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三輪 善兵衛(みわ ぜんべえ)は、日本の化粧品販売会社丸見屋、のちにミツワ石鹸となる企業の創業家の三代の名跡である。

  1. 初代 三輪善兵衛#初代
  2. 二代 三輪善兵衛#二代目
  3. 三代 三輪善兵衛#三代目

目次

初代編集

三輪 善兵衛
Zembei Miwa
生誕 不詳
死没 不詳
職業

実業家


子供 二代目 三輪善兵衛

初代三輪 善兵衛(みわ ぜんべえ)は、日本の実業家である。

人物・来歴編集

尾張国名古屋の出身である。

1860年(万延元年)、東京市日本橋区橘町(現在の東京都中央区東日本橋)に、化粧品・装身具の問屋「丸見屋」を開業した。石鹸等の上質な輸入品を販売した[1]

二代目編集

三輪 善兵衛
Zembei Miwa
生誕 1871年
東京市日本橋区橘町
(現在の東京都中央区東日本橋
死没 1939年5月8日
職業

実業家


子供 三代目 三輪善兵衛

二代目三輪 善兵衛(みわ ぜんべえ、1871年 - 1939年5月8日)は、日本の実業家である。

人物・来歴編集

1871年(明治4年)、東京市日本橋区橘町(現在の東京都中央区東日本橋)に初代三輪善兵衛の長男・善太郎(ぜんたろう)として生まれる[2]

1884年(明治17年)、わずか13歳になるころに、家業の小間物問屋「丸見屋」を継いだ[2]。1904年(明治37年)、伊東胡蝶園と販売総代理店として提携し、「御園白粉」を販売、化粧品業界へ進出した[2]。1910年(明治43年)、「ミツワ石鹸」を発売した[2]。1911年(明治44年)、「肝油ドロップ」の発売を開始する。1915年(大正4年)、日本初の香料の研究所「ミツワ化学研究所」を発足した[1]。1925年(大正14年)、伊東胡蝶園との総代理店契約を解消した。東京市淀橋区下落合350番地(現在の東京都新宿区下落合3-10)に邸宅を構えた。

1939年(昭和14年)5月8日、死去した。満69歳没[2]。二代目が発売した「ミツワ石鹸」は、現在でも発売される商品となった。

三代目編集

三輪 善兵衛 / 三輪 善雄
Zembei Miwa / Yoshio Miwa
生誕 1920年6月8日
東京都
死没 2000年2月17日 (満79歳没)
出身校 東京帝国大学 卒業
職業

実業家


配偶者 三輪文子 (住友務の妹、住友友純の姪)

三代目三輪 善兵衛(みわ ぜんべえ)、三輪 善雄(-よしお、1920年6月8日2000年2月17日)は、日本の実業家である。

人物・来歴編集

1920年(大正9年)6月8日、父・二代目善兵衛の長男として、東京に生まれる[3]

東京帝国大学(現東京大学)を卒業後、物価庁に入庁したが、のちに丸見屋に入社する[3]1939年(昭和14年)5月8日の父・二代目善兵衛の没後、丸見屋を継ぐ[1]

1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結後、翌1946年(昭和21年)にミツワ石鹸の製造を再開する[1]。1948年(昭和23年)9月3日、28歳のときに、東京商工青年会議所(現、東京青年会議所)の設立メンバーとなり、初代理事長に就任する[3]

1955年(昭和30年)、丸見屋の工場にオートメーション設備を導入した[3]。初代からの伝統で宣伝に力を入れ、ミツワ石鹸は、1957年(昭和32年)11月3日 - 1966年(昭和41年)4月23日TBSテレビで放映されたテレビドラマ名犬ラッシー』のスポンサーとなる[1]。1960年(昭和35年)、40歳のころに社長に就任した[3]。1964年(昭和39年)、正式社名を石鹸のブランド名から、「ミツワ石鹸株式会社」に変更した。

1975年(昭和50年)、事業継続を断念し、ミツワ石鹸株式会社は倒産した[3]。三代目は55歳であった。

2000年(平成12年)2月17日、死去した[3]。満79歳没。

関連事項編集

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  1. ^ a b c d e #外部リンク欄、ミツワ石鹸公式サイト内の記事「ミツワ石鹸物語」を記述を参照。
  2. ^ a b c d e コトバンクサイト内の記事「三輪善兵衛」の記述を参照。
  3. ^ a b c d e f g コトバンクサイト内の記事「三輪善雄」の記述を参照。

外部リンク編集