一刀正伝無刀流

日本の剣術流派

一刀正傳無刀流(いっとうしょうでんむとうりゅう)は、明治時代初期に山岡鉄舟が開いた一刀流流派の一つである。

一刀正伝無刀流
いっとうしょうでんむとうりゅう
開祖・山岡鉄舟
開祖・山岡鉄舟
使用武器 日本刀
発生国 日本の旗 日本
発生年 明治時代
創始者 山岡鉄舟
源流 一刀流
主要技術 剣術
公式サイト 一刀正傳無刀流兵法ホームページ
テンプレートを表示

歴史 編集

開祖・山岡鉄舟は、江戸時代末期(幕末)に久須美閑適斎から神陰流井上清虎から北辰一刀流を学び講武所で剣術を修行した。その後、中西派一刀流小野派一刀流などの一刀流各派を学び、明治18年(1885年)に一刀流小野家第9代の小野業雄から伊藤一刀斎以来小野宗家に伝来した一刀流正統の証である瓶割刀朱引太刀卍印を引継いだ。嫡伝を得た山岡は一刀流の原点である伊藤一刀斎の流儀をそのまま継承するという意を込め、自己の開いた無刀流に「一刀正傳」の四文字を冠した[1]

明治28年(1895年)、大日本武徳会主催の第1回武徳祭大演武会精錬証を授与された15名の剣道家のうち、2名が無刀流の門人であった(香川善治郎小南易知)。

山岡没後、山岡に付き従っていた香川善治郎が二代目として無刀流を受け継ぎ、香川から無刀流を学んだ石川龍三が三代目となった。無刀流の理念に賛意を表した教育者の北条時敬は、石川を第四高等学校剣道部師範に迎えた。その後も赴任先の広島高等師範学校剣道部に中島春海香川善治郎及び藤里新吉を、東北帝国大学剣道部に柳多元治郎を師範として迎え、無刀流剣道を奨励した。また、大正時代に大日本武徳会副会長兼武道専門学校校長を務めた西久保弘道は山岡に私淑し、その教育や剣道指導は無刀流の影響が大きかった。

十代の頃から山岡の高弟小南易知に無刀流を学び、後に香川、石川から教えを受けた草鹿龍之介が四代目となる[2]。草鹿は日本海軍軍人でその用兵にも無刀流の奥義である「攻撃は充分なる調査をし精密なる計画の下、切り下ろす一刀の下に集中すべきなり」という思想を取り入れていた[3]

草鹿の実弟の紹介で弟子入りした石田和外太平洋戦争後、五代目となる。戦前に三代目石川に戦後は四代目草鹿に無刀流を学んだ村上康正が六代目となる。五代目石田から無刀流を学んだ井﨑武廣が七代目を務める[2]

稽古法 編集

形稽古竹刀稽古を行なう。形稽古は木刀を用い、打太刀は大籠手もしくは略籠手という厚い籠手を装着する。竹刀稽古は両者が防具を着用し、32の短く重い竹刀で打ち合う。 当流において"組太刀"は、徳川家時代の御留流であった頃には"御組太刀"と呼ばれていた。一般的には型稽古と呼ばれるが現代剣道とは全く異なり、あくまで祖師一刀斎が実践において用い、勝利した太刀である。"型どおりではない"、真剣または木刀による太刀筋であり、真剣勝負を前提にしていない型や"演劇のための"タテ"と呼ばれるものとは、明らかに異なる。その妙諦は歩数と間合に明確である。

打ち込みは一般的な剣道に比べて強烈であり、大日本武徳会の幹部渡辺昇が「山岡流のごとき薪割り剣術は痛くてを損なう恐れがある。学生の体育上よろしくない」と苦言を呈したエピソードもある[4]

山岡鉄舟の道場春風館では、一人が7日間で1400回の試合をする「立ち切り(誓願)」という非常に過酷な稽古が行なわれていた。また、山岡が剣一如の境地に達していたことから、精神修養を重んじていることも特徴である。

歴代宗家 編集

一刀正傳無刀流を学んだ人物 編集

脚注 編集

  1. ^ 日本古武道協会 1989 p.61-62
  2. ^ a b 一刀正傳無刀流兵法ホームページ
  3. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦p583
  4. ^ 堂本昭彦『明治撃剣家 春風館立ち切り誓願』278-279頁、徳間文庫
  5. ^ 堂本昭彦『明治撃剣家 風のごとく発す』43頁、徳間文庫
  6. ^ 堂本昭彦『高野佐三郎剣道遺稿集』、スキージャーナル

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集