万寿地震

平安時代に山陰地方石見国で発生したと伝わる地震、大津波

万寿地震(まんじゅじしん)は、平安時代山陰地方石見国で発生したと伝わる地震、大津波である。万寿の大津波(まんじゅのおおつなみ)とも呼ばれる。

地震で海没したと伝わる鴨島の想像図

従来の日本の地震史や津波史などにも記載されておらず[1][2]、信憑性の低い史料や口碑による歴史地震とされてきたが[3]、史料の収集[4]や水中考古学調査などが進行しつつある[5]

地震津波の記録 編集

郷土史家矢富熊一郎の著書『柿本人麻呂と鴨山』によれば万寿3年5月23日の下刻(ユリウス暦1026年6月10日22-23時頃、グレゴリオ暦1026年6月16日)、高津沖の石見潟が一大鳴動と共に鴨島が水中に没し、大津波が襲来したという。『翁小助問答記』には遠田に柏島と呼ばれる名島があり、鴨島と共に四海波によって打ち崩されたとある。

この大津波によって、高津川河口付近が特に大きな打撃を被り河口から約16km離れた寺垣内まで津波が遡上し、高津、中ノ島、中須の諸海岸が甚大被害であった。専福・安福・福王・妙福・蔵福のいわゆる五福寺はこの津波に押し流され潰滅に帰したという[4][6]。津波被害は東は現・江津市黒松町付近から、西は現・萩市須佐付近に及ぶという[7]。この津波の伝承は島根県大田市から益田市まで分布しており、「小鯛ヶ迫」、「舟超坂」、「鯨坂」など船や鯨などの打上げを示唆するような地名も存在する[8]

『石見八重葎』には、江田(現・江津市)付近の伝説として「万寿三年丙寅五月二十三日、古今の大変に長田千軒、此江津今の古江と申す所なり。民家五百軒余、寺社共に打崩す云々。」とある。また現・益田市遠田においては大津波が砂丘を崩して遠田八幡宮の社殿を倒壊、押流し、下遠の郷を浚い、中遠田の山野、草原を洗って貝崎に迫り南進して上遠田、黒石、滑堤の堤防まで押し迫り、引潮の際、低地住民の資材はことごとく流失した[6]

伝承や津波碑の碑文よる津波到達点の標高から、各地の津波遡上高が推定されている[9]

津波の被害状況
地域 推定波高・遡上高
伝承 遡上高[10]
持石 現・益田市高津町 神石が流された 18m
松崎 現・益田市高津町 人麻呂の木像が流れ着いた 23m
安富 現・益田市安富町 >16.2m
護宝寺 現・益田市横田町 護宝寺が流された 22m
船ヶ溢 現・益田市横田町 船が漂着した 21m
遠田八幡宮 現・益田市遠田町 砂丘は崩れ社殿が押流された『柿本人麻呂と鴨山』 10-12m
貝崎 現・益田市遠田町 水田に津波が到達した 22m
黒岩 現・益田市遠田町 津波石 25m
二艘船 現・益田市木部町 二艘の船が打ち上げられた 12.2m

調査・研究 編集

この地震、津波によって益田沖の鴨島、鍋島および柏島が沈んだと伝わり、島の沈没伝説がある地震としては他に701年大宝地震、1586年天正地震、1596年慶長豊後地震および1771年八重山地震などがある。マグニチュードはこれら沈没伝説のある地震の規模に匹敵するものと考えられ、少なくとも1871年浜田地震よりは大規模で M = 7.5 - 7.8 程度、震央は(北緯34.8°, 東経131.8°)の益田沖であろうと推定されている[7]

周布・長浜・浜田付近では津波に関する口碑が確認されず、その東西に位置する、東方の下府・都野津から黒松の沿岸および西方の高津から三隅までは著しい津波の伝承が存在し、浜田付近の隆起とその両側である高津および黒松付近の沈降を示唆し、この隆起沈降の地殻変動パターンは浜田地震に類似するとされる[7]

今村飯田の津波規模で m = 3 と推定され、日本海で発生した津波としては最大級に属するとされる[7]

益田平野トレンチ調査から、河成堆積物や湿地堆積物の間に挟まれた津波堆積物と推定される砂を含む荷重変形構造を示す堆積物が見いだされた。この堆積物の放射性炭素年代測定は930±80y.B.P.(1020年頃)を示し、万寿津波の存在を示すものとされる[11][12]

益田川河口約1km沖の浅瀬である大瀬が鴨島の跡であると仮定され、鴨島遺跡学術調査として海底潜水調査が行われ、水深は最浅部で4m程であり、新第三紀中新統・益田層群の砂岩泥岩と北東-南西方向をなす玄武岩脈の分布が確認され、あるいは半島の痕跡の可能性があると推測されたが、鴨島跡と断定できないとされた[9][13]

関連項目 編集

参考文献 編集

  1. ^ 震災予防調査会編 『大日本地震史料』 丸善、1904年
  2. ^ 武者金吉 『日本地震史料』 毎日新聞社、1951年
  3. ^ 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
  4. ^ a b 東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』 日本電気協会、1981年
  5. ^ 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年
  6. ^ a b 矢富熊一郎 『柿本人麻呂と鴨山』 益田郷土史矢富会、1964年
  7. ^ a b c d 飯田汲事(1979) 「歴史地震の研究(2) 万寿3年5月23日(1026年6月16日)の地震および津波の災害について」愛知工業大学研究報告. B, 専門関係論文集, 1979年 14, 199-206, hdl:11133/496
  8. ^ 児島秀行(2012) (PDF) 児島秀行(2012): 津波研究会の概要、島根県技術士会
  9. ^ a b 加藤芳郎(2012) (PDF) 加藤芳郎(2012): 益田を襲った万寿3年の大津波、島根県技術士会、山陰防災フォーラム・2012年春の講演会
  10. ^ 都司嘉宣, 加藤健二(1995): 万寿石見津波の浸水高の現地調査, 鴨島学術調査最終報告書 -柿本人麿伝承と万寿地震津波-、鴨島伝承総合学術調査団, 42-57.
  11. ^ 中田高、後藤秀昭、箕浦幸治、松田時彦、日野貴之、加藤健二、松井孝典(1993): 「益田市における万寿3年大津波の地形学的研究」地理科学 1993年 48巻 3号 p.227-, doi:10.20630/chirikagaku.48.3_227_1, NAID 110002960368
  12. ^ 箕浦幸治、中田高、松井寺典(1993) 「454.万寿津波の痕跡日本地質学会学術大会講演要旨 第100年学術大会(93東京) 684-, NAID 110003035408
  13. ^ 池田碩(1979) 「島根県益田沖の海底地形」 奈良大学紀要、1979年 第8巻、p.48-59, ISSN 0389-2204