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三条大橋(東詰より)
東海道五十三次 三条大橋』
歌川広重筆。
弥次さんと喜多さんの像
駅伝発祥の碑

三条大橋(さんじょうおおはし)は、京都市にある三条通鴨川に掛かっている。

橋が架けられた時期は明らかではないが天正17年(1589年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された[1]江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製で1950年昭和25年)に作られ、木製欄干は1973年(昭和48年)に更新されたが老朽化やシロアリなどの被害で劣化が激しく、橋を管理する京都市は欄干の取り換えだけで3億円、歩道の整備を含めると4億円が必要と見積もっており、費用の捻出に苦慮している[2]

橋の名は、三条通と鴨川左岸(東側)を走る川端通の交差点名にもなっている。

目次

三条大橋に関わる歴史編集

戦国時代末期の天正17年(1589年)に北条氏征伐の議が決まった直後に、豊臣秀吉が増田長盛に命じて三条大橋の修復・架橋させた。そのときの規模は、長さ644(126.0メートル[注釈 1])、幅は3間5尺5寸(7.5メートル)あり、擬宝珠に残る銘によれば、礎石は5(9.0メートル)の深さまで入れて、橋柱は63本全てを石柱としたもので、「石柱の橋は濫觴(らんしょう)なり[注釈 2]」とある[1]

年代順に記述する。

  • 東海道五十三次
  • 弥次喜多像[3]
    • 江戸時代に出版された『東海道中膝栗毛』の主役である弥次郎兵衛と喜多八の像がある。
    • 像の側にある撫で石を撫でると縁起がいいと言われがある。
  • 三条大橋擬宝珠刀傷跡[3]
    • 1864年7月8日(元治元年6月5日)に発生した池田屋事件で付いたとされる刀傷が、橋の北側と南側の2か所(西から数えて2つめの擬宝珠)に現存する。
  • 三条高札事件
    • 三条大橋の西詰め北側には、江戸時代に藩や幕府の高札を立てた「高札場跡」がある。この場所をめぐる特に有名な事件として、1866年(慶応2年)8月28日に発生した三条高札事件がある。なお、天正年間の大改造の際に使用された石の柱が現存する。
  • 駅伝の碑
    • 日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを記念する説明碑「駅伝の碑」がある。1917年(大正6年)4月27日から3日間にわたり開催された。

処刑場として編集

近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた。ここで処刑・晒し首にされた著名な人物を挙げる。

鴨川・花の回廊編集

三条大橋東側(京阪側)には、鴨川左岸の環境整備および護岸改修を行った治水整備事業の記念碑がある。これは、平安遷都1200年を契機に着手した「京の川づくり」事業の一環として1992年平成4年)より事業化され、三条大橋から七条大橋間が「花の回廊」として整備されたことを記念するものである。なお、同事業はのちに「水辺の回廊整備・鴨川創造プラン」に引き継がれ、継続的に事業が行われている。

位置情報編集

交通編集

※詳細は、各駅の項目および三条京阪#路線バスを参照。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 当時の1間は、6尺5
  2. ^ 「石柱の橋は本邦初である」という意味であるが、これよりも先に天正9年(1581年)に柴田勝家が福井の足羽川に架けた九十九橋は、半分が石造りであったという[1]

出典編集

  1. ^ a b c 武部健一 2015, p. 104.
  2. ^ 出典・京都新聞2017年5月11日夕刊1面の記事より。
  3. ^ a b 三条小橋商店街振興組合による。

参考文献編集

  • 武部健一『道路の日本史』中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日。ISBN 978-4-12-102321-6

関連項目編集

外部リンク編集