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三遊亭圓歌 (3代目)

落語家

3代目 三遊亭 圓歌(さんゆうてい えんか、1932年1929年?)1月10日 - 2017年4月23日)は日本落語家俳優日蓮宗僧侶

3代目 三遊亭さんゆうてい 圓歌えんか
本名 中澤なかざわ 信夫のぶお / 中澤なかざわ 圓法えんぽう
出生名:小林 信夫
別名 三遊亭 歌奴(旧名)
生年月日 1932年1月10日
没年月日 (2017-04-23) 2017年4月23日(85歳没)
出身地 日本の旗 日本東京府東京市向島区
(現:東京都墨田区向島
死没地 日本の旗 日本、東京都
師匠 2代目三遊亭圓歌
弟子 4代目三遊亭歌笑
三遊亭歌司
三遊亭小歌
4代目三遊亭圓歌
三遊亭歌る多
三遊亭若圓歌
三遊亭歌武蔵
三遊亭多歌介
3代目三遊亭歌橘
4代目三遊亭歌奴
三遊亭鬼丸
2代立花家橘之助
名跡 1. 三遊亭歌治(1945年 - 1948年
2. 2代目三遊亭歌奴(1948年 - 1970年
3. 3代目三遊亭圓歌(1970年 - 2017年
出囃子 二つ巴
活動期間 1945年 - 2017年
活動内容 新作落語
所属 落語協会
主な作品
『授業中』
『浪曲社長』
『中沢家の人々』
受賞歴
勲四等旭日小綬章2002年
備考
落語協会副会長(1987年 - 1996年
落語協会会長(1996年 - 2006年
落語協会最高顧問(2006年 - 2017年)
生年には1929年説もあり

生年について編集

生年については1932年説と1929年説があり、落語協会公式サイト[1]では1932年1月10日となっている。これに対して1929年説は「空襲で役所が焼け、戸籍を再度届け出た際に家族が間違え、戸籍上3歳若くなったためである」としている[2]。一般的には1929年説が通っているともされていたが、4代目圓歌によれば、3代目の通夜が終わった後、飲み屋で会った岩倉鉄道学校の卒業生が1931年生まれで圓歌のことを「1年後輩」と言ったこと[3]、かつて手伝いに来ていた圓歌の母に1929年生まれが正しいのか聞いたところ「そんなに早く産んだ覚えはない」と言われたことに加え[4]、1929年説は五代目春風亭柳朝との確執の末に出てきたものだという。圓歌は日ごろから柳朝とはそりが合わず何かにつけて意地の張り合いをしていたが、ある時柳朝に「俺は昭和4年生まれだ。そっちは?」と聞かれ、負けず嫌いがゆえに1932年生まれの年下であることが言えず「俺も4年だ」と言い返し、これが定着したものだとしている[3][4]

生涯・人物編集

本名は中澤 信夫(なかざわ のぶお)とされていたが、近年の資料では中澤 圓法(円法)(なかざわ えんぽう)としている場合がほとんどである[5]出囃子は「二つ巴」。定紋は片喰。

東京府東京市向島区(現:東京都墨田区向島)出身で、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)卒業。

その後について、「運輸通信省東京鉄道局(当時の国鉄)に入局し、山手線新大久保駅駅員を務め、終戦を迎えた1945年8月に東京鉄道局を退職、同年9月2代目三遊亭圓歌に入門した[6]。」に語られることがあるが、高座の上でのネタ、漫談での語り、あるいは高座外での嘘が混ざっている話で、新大久保駅員であったことも、真偽の根拠が不明である。入門は実は1945年ではないという説があり、これはしはしば弟子の立花家橘之助らによって高座で語られている。

前座名は歌治。1948年4月、二つ目に昇進し、2代目三遊亭歌奴に改名した。1958年9月、真打に昇進した[7]

「授業中」「浪曲社長」「月給日」には登場人物に吃音者が出てくるが、それは彼自身もまた吃音者であったからである。CD「中沢家の人々完全版」によると、近所に住んでいた幼馴染で後にアナウンサーとなる小川宏が吃音者で、真似をしていたら自分もなってしまったという。落語家になった理由もそれの克服だが、入門時に(落語家への入門を懇願され)激怒した親から戸籍を外されてしまった。また、吃音者であることは駅員時代にも災いし、偶然同じく吃音者だった旧日本軍の人間の接客をしていた際、つられてどもって話していたところ、マネしてバカにしていると勘違いして激怒した軍人に危うく切り捨てられそうになった。やはり吃音癖のある2代目圓歌に弟子入りしたのは偶然であったという。以上の吃音に関する(いささか誇張も混じっていると思われる)エピソードは3代目本人の語るところによるものであるが、7代目立川談志は「あれは師匠に合わせた誇張で、(3代目)圓歌兄さんはどもっちゃいない」と生前に語っている。いずれの話も真偽は定かでない。

歌奴時代、黎明期のテレビ演芸番組に多く出演し、1960年代の演芸ブームでは売れっ子芸人の一人に目される。この時の活躍から、初代林家三平と共に「爆笑落語」の時代を築いた人物として後年に知られるようになる[6]。一時期『笑点』の大喜利メンバーとして出演[8]。この頃に自作の「授業中」で人気を博した[8]ことから、この時代の世代からは圓歌襲名後も「歌奴」と呼ばれることがあるという。

1967年昭和天皇の前で御前公演をした(演目は十八番の「授業中」であったという)と語られることがあるが、真実は不明である(他のエピソードを含め、圓歌が高座で語ったものはあくまで落語であるから真実とは限らないということを、橘之助らが高座で述べている)。

「浪曲社長」を自作したことからもわかるように浪曲好きで、木村若衛に弟子入りまでした[9]

1970年9月、圓歌を襲名したとされるが真偽は定かではない。以後はテレビ出演を控え、高座に専念。1971年文化庁芸術祭優秀賞受賞。

1985年出家日蓮宗久遠寺修行し、法号「本遊院圓法日信」を名乗り、噺家と僧侶の二足の草鞋を履く。

1987年、当時の落語協会副会長6代目蝶花楼馬楽の死去に伴い、副会長に就任。1992年浅草芸能大賞大賞受賞。1996年8月、5代目柳家小さんの後任で、8代目会長就任[6]2006年6月から最高顧問に就任。後任の会長は、2001年に死去した3代目古今亭志ん朝の後任で副会長に就任した5代目鈴々舎馬風である。

得意演目は、新作では「授業中(山のあな)」「浪曲社長」「月給日」「電報違い」「我孫子宿」「中沢家の人々」「天皇陛下、初めて落語を聴く」「円歌の道標」[10]など。古典では、「替わり目」「坊主の遊び」「西行」[6]「三味線栗毛」「紺田屋」「品川心中」[6]宮戸川」「湯屋番」など。

1967年[11]から2015年まで東京都千代田区六番町に在住し、住んでいた自宅は作家有島武郎の旧家であったと「中沢家の人々」で語られるが真偽は不明。2015年からは湯島のマンションに住んでいた[11]。関係者によれば「最後まで高座に上がり続けるために鈴本演芸場に近い場所を選んだ終活ではないか」としている[12]

圓歌襲名後、仏門に入門。「中沢家の人々」では、前妻の死去をきっかけだと語られるが真偽は不明。高齢となってからの入門だったため、お経を唱えながら水垢離を行っている最中に心筋梗塞で倒れ、東京女子医大病院へ搬送されたとこちらも「中沢家の人々」で語られるが、真偽は不明。この一件について、後に圓歌は「寺から病院に行ったのは俺くらいだ[13]」、「俺が退院した後に、同じ病室に逸見政孝ら著名人が立て続けに入院して亡くなっていった。俺は良いタイミングで出てきたな(と、高座で話したところ、東京女子医大から誰もその病室に入りたがらないとクレームが来た)」「マスコミからの問い合わせに対し、三遊亭小円歌(当時。現:立花家橘之助)が誤って『病状は近親相姦です』と答えた。なんで俺が親と寝なきゃならねぇんだ!」などと、「中沢家の人々」のネタにしている。

一時、自分の両親、亡くなった前妻の両親、再婚した妻の両親と計6名と同居し、朝6人で丸く机を囲んでお茶を飲んでいる、遠くから見てたらまるで恐山だよ」など、数々のエピソードを語っているが、ネタである。

それまでの落語界ではありえなかったことをいくつか始めており、「落語界の異端児」を自称している。例として次のようなことが挙げられる[14]

  • 黒以外の色の紋付きを着て高座を務める。元々、落語界では黒紋付きを着て高座を務めるのが慣例であったが、「お葬式じゃねぇんだから何人も黒紋付きで出ることはねぇ」との理由でこれを破った。
  • 眼鏡を掛けて高座を務める。元々、極度の近視で眼鏡なしでは客席もよく見えないためであった。
  • 江戸落語界では初めて女流の弟子として、1980年に立花家橘之助(当時の前座名「あす歌」。三味線漫談)、1981年三遊亭歌る多(当時の前座名「歌代」)を取り、育て上げた。このうち、歌る多は1993年に落語協会初の女流真打に昇進している。
  • 居酒屋でたまたま出会ったハドソンの創業者の工藤裕司と話が合い、弟子に誘い「三遊亭あほまろ」という名前を与えている。

落語協会で初めて、副会長から会長になった人物でもある。副会長時代、病気療養を理由に前会長の5代目柳家小さんから次期会長を頼まれ、引き受けた。「馬風なんて俺殺せば会長になる会長になるって[15]、あいつ知らねえんだ。代々副会長ってのは会長より先に死ぬもんだ」と、新作落語「昭和の噺家」でネタにしている。

副業として伊豆長岡に「三遊亭」というしゃぶしゃぶ店を経営していた。「中沢家の人々」によれば、この店は自分の二番目の弟に仕切らせていたという。

2017年4月23日、結腸がんによる腸閉塞のため、東京都内の病院で死去とされるが、真偽は不明。享年85(1929年説では88)。[16]。関係者によれば、亡くなる前年末頃から体調がすぐれず、高座を降りてから弟子に抱えられて舞台袖に向かう姿が見られたといい[17]、死の3か月ほど前の1月4日に鈴本演芸場で弟子とともに座談会を開いたが、結果的にこれが最後の高座となった[11]。4月27日に東京・青山葬儀所で「落語協会葬」(葬儀委員長・柳亭市馬落語協会会長)が執り行われた[16]

芸者好きで、妻和子夫人は伊豆長岡の芸者で、亡くなった前の妻令子夫人は向島の芸者だった。

出演編集

テレビドラマ編集

映画編集

テレビアニメ編集

劇場アニメ編集

バラエティ編集

音楽番組編集

CM編集

著書編集

音楽作品編集

  • 落語野郎/ハイ 授業中(キングレコード)(1967年)
    • 2代目歌奴時代に出したシングルレコード。B面の「ハイ 授業中」は、自身の代表演目「授業中」を歌にしている。
  • 羽織の花道/落語人生(キングレコード)(1969年)
  • 襲名 これで男が立ちました/なぜなぜ人生(ミノルフォンレコード)(1970年)
    • 3代目三遊亭圓歌を襲名した際に出したシングルレコード。

弟子編集

廃業編集

  • 三遊亭歌扇(歌奴時代の弟子。町奴から改名。廃業。)
  • 先代三遊亭歌扇(本名:玉井風、旧名:三遊亭歌せん、2002年廃業)
  • 三遊亭歌すみ

脚注編集

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  1. ^ 一般社団法人 落語協会のHP
  2. ^ 13歳で国鉄勤務!?三遊亭圓歌の生年月日が違うワケ - スポニチアネックス 2015年12月11日
  3. ^ a b 師匠亡くし小平奈緒の言葉に救われた4代目円歌”. 林尚之「舞台雑話」. 日刊スポーツ. 2019年3月20日閲覧。
  4. ^ a b 「追悼 三遊亭圓歌 円歌一門門弟による追悼座談会」『東京かわら版』第530号、東京かわら版、2017年、 16-19頁。 p. 17
  5. ^ CD「中沢家の人々完全版」、落語協会HP、東西寄席演芸家名鑑など。円法は僧侶としての名前である。僧侶になれば本名を変更することがあるが、圓歌が戸籍名を変更したとする資料は存在せず、詳細は不明。
  6. ^ a b c d e 日本経済新聞夕刊 2017年4月24日
  7. ^ 戦後入門した噺家の中で真打第1号。
  8. ^ a b ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』122ページ
  9. ^ 浪曲での名は「木村歌若」を頂戴している
  10. ^ 年金や客席にいる客の話をした後に「中沢家の人々」の一部を話す内容
  11. ^ a b c 「追悼 三遊亭圓歌 円歌の道標」『東京かわら版』第530号、東京かわら版、2017年、 29頁。
  12. ^ 三遊亭圓歌さん追悼秘話 最後まで寄席にこだわり“終活”、「山のあな、あな」は自らの吃音経験笑いに - ZAKZAK 2017年4月25日
  13. ^ 普通は病院で亡くなってから寺へ行き、葬式を行う。
  14. ^ 円歌さん、落語界の「暗黙のルール」破り続けたワケ - 日刊スポーツ 2017年4月27日
  15. ^ 馬風の持ちネタである「会長への道」の一節である。
  16. ^ a b 三遊亭圓歌 訃報 - 一般社団法人 落語協会 2017年4月24日
  17. ^ 三遊亭円歌さん死去 85歳 テレビ創生期に三平、円楽らと落語人気支える - スポーツニッポン 2017年4月24日
  18. ^ Best100 Japanese Commercial Films 昭和のCF100選 1961-88 p.56 日本テレビコマーシャル連盟編集 誠文堂新光社

関連項目編集

外部リンク編集