三尾正長

日本の江戸時代前期~中期の武士。阿波徳島藩家老蜂須賀玄寅長男で、蜂須賀山城守家3代当主。父の命により、三尾姓を名乗る

三尾 正長(みお まさなが、1654年7月14日承応3年6月1日) - 1713年11月19日正徳3年10月2日)は、江戸時代前期の徳島藩蜂須賀家の家臣。代々家老を務めた池田家(蜂須賀山城守)の第3代。幼名は竹麿。初名は正武。通称は官兵衛。号は豁悟。別名 池田正長。

父は徳島藩家老の蜂須賀玄寅(池田玄寅)。母は近江三井寺山内円満院坊官西坊(にしのぼう)家初代胤清(たねきよ)長女の亀(かめ)。子は徳島藩中老格の池田長亮

妻は近江滋賀郡錦織村字御所平屋敷(信天舎・藤の堂(ふじのどう)留守居秋岡勘右衛門の妹。享保15年(1730年)12月29日に徳島屋敷で。法号は実相院殿雪林貞寿大姉、葬は徳島の雲水庵(廃庵)。

生涯 編集

承応3年(1654年)、近江大津上大門町の西坊家屋敷で秘かに誕生する。寛文4年(1664年)、父の玄寅と対面し、三尾氏と称す。寛文6年(1666年)8月には義兄の興龍とも対面し、寛文10年(1670年)に阿波元服した。延宝2年(1674年)10月15日、薙髪して豁悟と号す。

延宝6年(1678年)4月、義兄の興龍が家老を辞任。池田家を離籍し、公族(藩主一門)に戻る。

元禄11年(1698年)、子の長亮が中老格となる。

赤穂事件(元禄14年3月14日 (旧暦)1701年4月21日)発生~元禄15年12月14日 (旧暦) 1703年1月30日)討入り)の中心人物、赤穂藩浅野家家老の大石内蔵助は、正長の従姉の池田熊子(父の玄寅の兄の池田由成の娘)の子にあたり、この頃に藩が改易され浪人していた内蔵助に対し、正長は資金援助をしている。

  • 内蔵助は正長に、吉良邸への討入前日12月13日付で手紙を書いている。永遠の別れを告げる「いとま乞い状」と呼ばれるものだ[1][2]

元禄16年(1703年)に近江滋賀郡錦織村字御所平に信天舎を構え、茅堂一宇を「藤の堂(ふじのどう)」と号し隠棲する。

正徳3年(1713年)10月10日に死去。法名は信天院殿豁悟無一大居士。藤の堂に葬られ、後に大津市の新光寺へ母の亀(法号は芳林院殿眞空妙心大姉)の墓と共に改葬された[3]

系譜 編集

池田恒利-池田信輝-池田之助-池田由之備前岡山藩初代家老

-池田玄寅阿波蜂須賀藩初代家老)=池田興龍(鎮辰)=正長-長亮-長甫=長好=長旨-長教=長興=昭訓-昌豊-登藤太郎……

関連項目 編集

参考文献 編集

  • 『赤穂義士史料(下巻)』雄山閣、1931年(昭和6年)。  近代デジタルライブラリー
  • 『池田家譜』(デジタル岡山大百科 岡山県立図書館 電子図書館システム)
  • 『池田家譜』池田博和 昭和56年(1981年)8月4日発行
  • 『西坊家譜』(1p)[5]西坊義信[6] 平成23年(2011年)9月
  • 『続西坊家口伝集』(4p)[5] 西坊義信[6] 平成22年(2010年)11月
    • 「先祖より聞き及んだ文言のとおりに記述しておりますので、文書としては整合しておりません」との断り書きあり。
      • 「玄寅の妹[7]は大石内蔵之助の母である」(4p)
      • 「大石内蔵之助が山科に隠棲していた理由は、従兄弟の正長[8]大津にいて、浅野家再興の政界工作をする為である」(4p)
  • 『西坊家口伝集続々』(5p)[5] 西坊義信[6] 平成27年(2015年)2月8日

外部リンク 編集

脚注 編集

  1. ^ 徳島新聞 2016年12月15日
  2. ^ 赤穂義士史料 下(1931)(245-246p 三尾谿悟宛 『義士遺墨所載』)
  3. ^ 新光寺には母の実家、西坊家歴代の墓がある
  4. ^ 呉服橋の蜂須賀飛騨守邸
  5. ^ a b c 大津市歴史博物館寄託資料より作成
  6. ^ a b c 西坊家11代当主
  7. ^ 実際は姪
  8. ^ 実際は内蔵助の母の従兄弟