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阿波戦争(あわせんそう)とは徳島県における保守分裂選挙のこと。発端となった選挙戦は特に三角代理戦争(さんかくだいりせんそう)と呼ばれる[1]

概要編集

きっかけは1974年第10回参議院議員通常選挙。分裂選挙の舞台となった1人区徳島県選挙区には現職の久次米健太郎がいたが、田中角栄首相は現職を優先するという不文律に反し内閣官房副長官であった後藤田正晴自民党公認候補とし、現職の久次米に公認を出さなかった。徳島選挙区は三木派を率いる大物政治家三木武夫の地元で、久次米は「三木武夫城代家老」と呼ばれていた三木側近の一人であったことから、三木は田中の決定に猛反発し、派閥をあげて党公認候補後藤田の対立候補である久次米の選挙戦を支援し保守陣営が分裂する選挙戦となった。この選挙以後長きにわたって徳島では自民党が分裂状態に陥った。

後藤田擁立の背景編集

当初、後藤田は全国区で擁立される予定であった。後藤田は警察庁長官としてよど号ハイジャック事件あさま山荘事件等の極左過激派の事件に対処した経験をもち国民的な知名度があり全国の警察関係者からの得票も見込めるため、後藤田から参院選出馬を相談された田中や田中派幹部の二階堂進も全国区から出馬することを田中に対して勧めた。しかし、後藤田はゆくゆくは中選挙区制のみの衆院選に立候補したいと考えており、警察庁の内規の関係で警察官僚は出生地以外の選挙区での立候補が認められないことから、郷里の徳島選挙区での公認を求めた[2]。後藤田が頑なに徳島選挙区にこだわった背景には、新人の後藤田が将来地元徳島で衆院選を勝ち抜くためには三木とは別に新たな支持基盤をもつ必要があったからである。

三木は1937年(昭和12年)以来衆議院徳島選挙区で当選を重ね、戦後の選挙に至っては常に三木がトップ当選を果たしており、徳島はいわば「三木王国」とでもいえる土地であったが、反三木勢力も少なからず存在していた。徳島を地盤とする参議院副議長秋田大助や参議院議員小笠公韶がその代表で、両者に加え反三木の県議らが久次米の議席を奪うことで反三木勢力の拡大を目論み後藤田擁立に動き、後藤田も反三木の保守勢力を自身の支持基盤とした。

後藤田の強い求めに対し田中は徳島選挙区で後藤田を公認候補として擁立する方向で検討に入った。久次米よりも後藤田の方が知名度が高く当選が確実視でき、また、第1次田中角榮内閣内閣官房副長官を務めるなど田中の腹心として将来性があるとの思惑が働いたからである。このような動きに対し、三木は田中に対して原則通り久次米を公認するよう申し入れを行い後藤田擁立の動きをけん制した。

後藤田公認編集

後藤田公認が田中の意向であったとはいえ、田中派内部に異論がないわけではなかった。田中派旗揚げの立役者でもあり党幹事長の橋本登美三郎は原則を曲げてまで後藤田を選挙区の公認候補とすると三木派が反発し政権運営に支障をきたしかねないことを理由に後藤田擁立には消極的であった。当時の田中政権は1972年(昭和47年)の衆院選で自民党結党以来最低議席となる大敗を喫し、先の総裁選で争った田中の政敵でもある福田赳夫に経済政策を一任するという大幅譲歩と引き換えに福田を蔵相につけ(改造前は行政管理庁長官)、かろうじて挙党一致体制の体面を保っているという不安定な状態であった。もし三木が離反し福田と結ぶようなことがあれば田中政権が潰されかねない、そんな危惧が橋本にはあったのである。

後藤田は田中の後押しもあって徳島で急速に支持を拡大していった。そして、ついに自民党徳島県連に公認申請をするに至った。公認申請をするということは即ち久次米と直接対決をする意思表示に他ならず、自民党徳島県連は久次米派と後藤田派に党内分裂するという事態に陥った。県連幹部は話し合いにより公認候補を決定する道を模索するも両陣営は日増しに対立を深めておりまとまるはずがなかった。最終的に投票により公認候補の決定を行う運びとなったが、開票直前に三木派の県議らが開票を自民党本部に委ねることを提案し、後藤田陣営もこれに同意し開票は自民党本部に付されることになった。両陣営が合意に至った背景にはそれぞれの思惑があったためである。三木陣営は、後藤田が有利といわれている状況で開票し結果が確定してしまうと久次米公認の途が完全に絶たれてしまうため、党本部に持ち込み三木と田中の会談により公認候補を決定すれば田中が折れて原則通り久次米が公認を得られるだろうという思惑があった。一方の後藤田陣営は、県連で開票してしまうと久次米陣営は県連を分裂させてでも久次米を擁立する可能性が高く、開票に党本部のお墨付きを与えることで久次米陣営の動きを封じ込め、開票結果をもって三木本人に久次米公認を諦めさせようという思惑があった。投票箱はそのまま自民党本部に空輸され、開票は党執行部に委ねられた。しかし、橋本幹事長は事態の推移を見守りその間三木を説得するため開票の先送りを決定した。

しかし、三木への説得工作は不調に終わり公示日寸前に至ってもなお公認選定はもつれ、最終的に現職優先の原則を曲げ知名度と将来性のある後藤田を推す田中の一声で後藤田公認を決定するに至った。後藤田公認に決まれば三木も自民党員としてそれに従うだろうという田中の楽観的な読みも後藤田公認決定の一因であった。

三木の逆襲編集

公認を得られなかった久次米は無所属で立候補する意思を固め自民党を離党した。それに応呼して三木派所属の国会議員たちも久次米支援に動き出した。元々三木派の議員たちの間では、決選投票で田中を支持したのにもかかわらず第一次・第二次ともに閣僚ポストが2つしか与えられず、そのポストも三木の副総理を除けば枢要なポストではなかったことから田中への反発がくすぶっていた。そして三木もまた自分が田中から軽視されたことに憤り、三木派の会合で久次米必勝の気勢をあげた。

6月6日、三木は徳島に入り6月14日の選挙公示日に向け同一選挙区での遊説としては極めて異例の1週間もの時間を徳島遊説に費やした。また、三木派所属の国会議員たちも徳島に乗り込み遊説を繰り返した。三木派の選挙活動は熾烈なもので、当初は久次米非公認の不当性を訴える内容だった演説も次第に熱を帯びはじめ、金のかかりすぎる選挙制度や金権政治への批判を行うなど暗に田中政権への批判ともとれる発言もではじめた。あまりにも激しい敵対候補への選挙活動を見かねた橋本登美三郎幹事長と江崎真澄幹事長代理が久次米の応援を自粛するよう三木派幹部の井出一太郎に申入れを行うほど事態は尖鋭化していった。

徳島では公認を得られた後藤田陣営の県議が議会や県連の主要ポストを独占するに至り、久次米陣営の県議たちにとっては選挙結果が死活問題になりかねない状態にまで追い詰められてしまっていたため、久次米陣営は後藤田有利の状況から巻き返しをはかるため何振り構わない選挙活動を展開した。一方の後藤田陣営もこれに対抗する形で強引な選挙活動を展開したため、選挙後、後藤田事務所が捜索を受けた他、両陣営から数百名という前例のない規模の選挙違反者が検挙されることとなった。三木系に属する徳島県知事武市恭信は党規に反して無所属候補を応援するわけにはいかないとして、自民党を離党した上で久次米の選挙活動を行った。

激しい選挙戦は投開票日の7月7日までの約1ヶ月間展開され、その過程で三木は反田中色を明確にし三木と田中の対立は避けられないものとなってしまった。そして、田中から離れた三木に福田赳夫が接近し、福田もまた選挙活動を通じて金権政治批判を展開し、後の三福連合の土台が醸成された。

選挙結果は久次米が19万6210票を獲得し、15万3388票に終わった後藤田を破り久次米が議席を守り抜いた。後に後藤田はこの選挙について「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。

三角代理戦争の影響編集

中央政界編集

三木と福田が接近したことで選挙直後から田中政権はぐらつくこととなった。選挙後の7月11日、三木は三木派総会で選挙総括を行い副総理辞任の意思を固めた。そして翌12日、三木は田中に辞表提出の意思を伝えた上で二階堂官房長官に辞表を提出した。その後、福田も三木に追従することが有力視される中、佐藤派分裂の後福田派に参じた保利茂行政管理庁長官は角福調整に奔走し続けた。そして、7月15日、自民党長老会議が開かれ田中福田両名に対し「物価対策に全力をあげること」「田中が福田に協力を要請すること」「次の総裁選は話し合いで決めること」を申し入れることを決定した。もっとも、長老会議は形式的なものであったため調整が功を奏すことはなかった。そればかりか、田中嫌いで知られる岸信介首相は逆に福田に辞任をけしかけさかんに倒閣を煽り続けた。7月16日、石井光次郎衆議院議長と岸信介は長老会議を代表して田中福田両名と会談するも、福田は辞任の意思を崩さず同日中に辞表を提出した。角福調整に失敗した保利もまた、調整失敗の責任をとる形で同日辞表を提出した。こうして三木と福田は連携して田中批判を強め、後の田中金脈問題で田中を政権から引きずり下ろすことに成功した。

自民党徳島県連編集

その後の徳島県では三木系と後藤田系が国政や徳島県政を巡って分裂、県議会の会派も別々となった。当初は、三木系の徳島県政への影響力は三木政権誕生と共に絶頂期を迎えていたが、その間に後藤田は地元の行脚で地盤を固め、1976年に行われた第34回衆議院議員総選挙で現役首相である三木の選挙区で後藤田が第2位で初当選する。自民党はこの選挙で議席を減らし、三木は責任を取って退陣する。以後、徳島においても三木系の影響力の低下が見られるようになった。

1977年の徳島知事選では、現職の武市が4戦出馬を表明し、自民党に公認を申請したが、反三木派は1974年の参院選で武市が無所属の久次米を支援したことなどを理由に武市の公認に反対した。両派は党本部への公認申請を決定する県連の総務会開催をめぐって対立し、反三木派は開催延期を求めた。反三木派の県連会長の小笠も総務会開催には消極的であったが,三木派は総務会の開催を強行し、武市の公認を決め、党本部に公認するよう求めた。しかし、反三木派はこの決定に反発、対立はさらに激しさを増した。公認申請を受けた党本部も対応に苦慮しており、8月30日になって武市の公認を見送り、代わって党籍証明を出すことを妥協案として提案した。その後、最終的に福田魁夫総裁名で政治団体確認申請書が徳島県選挙管理委員会に出されたことで決着、武市の公認は見送られたものの、武市は自民党を名乗ることが可能となり、自民党から事実上支援を受けることになった。

一方、武市陣営の動きに対し、反三木派の保守陣営は、社会党公明党など革新陣営と共同で県議会に武市知事4選出馬断念勧告決議案を提出、可決され、保革連合である県政刷新議員連盟を結成する。これらの背景として、社会党選出の衆議院議員である井上普方が後藤田の甥という親戚関係でもあり、また公明党選出の衆議院議員である広沢直樹も武市不支持派であり、保革連合が促進されやすい状況であった。 県政刷新議員連盟は、最終的には県議であった三木申三を擁立し、社会党は三木申三を推薦、公明党、民社党は自主投票だったものの三木申三への支持が多く、武市の対立候補となる。最終的には、武市がわずか1539票差、得票率0.4%差という僅差で三木申三を破り、4選を果たしたものの、直系の武市知事がここまで苦しい戦いを強いられたことは、三木の徳島県政への影響力の衰退を象徴していた。 そして、1979年の総選挙では、三木は後藤田を得票数では上回ったものの3位当選に終わり、戦後ずっと守ってきていた衆議院選でのトップの座を明け渡す。トップ当選したのは反三木派の筆頭で、前回の総選挙で落選した秋田大助であり、2位当選も事実上の反三木派である社会党の井上普方であった。 翌1980年には、三木の城代家老と呼ばれた久次米が第12回参議院議員通常選挙への不出馬・政界引退を表明(その後、久次米は死去)、後継である内藤健が自民党公認で当選する。内藤は、当初は無派閥であったが、同年12月に田中派である木曜クラブに入会する。 そして、1981年の徳島知事選では三木派の県議の中にも、前回の知事選に辛勝した段階で5選出馬はないと考えていた者がいたくらいで、武市に対する多選批判は厳しかった。一方、リベンジを期す三木申三は、前回に続いて無所属で出馬。社会党、公明党、民社党から推薦を得た。結局知事選では三木申三が約3万2000票差で前回の雪辱を果たし、武市を破って初当選し武市の5選を阻止、三木武夫は直系の知事を失った。直系の知事を失った三木の徳島県政への影響力は衰退の一途を辿った一方、後藤田の影響力がより強まり、1983年には、県議会選で後藤田系が三木系を抜き最大会派となった。同年の総選挙でもロッキード事件判決の影響もある中で、後藤田が初めて三木を得票数で上回りトップ当選を果たす。

1985年に、田中が病気で倒れてからも後藤田系の勢いは止まらなかった。そして、三木系が強かった徳島市でも三木系の山本潤造が徳島知事選立候補、市長選4選不出馬を表明、武市の知事時代の出納長を後継者としたが、後藤田系の三木俊治に敗れた。山本は不出馬後、徳島知事選に挑んだが三木申三が再選する。そんな中、三木は病気で倒れ、1986年の総選挙では病床から立候補するなど、衰えは明らかであった。こうした中で、1987年に三木派の県議七条明、田中派の県議山口俊一らがベテラン議員を説得し11年ぶりに自民会派が統一された[3]。そして、翌年三木が現職議員のまま死去し、その後1993年に田中も被告人のまま死去、後藤田も1996年に政界を引退し、三角代理戦争は完全に終焉した。

脚注編集

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  1. ^ 狂乱の「阿波戦争」”. 徳島新聞 (2001年3月19日). 2010年2月6日閲覧。
  2. ^ 保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』文藝春秋、2009年
  3. ^ 「阿波」の友、真っ二つ 分裂おさめた功労者 2区”. 朝日新聞 (2005年8月24日). 2010年2月6日閲覧。

関連書籍編集

  • 近藤隆行「三角代理戦争―現代阿波狸合戦の十年」(静山社)

関連項目編集