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上山城
山形県
模擬天守
模擬天守
別名 月岡城
城郭構造 平山城
天守構造 不明
(望楼型3層5階、鉄筋コンクリート造模擬)1982年
築城主 武衛義忠
築城年 1535年
主な改修者 松平(能見)重忠
主な城主 上山氏、小簗川氏、藤井松平氏ほか
廃城年 1873年
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守
位置 北緯38度9分26.99秒
東経140度16分34.28秒

上山城(かみのやまじょう)は、山形県上山市にあった日本の城である。別名、月岡城江戸時代には上山藩の藩庁が置かれた。

目次

歴史編集

南北朝時代天童頼直(最上氏の祖斯波兼頼の孫)の子上山満長が上山に配されたことに始まる。満長は上山市松山の虚空蔵山に高楯城を築き居城とした[1]永正5年(1508年)に伊達氏がこの城を攻め落とし、城主上山義房は逃亡。伊達家臣小簗川貞範がこの地に入った。永正17年(1520年最上義定の死去に伴う混乱に乗じて義房が兵を挙げるものの伊達稙宗と戦って討死する。天文4年(1535年)上山義房の子武衛義忠が城を奪還。義忠によって天神森に改めて築城された平山城が現在の上山城である。以後城主は武衛義節、そしてその子上山満兼と続く。この頃、天童氏は最上八楯を形成し、最上義光と対立。満兼も天童一門として義光に従う事を拒否し、伊達氏とともに山形を攻めるなどした。しかし天正8年(1580年)義光は里見民部を寝返らせて上山城を攻め落とし、城主満兼は討死。代わって里見民部が上山城主になった。江戸初期に最上氏が改易された後は、没落した諸大名が3万石から4万石で入部し、城主を務める氏族がめまぐるしく変わるが、上山藩自体は幕末まで存続した。本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠が取り巻いていた。藤井氏時代は天守はなく、二の丸に居館が設けられていた。

金森家が転封された際に一度破却されたが、破却前は本丸に三重の天守や各所に櫓門がある近世城郭であり、月岡・天神森にそびえるその壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていた。藤井松平家が封じられた際に上山城は再興されたが、二の丸に居館を設けた程度の城構えであり明治を迎えた。

歴代藩主は上山藩に詳しいが、能見松平家2代(4万石)、蒲生家1代(4万石)、土岐家2代(2.5万石、後3.5万石)、金森家1代(3.87万石)と目まぐるしく藩主が入れ替わった後、藤井松平家が封じられた。その後明治維新まで藤井氏が当地を治め、10代(3万石)信安の代まで居城として用いた。しかし明治時代に入ると廃城令の影響で1873年より取り壊されたり、払い下げられたりして廃城となった。

城跡は月岡公園および月岡神社境内となり、1982年に二の丸跡に3層の模擬天守が建立された。模擬天守の内部は、郷土歴史資料館として利用されており、季節によって、雛人形展や鎧などの収蔵品展、刀剣展といった催しが行われている。

遺構等編集

遺構編集

本丸西側に西内堀が残り、この他、土塁、石垣の一部と庭園が現存している。

移築建造物編集

建造物としては、薬医門形式の門が山形県南陽市の旅館「いきかえりの宿 瀧波」に、城内にあった兵糧米保管庫の籾蔵が市内御井戸丁の鈴木家に、それぞれ移築され現存している。

観光編集

交通
山形県上山市元城内3-7
開館時間
午前9時 - 午後4時45分
休館日
年末、7月第3週の月曜 - 金曜までの5日間
入館料
大人 410円、高校・大学生 350円、小中学生 50円(団体割引あり)

脚注編集

  1. ^ 『山形県中世城館跡調査報告書(村山地区)』p.66

参考文献編集

  • 山形県教育委員会『山形県中世城館跡調査報告書(村山地区)』、1996年

関連項目編集

外部リンク編集