三木 清(みき きよし、1897年1月5日 - 1945年9月26日)は、(西田左派を含めた上での)京都学派[1]哲学者法政大学文学部教授。戦時中に治安維持法違反で逮捕され獄死したが、死後刊行された『人生論ノート』は終戦直後のベストセラーになった[2][3]。弟に中国文学者の三木克己がいる。

三木清


生涯編集

 
生誕地たつの市白鷺山公園哲学の小径[4] にある三木清記念碑

兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)出身[5]旧制龍野中学校では、西田正雄(後の海軍大佐、戦艦比叡の最後の艦長)が同級生で、三木は次席で西田が首席であった。第一高等学校[6]から京都帝国大学に進み、西田幾多郎に師事する[7]。大学在学中は西田のみならず東北帝国大学から転任してきた田辺元左右田喜一郎らからも多くの学問的影響を受けた。また、谷川徹三林達夫小田秀人らとの交友がはじまり彼らの影響で和歌を多く詠んだ[8]。特に谷川徹三とは懇意にしており、詩を作るといつも谷川に見せて批評してもらっていた[9]長田桃蔵の娘・多喜子に好意を寄せていたが多喜子は谷川の妻となった[10]。大学卒業[11]後は大学院に進学[12]しながら、第三高等学校 (旧制)[13][14]龍谷大学(第三高等学校では無く大谷大学であるという説もある[15][16] )で教鞭をとる[13]。1921年4月教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第10連隊で軍隊生活を送る[13]

1922年には波多野精一の推薦と岩波茂雄の資金的な支援を受けてドイツに留学する。ハイデルベルク大学ハインリヒ・リッケルトのゼミナールに参加し、歴史哲学を研究した[13]。1923年にはマールブルク大学に移り、マルティン・ハイデッガーに師事。ニコライ・ハルトマンの講義にも出席した。ハイデッガーの助手カール・レーヴィットからの影響でフリードリヒ・ニーチェセーレン・キェルケゴール実存哲学への興味を深めた。1924年にはパリに移り、大学に席を置かず、フランス語の日用会話の勉強をした[17]。この間パスカル研究を開始[18]

1925年帰国し、翌年には処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表。1927年には法政大学文学部哲学科主任教授となった。三木は母校である京都帝大への就職を望んだものの叶わなかったが、谷沢永一荒川幾男は、女性問題のためにアカデミズム側から締め出しを食ったとしている[19][20]。これは、京都市陶磁器試験場初代場長藤江永孝の未亡人富佐との大学院生時代の交際が問題視されたと言われる[21][22]。富佐の家は学生の集まる一種のサロンになっており、苦学生の支援をよくしていた[21][22][23]。一方、親三木派の永野基綱は『過去の女性関係が問題視されたといわれているが、口実であろう。(中略)三木が手記の中で「所謂講壇的哲学者には頭が有っても魂が無い。」と書いている。(中略)親しい場所では講壇哲学批判を口にしてもおかしくない。そのような若い研究者を「帝国大学」に受け入れるだけの度量が田辺らにあってなお、退けることが出来なかった(中略)友人丹羽は、それ以来、「わが兄、わが師、三木清を追い払った京都に、二度と来る気がしなかった。」と語っている。』[24]と記述しており、原因については意見が分かれている。

同年12月に創刊された岩波文庫とも深い関わりがあり、巻末の公約である「読書子に寄す」の草稿は三木によって書かれたものである。小林勇が岩波書店を追われた際、これを援助するために満鉄から依頼された講演のための旅費1500円をすべて渡した。小林は自らの元手にこの1500円を足して鉄塔書院を起こした。この名をつけたのは幸田露伴である[25]

羽仁五郎らと雑誌『新興科学の旗のもとに』を起こして、たんなる党派的な教条にとどまらないマルクス主義の創造的な展開も企てたが、1930年、日本共産党に資金提供をしたという理由によって逮捕され、転向を行った[26]。法政大学を退職。この際の有罪判決によって公式には教職に就けなくなった三木は、活動の場を文筆活動に移していった。

1930年に一人娘の洋子が生まれる(後に東大文学部の初めての女性教官永積洋子(ながづみ ようこ、近世通交貿易史専攻の教授)になる。清の妻・喜美子は東畑精一の妹であるが、洋子の幼時に死亡)。

その後、ジャーナリズムで活動する日々が続くが、1930年代後半には、後藤隆之助近衛文麿の友人たちが中心になって組織した昭和研究会に積極的に参加し、その哲学的基礎づけ作業を担当した[27]。三木はその際、「協同主義」という一種の多文化主義的な立場を掲げた。これは軍部、特に陸軍の独走によって硬直する日中関係に対する日本の側からの新政策につながるものとして、海軍から期待を集めたものの[28]、中国の側からの知的応答もなく、現実的な力を持たないうちに短期間に色あせた。三木が投獄されたのは治安維持法違反であるから戦後存命であれば、それだけで戦後左翼の英雄となり得る可能性はあった[29]。しかし、治安維持法にて投獄されている期間に、プロレタリア科学研究所哲学研究部主任を解任されており、存命であれば足かせになった可能性はある[30]

戦後刊の『三木清著作集』には、三木が昭和研究会でとりまとめた「新日本の思想原理」「新日本の思想原理 続編 協同主義の哲学的基礎」は未収録。その後刊行した「全集第17巻」に「新日本の思想原理」「新日本の思想原理 続編 協同主義の哲学的基礎」の両方が収録されている[31][32]遠山茂樹今井清一藤原彰共著『昭和史(旧版)』(岩波新書、1959年)には、昭和研究会の革新メンバーとして、三輪寿壮蠟山政道笠信太郎など5人の名前は挙げておきながら、三木の名前だけは挙げていない[29]。改訂された『昭和史(新版)』には、有馬頼寧風見章三輪寿壮蠟山政道笠信太郎佐々弘雄とともに三木の名前も挙げられている[33]

三木が昭和研究会の文化研究部会に参加することになったのは以下の事情による。支那事変によって世界における日本の地位が大きく変わったことに対して、昭和研究会内に世界政策研究会が発足する[34]。この研究会は各界の権威者からヒアリングすることから始められた。そうした中、三木が中央公論に発表した「日本の現実」[35]が酒井の目にとまり[36]、昭和研究会で三木が「支那事変の世界的意義」と題した講演を行った。この講演の中で三木が昭和研究会の中に思想・文化に関する研究会の設立を提案した。三木の提案は昭和研究会に受け入れられ文化研究会が設立され、委員長に就任するよう酒井から要請があり三木が受諾し昭和研究会へ参加することになった。[37]

総力戦体制に対する抵抗と関与という両義的な態度は、同時代の転向知識人がかかえる二面性であるが、三木はその典型であった。すでに軍部と皇道右翼によってマルクス主義はもちろん、自由主義者もまた、自立的な社会的活躍の余地を奪われていた[38]。そのような政治的に非常に息苦しい状況にあって、総力戦体制の効率化、合理化は、一面では、体制派の主流に対するある種の批判的意見表明を可能にする最後の可能性と見えていた。しかし、昭和研究会は軍部や保守勢力によって敵視され、不本意にも解散を余儀なくされたため、やがてその流れは、大政翼賛会のなかに取り込まれていく[39]。そのことにより、総力戦動員の合理性に託して、何らかの社会変革を遂行するという知識人の当初の期待は、単なる戦争協力へと変質していくことになる[40]

1930年代末から1940年代にかけては、語学力を生かしてヨーロッパの最先端の知的成果を取り入れながら、マルクス主義をより大きな理論的枠組みのなかで理解し直す「構想力の論理」を企てていたが、未完に終わる[41][42]。さらに最後には親鸞の思想に再び惹かれている。

1945年、治安維持法違反の被疑者高倉テルが葬儀出席のために数日仮釈放中に逃亡した際に、三木の疎開先を訪れた。そこで服や金を与えたことを理由に検事拘留処分を受け[43][44]東京拘置所に送られ、同6月に豊多摩刑務所に移された[45]。この刑務所は衛生状態が劣悪であったために、三木はそこで疥癬を病み、それに起因する腎臓病の悪化により、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡しているのを発見された。48歳没。終戦から一ヶ月余が経過していた。遺体を収めた棺は2日後、布川角左衛門が借りた荷車を用いて東畑精一に引き取られ、高円寺の三木の自宅に運ばれた[46][47]

中島健蔵が三木の通夜の当日に、警視庁への拘引から7月下旬まですぐ近くの監房にいて詳しく様子を見たという青年から聞いた話として記しているところによると、疥癬患者の使っていた毛布を消毒しないで三木に使わせたために疥癬に罹患したという[48]

同じ刑務所にいた中村武彦が看守から聞いたところによると、取るに足らない微罪であったため、検事も刑務所もここで死なれては困るからと終戦後は早々に出す意向であったが、妻に先立たれて家族がおらず、身柄引受人が誰もいない為、釈放が難航した。そうこうしているうちに疥癬が悪化して、猛烈な痒みで転げまわって常に寝台から落ちる為、看守からも放置され、全身が汚物まみれになって、悪臭の中、死んでいったという[49]

三木の通夜の席で、三木や尾崎秀実戸坂潤と親交のあった松本慎一が「政治犯即時釈放を連合軍に嘆願しよう」と提案したが、その提案が唐突過ぎ、また場所柄もふさわしくなかったために、用意した嘆願書の草案を取り出すことができなかった[50]

前述の中村は、三木と同囚であった神山茂夫中西功も、近くの房にいて、革命は近いぞなどと豪語しながら、彼にはなんら手を差し伸べず、すぐに引き取れば助かったものを、同志や弟子たちも引き取りにも差し入れにも現われなかったために、彼は死んだのであり、彼らが見殺しにしたも同然である。にもかかわらず、日本帝国主義許せない、などと三木の死を憤るのは、偽善にもほどがあると、批判している[51]

GHQは三木の獄死を知り大きなショックを受けた。敗戦からすでに一ヶ月余を経ていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせた[52]。旧体制の破綻について、当時の日本の支配者層がいかに自覚が希薄であったのかについての実例である。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められた。そもそも三木が獄中に囚われていたことを親しい友人たちですら知らされずにいたことも当時の拘禁制度の実態を表している。法名は、真実院釋清心。なお蔵書は法政大学に所蔵されている。1997年、龍野市から名誉市民の称号が与えられた[53]

思想編集

高等学校時代編集

第一高等学校の在学中、東京本郷で求道学舎を主宰していた真宗大谷派僧侶の近角常観に接近し歎異抄の講義を聴きに通う。また、二年生のとき、倉石武四郎らと塩谷温資治通鑑の読書会に参加した。三年の時、西田幾多郎の『善の研究』を読んで感激し、哲学専攻の決意を固めた[54]

大学・大学院時代編集

三木は1917年の京都帝国大学入学から、ドイツ留学に出発する1922年までの間に『哲学研究』誌上に四本の論文を執筆している。(「個性の理解」、「批判哲学と歴史哲学」、「歴史的因果律の問題」、「個性の問題」)これらの論文はいずれも新カント派哲学の立場から「個と歴史」の関係、「個と普遍」の関係について考察した論文である。高校時代から岩波書店哲学叢書で新カント派哲学に親しんできた三木は、波多野精一から西洋哲学を学ぶためにはキリスト教理解と歴史研究が重要である、という示唆を受け歴史哲学を自身の中心的な研究テーマにした[55]

ドイツ留学時代編集

ハイデルベルク編集

波多野の推薦で、岩波茂雄から出資を受けた三木は、6月24日高校時代から親しんできた新カント派哲学の大御所リッケルトのいるハイデルベルクに留学を果たした。当時のドイツは、第一次大戦後の混乱がまだ続いており、ヴェルサイユ体制の下での戦後秩序の回復を目指していた時期であった。ドイツは、敗戦国として1320億金マルクの賠償金の支払いを命じられ経済が逼迫していた。そこにフランスによるルール占領が拍車をかけ、急激なインフレが進行していた。このインフレのため日本から送られてくる留学資金が潤沢になり、三木のみならず多くの日本人がドイツに滞在していて知り合いとなる。歴史の羽仁五郎、経済学の大内兵衛、カント研究の天野貞祐、後にハイデッガーについて学ぶ九鬼周造、哲学家から政治家になる北昤吉、キリスト教史学の石原謙、経済学の久留間鮫造、作家の阿部次郎、経済学の藤田敬三糸井靖之黒正厳小尾範治鈴木宗忠大峡秀栄などがいた[13]

ハイデルベルクでは古参の大御所から少壮の新進学者まで多くの人々と交わる機会を得た。ゲオルグ・ジンメル(George Simmel 1858-1918)の下で学び1919年のハンガリー革命 (1919年)に参加したが敗れてドイツに亡命していたカール・マンハイム(Karl Mannheim 1893-1947)、後にヘーゲル全集の編纂・刊行で著名になるヘルマン・グロックナー、ギリシア哲学のエルンスト・ホフマンヴィルヘルム・ヴィンデルバントとリッケルトに師事したエミール・ラスク(Emil Lask 1875-1915)の弟子で後に東北帝国大学教授も務め、『日本の弓術』の著者でもあるオイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel 1884-1955)らである。

マールブルク編集

三木の当初の留学の目的は、新カント派の研究を進めるためであり、特に「リッケルト教授に就いて更に勉強するため」であった。しかし、日本にいる時からリッケルトの著作の殆どを原典で読んでいた三木は、リッケルトから新たな哲学上の発見が得られないと見ると、1923年には新進の学者で、リッケルトが「非常に天分の豊な人物」と評したハイデッガーのいるマールブルクへと研究の拠点を移した。

三木は、古典の解釈を中心として進められるハイデッガーの演習に参加しながら新カント派的な「認識の対象としての歴史」に加えて「生の存在論としての歴史」、「生の批評としての歴史」という新たな歴史哲学研究の方法を学んだ。また、この頃ハイデガーの助手を務めていたカール・レーヴィットと親しく交わった。マールブルクを離れてパリに移ってからも手紙で読書の指南を受け、ヴィルヘルム・ディルタイフリードリヒ・シュレーゲルフンボルトや当時の流行思想であった不安の哲学や不安の文学に対する興味を喚起された。ニーチェやキェルケゴールなどの実存哲学、ドストエフスキーの小説などを耽読したのもレーヴィットの影響である。

パスカル研究編集

1924年8月三木はパリを訪れた。三木はパスカル研究を『この冬ごろ、ふとパスカルを手にし、心を捉えられてその研究に専念し始めた』(三木清全集 20巻 年譜325頁1行目より引用[56])とあるように、冬から開始し、1925年2月に、その第一論文「パスカルと生の存在論的解釋」を完成した。これは日本に送られ、同年5月、雑誌『思想』の第43号に掲載される。第二論文「愛の情念に関する説ーパスカル覚書ー」は同年8月の第46号、第三論文「パスカルの方法」は同年11月の第49号、第四論文「三つの秩序」はパリから送付はされたが、なぜか掲載されず、第五論文「パスカルの『賭』」は同年12月の第50号に載った。はじめは第七論文まで計画していたと思われるがそれは成らず、1925年10月に帰国後、第六論文「宗教における生の解釋」を書き加えて、1926年6月『パスカルに於ける人間の研究』として岩波書店から出版された[57]

マルクス主義研究編集

フランスより帰国後パスカル研究者として日本で評価されるものの、日本国内でのマルクス主義の台頭の中、三木もマルクス主義について研究を始める。特に三木と同様にドイツに留学していた福本和夫が、マルクス主義研究で成果を上げていること知り『俺でも福本位いなことは出来る、と傲語』(戸坂潤「三木清氏と三木哲学」103ページ上段14行目より引用[58])し、パスカルに続いてマルクスについても研究を始める事になった。日本帰国後パスカル研究者として評価されたが、ドイツに留学し歴史哲学を志した研究者が、マルクス主義について研究するのは流行を追うことだけが目的では無く、当然の帰結であるとも言える[59]

しかし、三木のマルクス主義研究はあくまでも研究であって三木がマルクス主義者になったわけでは無い。親三木派の赤松常弘が『三木がマルクス主義者になったわけでは無い。』(「三木清ー哲学的思索の軌跡」79ページ15-16行目より引用[60] )と記載している。反三木派の戸坂潤は「三木清氏と三木哲学[61]」の中で、三木の思想の変遷について批判している。戸坂によると三木のマルクス主義については三木の歴史哲学の発展であると述べ、マルクス主義者になったわけでは無いと論じている[62]。戸坂によると三木は独創家では無く優れた解釈家であると批判した[63]。戸坂は三木に対する評価が手厳しい[64]。しかし、戸坂が三木を痛烈に批判した論文である「三木清氏と三木哲学」発表後も酒を飲み交わす仲であった[65]。赤松は時代の状況の中で三木の著述は書かれているので時代と切り離すことは出来ないと述べている[66]

福本は当時の文部省留学生として三木と同様にドイツに留学し、マルクス主義を主に学び三木より一年早く1924年に帰国している[67]。帰国後は留学中に学んだマルクス・レーニン等の論文を引用して権威づけられた論文を発表する[67]。1926年に福本は留学で得た豊富な知識をもとに山川均の方向転換論を批判し、一気にマルクス主義の理論的指導者の地位を得ることになった。福本の理論は、マルクス主義を指導する党と、党に指導される大衆をはっきりと分離する事を基本としている。理論闘争によって革命的少数者の党を結成し、党が大衆を指導することでマルクス主義の主導権を党が掌握すべきであると主張した[67]。福本は「福本イズム」にもとづく共産党を秘密裏に結成し、マルクス主義指導者として1927年にロシアに向かいコミンテルンの承認を得て一段の権威付けを行う事を計画する[67]。しかし、レーニン死後のロシアではスターリンが世界永久革命を目指すトロツキーまでも追放し党を独裁していた。このため、当時のコミンテルンは山川や福本の日本共産党の独自路線を認めず、ソヴィエト連邦擁護を中心とした日本共産党に対する新方針を押し付けられ、福本は否定されマルクス主義指導者としての権威が失墜し党から離れざるを得なくなった[67]

福本がロシアに渡った頃、三木は上京する。1927年6月時点で友人の丹羽五郎宛に唯物史観に関する解釈を作り上げたとの書簡を送る[67][68]。 1927年、最初のマルクス主義論「人間学のマルクス的形態[69]」を岩波書店「思想」に発表する[70][71]。1928年5月には既に「思想」発表済みの「マルクス主義と唯物論[72]」(8月発表[73])「プラグマチズムとマルキシズムの哲学[74]」(12月発表[73])に「ヘーゲルとマルクス[75]」加えて四編の論文で構成される「唯物史観と現代の意識[76]」を発表する。「人間学のマルクス的形態」は人間学から見たマルクス主義を論じており、マルクス主義における人間を論じているわけでは無く、福本に対する批判も含まれていない。しかし、「プラグマチズムとマルキシズムの哲学」では理論闘争の必要性を強く訴え、福本の指導者と大衆に分離する考え方を批判している[73]

1930年(昭和5年)5月に三木は日本共産党に資金提供していたことで逮捕される。三木の逮捕拘留中に三木のマルクス主義は歴史学者の服部之総によって観念論と否定される。具体的には、三木は「物質」を「解釈的概念」と捉えており、無条件に物質を存在として認める唯物論に相反しているため、唯物論を基本とするマルクス主義に反しているという議論である[77]。結果として三木も福本同様にマルクス研究者としての権威が失墜した。また11月に懲役1年、執行猶予2年の判決を受けて転向を余儀なくされる[26]

昭和研究会編集


構想力の論理編集


親鸞編集


著書編集

単著編集

  • 1926年 『パスカルに於ける人間の研究』岩波書店
  • 1928年 『唯物史觀と現代の意識』岩波書店
  • 1929年 『史的觀念論の諸問題』岩波書店
  • 1929年 『社會科學の豫備概念』鉄塔書院
  • 1931年 『觀念形態論』鉄塔書院
  • 1932年 『文學史方法論』(岩波講座『世界文學』所収)岩波書店
  • 1932年 『歴史哲學』(『續哲學叢書』の一冊として) 岩波書店
  • 1932年 『社會科學概論』(岩波講座『哲學』の一分冊として) 岩波書店
  • 1933年 『社會史的思想史(古代)』(岩波講座『哲學』の一分冊として) 岩波書店(改訂再刊、1949年)
  • 1933年 『危機に於ける人間の立場』鉄塔書院
  • 1934年 『人間學的文學論』(『文藝復興叢書』の一冊として) 改造社
  • 1935年 『アリストテレス 形而上學』 岩波書店〈大思想文庫2〉、復刊1985年
  • 1936年 『時代と道徳』 作品社
  • 1938年 『技術哲學』(岩波講座『倫理學』の一冊として) 岩波書店
  • 1938年 『アリストテレス』 岩波書店〈大教育家文庫10〉、復刊1984年
  • 1939年 『ソクラテス』 岩波書店〈大教育家文庫8〉、復刊1984年
  • 1939年 『構想力の論理 第一』 岩波書店、復刊1993年
  • 1939年 『現代の記録』 作品社
  • 1940年 『哲學入門』 岩波書店〈岩波新書〉。改版1976年ほか
  • 1941年 『哲學ノート』 河出書房(のち新潮文庫)
  • 1942年 『續 哲學ノート』 河出書房
  • 1942年 『讀書と人生』 小山書店(のち新潮文庫+オンデマンド版)
  • 1942年 『學問と人生』 中央公論社
  • 1947年 『人生論ノート』 創元社(のち新潮文庫)
  • 1948年 『知識哲學』 小山書店
  • 1948年 『構想力の論理 第二』 岩波書店、復刊1993年
  • 1950年 『哲學と人生』 河出書房。講談社文庫(増補版)、1971年
  • 1977年 『語られざる哲学』 講談社学術文庫
  • 1980年 『パスカルに於ける人間の研究』 岩波文庫。解説桝田啓三郎
  • 1999年 『パスカル・親鸞』 燈影舎「京都哲学撰書」。※以下は改訂新版
  • 2000年 『三木清エッセンス』 こぶし書房〈こぶし文庫〉。内田弘編・解説
  • 2001年 『創造する構想力』 燈影舎「京都哲学撰書」。構想力の論理〈第一・第二〉を併せた版
  • 2007年 『三木清 東亜協同体の哲学』 こぶし書房〈こぶし文庫〉。内田弘編・解説
  • 2007年 『三木清批評選集 東亜協同体の哲学-世界史的立場と近代東アジア』 書肆心水
  • 2010年 『哲学ノート』中公文庫ISBN 4122053099
  • 2011年 『人生論ノート』新潮文庫(改版)、ISBN 4101019010
  • 2012年 『三木清 歴史哲学コレクション』 書肆心水
  • 2013年 『読書と人生』 講談社文芸文庫
  • 2017年1月 『三木清教養論集』 講談社文芸文庫大澤聡編・解説
  • 2017年3月 『人生論ノート 他二篇』 角川ソフィア文庫。他は『語られざる哲学』『幼き者の為に』。解説岸見一郎
  • 2017年4月 『三木清大学論集』 講談社文芸文庫。大澤聡編・解説
  • 2017年9月 『三木清文芸批評集』 講談社文芸文庫。大澤聡編・解説
  • 2017年9月 『三木清遺稿「親鸞」 死と伝統について』白澤社。子安宣邦編著

全集編集

  • 『三木清著作集』 全16巻、岩波書店、1946-1951年
  • 『三木清全集』 岩波書店(第1刷・全19巻、1966-1968年/第2刷・全20巻、1984-86年)

共著編集

翻訳編集

脚注編集

  1. ^ 後藤 2007, p. 60.
  2. ^ 【行雲流水】(三木清)”. 宮古毎日新聞 (2017年6月13日). 2020年3月20日閲覧。
  3. ^ 荒川 1968, p. 3.
  4. ^ 龍野公園:哲学の小径”. たつの市 (2014年3月21日). 2020年3月18日閲覧。
  5. ^ 桝田 1986, p. 313.
  6. ^ 1917年7月卒業(『第一高等学校一覧 自大正6年至大正7年』第一高等学校、1917年12月、p.189
  7. ^ 桝田 1986, p. 314-320.
  8. ^ 桝田 1986, p. 320-321.
  9. ^ 桝田 1986, p. 321.
  10. ^ 谷川 2011, p. 80.
  11. ^ 1920年7月に哲学科哲学専攻を卒業(『京都帝国大学一覧 自大正9年 至大正11年』京都帝国大学、1921年12月、p.468
  12. ^ 『官報』第2440号、大正9年9月18日、p.473
  13. ^ a b c d e 桝田 1986, p. 322.
  14. ^ 三木 1971, p. 537.
  15. ^ 久野 1971, p. 437.
  16. ^ 真宗大谷大学編『大谷大学要覧 自大正11年至大正12年』真宗大谷大学、1922年10月、p.65の「旧教職員」の項に「三木清」の名前がある。しかし、真宗大谷大学編『真宗大谷大学一覧 第10次学年(自大正9年至大正10年)』真宗大谷大学、1921年1月の「現在教員及び教授(大正9年11月現在)」(pp.41-45)と「旧教職員氏名」(pp.45-48)の項に「三木清」の名前は無い。
  17. ^ 三木 1984, p. 428.
  18. ^ 三木 1984, p. 429.
  19. ^ 荒川 1968, p. 97.
  20. ^ 谷沢 2004, p. 71.
  21. ^ a b 谷川 2011, p. 20.
  22. ^ a b 林 1973, p. 166.
  23. ^ 創立記念日に想う学校法人湘南学園、2016年11月29日
  24. ^ 永野 1966, p. 60-61.
  25. ^ 山本 2009, p. 14.
  26. ^ a b 桝田 1986, p. 329-330.
  27. ^ 酒井 1992, p. 52-58.
  28. ^ 高坂 2000, p. 144.
  29. ^ a b 竹内 2011, p. 104.
  30. ^ 鷲田 1986, p. 59-60.
  31. ^ 三木 1985a.
  32. ^ 三木 1985b.
  33. ^ 遠山 2013, p. 182.
  34. ^ 酒井 1992, p. 157.
  35. ^ 三木 1985c, p. 438-463.
  36. ^ 酒井 1992, p. 159.
  37. ^ 酒井 1992, p. 163.
  38. ^ 遠山 2013, p. 167.
  39. ^ 遠山 2013, p. 182-183.
  40. ^ 遠山 2013, p. 186-187.
  41. ^ 久野 1985, p. 513-514.
  42. ^ 久野 1985, p. 518.
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  47. ^ 前出「救援運動の再建と政治犯の釈放(3・完)」57頁によれば、当時東畑精一は、高円寺の三木の自宅から徒歩5,6分の東中野に住んでいた。刑務所から引取要請を受けたという東畑精一に同行したことを記述する布川の言う「お宅」は、その前にある「高円寺のお宅」と同一と考えるのが妥当で、三木の自宅のことと考えられる。
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参考文献編集

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  • 酒井三郎昭和研究会 ある知識人集団の軌跡』中央公論社〈中公文庫〉、1992年7月、第1版。ISBN 4-12-201921-4
  • 谷沢永一『嫉妬する人、される人』幻冬舎、2004年7月、第1版。ISBN 4-344-00649-6
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  • 戸坂潤『三木清氏と三木哲学』勁草書房戸坂潤全集 5〉、1967年2月、第1版。ISBN 4-326-14804-7
  • 中島健蔵『雨過天晴の巻 昭和十七年ー二十三年平凡社〈回想の文学 5〉、1977年11月、第1版。ISBN 978-4-06-290207-6
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  • 桝田啓三郎『編集後記』桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集 1〉、1984年7月、第2版。
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  • 三木清『読書遍歴』桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集 1〉、1984年7月、第2版。
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  • 三木清『新日本の思想原理 続編 協同主義の哲学的基礎』桝田啓三郎、岩波書店〈三木清全集 17〉、1985年12月、第2版、534-588頁。
  • 山本夏彦『私の岩波物語』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2009年4月、第1版(文庫新版)。ISBN 978-4168130625
  • 鷲田小彌太『昭和思想史』三一書房、1986年7月、第1版。

関連図書編集

関連項目編集

外部リンク編集