1月16日、ド・ゴール派・人民共和運動オーギュスト・シャンプティエ・ド・リブを452票対242票で下し、第16代フランス大統領に選出された。

第四共和制における大統領は、第三共和制におけるよりも権限が縮小され、対外的にフランスを代表する権限・法律審査権・国会で採択された法律に対する再審請求権を保有するに留まった。もっともオリオール自身はフランスの国家元首として、フランスと友好国の関係をより親密なものにしようと試みた。

一方、内政面では戦後・混乱からなかなか抜け出せずに疲弊した経済と政治的混乱、さらにインドシナ戦争に関して責任を問われた。特に終戦直後、経済は苦境から脱することができず、1947年には各地で食糧暴動が発生した。共産党系の最大労組である労働総同盟(Confédération générale du travail、CGT)もストライキに突入した。ストライキは11月に暴動に発展しポール・ラマディエ首相と同内閣に閣内協力していたフランス共産党は全面対決の様相を呈し、共産党閣僚は更迭され、12月にストは収拾された。

インドシナ戦争を別にしても、フランス植民地帝国はオリオールの在任中に縮小の一途をたどった。モロッコ、マダガスカル、アルジェリアとチュニジアでは、より頻繁に衝突が激化していった。1953年にオリオールは演説の中で「私は風前の灯の国家の惨めな長であると感じている」と語った。1954年に大統領の任期が終了し、退任。後任には上院副議長のルネ・コティが就任した。

大統領退任後は長老政治家として、折に触れ政治評論を執筆したほか、第五共和制が成立すると憲法評議会議員に就任した。これに伴い旧社会党の党籍を離れている。1965年の大統領選挙ではフランソワ・ミッテランを支持した。

関連項目編集

外部リンク編集

先代:
マルセル・レニエ
  大蔵大臣・財務大臣
1936年6月4日 - 1937年6月21日
次代:
ジョルジュ・ボネ
先代:
マルク・リュカール
  フランス法相
1937年6月29日 - 1938年1月14日
次代:
セザール・カンパンシ
先代:
コンセイユ・デタ(国務院)調整相
1938年3月13日 - 1938年4月10日
次代:
先代:
フェリックス・グアン
  フランス国民議会議長
1946年1月31日 - 1947年1月21日
次代:
エドゥアール・エリオ
先代:
レオン・ブルム(臨時政府議長)
  フランス大統領
第16代:1947年1月16日 – 1954年1月16日
次代:
ルネ・コティ