三宅 治忠(みやけ はるただ、天文7年(1538年)- 天正8年(1580年))は、安土桃山時代の武将。別所氏の家臣。肥前守、肥前入道を称す。
別所氏の家老。主君・別所長治の名代として別所吉親とともに加古川評定に出席するが、そのときの豊臣秀吉の態度に不満を抱き、長治に織田家から離反を勧めたとされる。三木城が落城した際には長治・友之兄弟の介錯を行った後、自らも自害して果てた[1]。
辞世は「君なくばうき身の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも」[1]
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