三芳野神社

埼玉県川越市の神社

三芳野神社(みよしのじんじゃ)は、埼玉県川越市郭町の神社童歌通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年(1989年)に大修理が行われ、平成4年(1992年)に完成。埼玉県指定文化財

三芳野神社


鳥居と拝殿

地図
所在地 埼玉県川越市郭町2-25-11
位置 北緯35度55分27.11秒 東経139度29分32.74秒 / 北緯35.9241972度 東経139.4924278度 / 35.9241972; 139.4924278 (三芳野神社)座標: 北緯35度55分27.11秒 東経139度29分32.74秒 / 北緯35.9241972度 東経139.4924278度 / 35.9241972; 139.4924278 (三芳野神社)
主祭神 素盞男尊
奇稲田姫命
社格県社
創建 大同2年(807年
本殿の様式 権現造
地図
三芳野神社の位置(埼玉県内)
三芳野神社
三芳野神社
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歴史 編集

さいたま市氷川神社を勧請したとも、京都市北野神社を勧請したともいわれているが定かではない。この三芳野という社名は在原業平の『伊勢物語』に出てくる「入間の郡三芳野の里」という地名が川越の旧地名であったことによる。

現存する社殿は、寛永元年(1624年川越藩酒井忠勝が3代将軍徳川家光の命を受けて造営した[1]もので、鈴木近江守長次によって再興された。翌寛永2年には、天海大僧正を導師として遷宮式が行われた[1]。これ以後、喜多院仙波東照宮とともに江戸幕府の直営社となった。寛永3年(1626年)には徳川家光の侍講・林羅山がこの地で嫡男・叔勝の病気平癒を祈願した。

明暦2年(1656年)には、4代将軍徳川家綱の命を受けた川越城主松平信綱により大改造が行われ、施工には木原義久があたった。この大改造の時に江戸城二の丸の東照宮本殿を移築し当本殿とし、寛永に建てられた拝殿との間に幣殿を新しく設け、権現造りの形態とした

祭神 編集

祭神は素盞烏尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。 菅原道真誉田別尊(ほんだわけのみこと)を配祀する。

とおりゃんせ 編集

童歌「とおりゃんせ」は当社の参道が舞台といわれる。 当社は川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれた。 城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められた。

しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門(現在の川越市立第一小学校の正門付近[2])より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道をとおってお参りしなければならなかった。 反対に、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。 そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と川越城内の子女の間で唄われるようになり、それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行ったものである。 なお、参道は江戸時代より若干変化している。

文化財 編集

  • 三芳野天神縁起[1]:草創から遷宮式までの経緯を描いた絵巻物。1巻。慶安2年(1649年)正月松平信綱が奉納。巻末詞書は林羅山。落款はないが、後代の記録と絵の様式から勝田竹翁筆と見なせる。
  • 銅製扇形額[3]
  • 拵え付太刀:至徳4年(1387年)備州長船長吉の銘記がある[4]

境内 編集

  • 初雁の杉
  • 「わらべ唄発祥の地」碑

交通 編集

公共交通機関 編集

自動車 編集

参考文献 編集

  • 川越市立博物館 編『三芳野神社とその社宝:第27回収蔵品展』川越市立博物館、2018年。 NCID BB25816766 

脚注 編集