一紙小消息(いっしこしょうそく)とは、「黒田の聖人へつかはす御文(おんふみ)」の名で伝えられる法然法語。小消息と称して尊重される。安心起行(浄土の信仰の実践と心の安らぎ)を明らかにする上で最も要を尽くしたものである[1]

法然が黒田の聖人に宛てた消息(手紙)であり、『黒谷上人語灯録.和語灯録』『勅修御伝』などに収録されている[2][1]。 黒田の聖人が誰であるかは不詳であり、重源とする説や、その門弟の行賢とする説がある。

「黒田の聖人へつかはす御文」全文編集

末代衆生を、往生極楽の機(き)にあててみるに、行(ぎょう)すくなしとてうたがふべからず。一念十念にたりぬべし。
罪人なりとてもうたがふべからず、罪根ふかきをもきらはず。
時くだれりとてうたがふべからず、法滅已後(いご)の衆生なを往生すべし、いはんやこのごろをや。
わが身わろしとてうたがふべからず、自身はこれ煩悩具足せる凡夫(ぼんぶ)なりといへり。
十方に浄土おほけれども、西方をねがふは、十悪五逆の衆生もむまるるゆへ也(なり)[3]
諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは、三念五念にいたるまで、みづから来(きた)りてむかへ給(たま)ふがゆへ也(なり)。
諸行の中に念仏をもちゆるは、かのほとけの本願なるがゆへ也(なり)。
いま弥陀の本願に乗(じょう)じて往生してんには、願(がん)として成(じょう)ぜずと云う事あるべからず。
本願に乗(じょう)ずる事は、ただ信心(しんじん)のふかきによるべし。
うけがたき人身(にんじん)をうけて、あひがたき本願にあひて、をこしがたき道心(どうしん)ををこして、
はなれがたき輪廻(りんゑ)のさとをはなれて、むまれがたき浄土に往生せん事は、よろこびの中のよろこび也(なり)。
つみをば十悪五逆のもの、なをむまると信じて、小罪(しょうざい)をもをかさじとおもふべし。
罪人なをむまる、いかにいはんや善人をや。行(ぎょう)は一念十念むなしからずと信じて、無間(むけん)に修(しゅ)すべし。
一念なをむまる、いかにいはんや多念をや。阿弥陀仏は、不取正覚の詞(ことば)を成就して、現(げん)にかのくににましませば、さだめていのちをはらん時には来迎(らいこう)し給はんずらん。
釈尊はよきかなや、わがをしへにしたがひて生死(しょうじ)をはなれんとすと知見し給(たま)ふらん。
六方の諸仏はよろこばしきかな、われらが証誠(しょうじょう)を信じて、不退の浄土に往生せんとすとよろこび給(たま)ふらんと。
天にあふぎ地にふして、よろこぶべし、このたび弥陀の本願にあへる事を。
行住坐臥にも報(ほう)ずべし、かのほとけの恩徳(おんどく)を。
たのみてもなをたのむべきは乃至(ないし)十念の詞(ことば)。
信じてもなを信ずべきは必得(ひっとく)往生(おうじょう)の文(もん)なり。[4]

脚注編集

  1. ^ a b 『国訳大蔵経 : 昭和新纂. 宗典部 第3巻』p.201
  2. ^ 『法然上人全集』p.458
  3. ^ 「むまるる」は「生まれる」と同じ。浄土に生まれる、往生するの意。
  4. ^ 『法然上人全集』pp.457-458。

参考文献編集

関連項目編集