上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年大正9年)7月31日 - 2018年平成30年)4月16日)は、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)出身の画家。独学で洋画を学んだ後に吉原治良に師事し、具体美術協会の結成に参加した。

上前 智祐
うえまえ ちゆう
誕生日 1920年7月31日
出生地 京都府中郡奥大野村
(現・京丹後市大宮町奥大野)
死没年 (2018-04-16) 2018年4月16日(97歳没)
運動・動向 具体美術協会
芸術分野 洋画
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経歴 編集

1920年(大正9年)7月31日、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)1459番地に生まれた[1]。父は上前由蔵、母は永濱里ん。1歳だった1921年には父の由蔵が死去した[1]。1927年(昭和2年)3月の北丹後地震では家屋が倒壊し、下敷きになりそうなところを巫女に助けられた[1]。同年には奥大野村倉垣尋常小学校に入学した[1]。1932年(昭和7年)には舞鶴市の中村京染洗張り悉皆店に丁稚奉公に出たが、ここで経験した縫い作業がその後の創作活動の原点となった[1]。1939年(昭和14年)には鶴井組の黒木政男の部屋に入り、絵画から離れて生活が荒れた[1]。1940年(昭和15年)には上京し、月島の吾妻製鉄所の下請け業者の家に同居したが、同年4月には帰郷して舞鶴海軍工廠経理部に就職した[1]。この頃には通信教育で絵画を学び、美術雑誌を購読したり古本を読むなどしている[1]

1942年(昭和17年)には木村荘八の『美術講座』を読んで洋画に転向し、舞鶴市で鶴美会の結成に参加した[1]。1944年(昭和19年)6月1日には教育召集を受けて中部37部隊に応召され、同年12月1日には八丈島で陸軍一等兵となった[1]。八丈島で1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎え、復員して舞鶴に戻った[1]。1947年(昭和22年)からは黒田重太郎に師事し、同年には二紀会第1回展で初入選している。1949年(昭和24年)には神戸市川崎造船所に入社し[2]、同年には小谷徳枝と結婚した。以後はクレーンマンとして、川崎重工業神戸製鋼所の工場で60歳まで勤めた[3]。1951年(昭和26年)には長男の智明が生まれ、1953年(昭和28年)には長女の智里が生まれ、1958年(昭和33年)には次男の祐二が生まれている[1]

1953年(昭和28年)11月9日には吉原治良と出会い[4]、自作を吉原邸に持参するなどして批評を受けた[1]。同年には西舞鶴図書館においてクレパス画とデッサンによる個展を開催した。1954年(昭和29年)8月頃には具体美術協会の結成に参加した[5]。1960年(昭和35年)には神戸市垂水区舞子坂に自宅を新築し、川崎重工業の家族寮から転居した[1]。1972年(昭和47年)3月10日には吉原が死去し、3月31日には具体美術協会も解散した[1]。また、モダンアート協会にも1970年(昭和45年)まで在籍した。

作風 編集

初期の人物画や風景画の作品も数点あるが、具体美術協会の結成以後には一貫して非具象(抽象)を追求した作品を制作し続けた。平面のみならず立体的な作品もあり、布や糸を使った作品もある。技法としてはシルクスクリーン銅版画などの作品もある。

受賞・受章 編集

  • 1999年(平成11年) - ブルーメール賞
  • 1999年(平成11年) - 紺綬褒章
  • 1999年(平成11年) - 兵庫県文化賞
  • 2014年(平成26年)- 井植文化賞
  • 2015年(平成27年) - 神戸市文化賞

主な展覧会 編集

脚注 編集

参考文献 編集

  • 『丹後の前衛 小牧源太郎・上前智祐展』京丹後市教育委員会、2014年