三条大橋
座標: 北緯35度00分32.66秒 東経135度46分18.25秒 / 北緯35.0090722度 東経135.7717361度
三条大橋(さんじょうおおはし)は、京都市にある三条通の橋。鴨川に掛かっている。
橋が架けられた時期は明らかではないが天正17年(1589年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された[1]。江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製で1950年(昭和25年)に作られ、木製欄干は1973年(昭和48年)に更新されたが老朽化やシロアリなどの被害で劣化が激しく、橋を管理する京都市は欄干の取り換えだけで3億円、歩道の整備を含めると4億円が必要と見積もっており、費用の捻出に苦慮している[2]。
三条大橋に関わる歴史編集
戦国時代末期の天正17年(1589年)に北条氏征伐の議が決まった直後に、豊臣秀吉が増田長盛に命じて三条大橋の修復・架橋させた。そのときの規模は、長さ64間4尺(126.0メートル[注釈 1])、幅は3間5尺5寸(7.5メートル)あり、擬宝珠に残る銘によれば、礎石は5尋(9.0メートル)の深さまで入れて、橋柱は63本全てを石柱としたもので、「石柱の橋は濫觴(らんしょう)なり[注釈 2]」とある[1]。
年代順に記述する。
- 東海道五十三次
- 弥次喜多像[3]
- 江戸時代に出版された『東海道中膝栗毛』の主役である弥次郎兵衛と喜多八の像がある。
- 像の側にある撫で石を撫でると縁起がいいと言われがある。
- 三条大橋擬宝珠刀傷跡[3]
- 三条高札事件
- 駅伝の碑
処刑場として編集
近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた。ここで処刑・晒し首にされた著名な人物を挙げる。
- 石川五右衛門 - 安土桃山時代の著名な盗賊。1594年(文禄3年)8月25日、釜茹での刑に処せられた。
- 豊臣秀次と、その妻子側室侍女 - 1595年(文禄4年)7月、豊臣秀吉より謀反の疑いをかけられ高野山で切腹した後、三条河原へ豊臣秀次の首が運ばれた。首が据えられた前で妻子侍女など39名が処刑され、秀次の首と共に1か所に埋められ見せしめの塚が作られた。この塚は1611年(慶長16年)角倉了以の高瀬川開削時に塚と石柱が見つかり、現在も瑞泉寺の境内にある。
- 石田三成 - 安土桃山時代の武将。1600年の関ヶ原の戦いに敗れ、捕らえられ六条河原で斬首刑となり、三条河原で晒し首にされた。
- 近藤勇 - 新撰組局長。1868年(慶応4年)4月25日、板橋刑場(武蔵国板橋宿付近)で刑に処せられたあと、首が塩漬けにして運ばれ三条河原で晒し首となった。
鴨川・花の回廊編集
三条大橋東側(京阪側)には、鴨川左岸の環境整備および護岸改修を行った治水整備事業の記念碑がある。これは、平安遷都1200年を契機に着手した「京の川づくり」事業の一環として1992年(平成4年)より事業化され、三条大橋から七条大橋間が「花の回廊」として整備されたことを記念するものである。なお、同事業はのちに「水辺の回廊整備・鴨川創造プラン」に引き継がれ、継続的に事業が行われている。
位置情報編集
交通編集
脚注編集
参考文献編集
- 武部健一『道路の日本史』中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日。ISBN 978-4-12-102321-6。
関連項目編集
- 三条京阪 - 周辺繁華街についてはこちらを参照。
- 新選組
- 三条大橋をイメージした曲として、ジュスカ・グランペールの「三条大橋の下で」という曲がある。