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三室戸敬光

三室戸 敬光(みむろど ゆきみつ、1873年5月18日 - 1956年10月31日)は、日本の華族明治法律学校(現:明治大学)卒業。子爵。1925年(大正14年)から貴族院議員(会派は研究会)に互選。宮中顧問官三室戸家9代当主。

 
三室戸 敬光
時代 明治時代前期 - 昭和時代中期
生誕 1873年5月18日
死没 1956年10月31日
官位 子爵貴族院議員・宮中顧問官
氏族 三室戸家
父母 父:三室戸治光、義父:三室戸和光
正室:昭子。子爵萩原員光豊国神社 (京都市)宮司)の娘
継室:富小路隆直の娘
為光(三室戸家10代当主)、富小路文光(富小路隆直の養子)、芳川三光(芳川寛治の婿養子)
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目次

年譜編集

栄典編集

昭和9年貴族院本会議編集

1934年(昭和9年)貴族院本会議菊池武夫らと逆賊足利尊氏を礼賛することは輔弼にあたる大臣の任に堪えないとして、内閣総理大臣斎藤実に「しかるべき措置」を取るべきと、商工大臣中島久万吉の「足利尊氏論」(雑誌「現代」所収)を逆賊賛美と攻撃した。議会の内外でも右翼の執拗な攻撃が続き、宮内省にも批判の投書が殺到したため、中島は商工大臣を辞任せざるを得なくなった。さらに中島の爵位辞退をも要求し、斎藤の政治責任を追及したが、中島は爵位は辞退しなかった。

この足利尊氏論に関わる一連の顛末は、政治に対する軍部の介入と右翼の台頭に勢いを与え、翌年の天皇機関説事件の要因ともなる。翌1935年(昭和10年)に起こったいわゆる天皇機関説問題に際して、菊池武夫とともに美濃部達吉を追求し辞職に追い込み、さらには国体明徴声明岡田内閣に出させている。

脚注編集

  1. ^ 三室戸敬光『人事興信録. 第8版(昭和3年)』pミ29
  2. ^ 国立音楽大学 沿革
  3. ^ 東邦音楽大学 沿革
  4. ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
  5. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

関連項目編集


日本の爵位
先代:
三室戸和光
子爵
三室戸家第3代
1922年 - 1947年
次代:
華族制度廃止