上田氏(うえだし)は、日本氏族。著名な氏族・家に次のようなものがある。

  1. 大江広元の孫佐房を祖とする中世武家の氏族(→大江氏系の上田氏)。
  2. 武蔵七党西党の系統の中世武家の氏族(→武蔵七党の上田氏)。
  3. 近世に広島藩家老家、近代に華族男爵家となった家(→広島藩家老家→男爵家の上田家)。
  4. 上田有沢陸軍大将の勲功により華族男爵家に列した家(→上田有沢男爵家)。

大江氏系の上田氏

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鎌倉幕府初代政所別当大江広元の孫佐房を祖とする上田氏。承久の乱の際に広元の長男の京都守護大江親広は朝廷軍に付いたが、親広の子佐房は幕府側に付き、木曽川の先で朝廷軍を破った戦功により佐房に信濃国上田荘を与えられ、上田氏の祖となる[1]。しかし佐房の孫泰広弘安8年11月17日(1285年12月14日)の霜月騒動で22歳で戦死した[2]

系図

「安中坊系譜」[3]

政所別当
大江広元
 
遠江守
親広
 
尾張守・左近将監
佐房
 
佐泰[4]
(又太郎)
 
兵庫介広真
 
泰広[5]
(又八郎/宗阿)
 
盛広[6]
(熊若丸/孫太郎)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐々木氏信
の娘[7]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
泰元[8]
(熊鶴丸)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐々木広宗[9]
 
佐々木宗清(道観)[10]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾張守
佐時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長広[11]
(孫二郎)
 
佐長[12]
(孫三郎)
 
光佐
(孫三郎)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐広
(少輔六郎)
 

武蔵七党の上田氏

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武蔵七党西党の系統で、扇谷上杉氏の家臣の家系。松陰私語に戦巧者として「道灌父子(父:太田道真)、上田・三戸・萩野谷」の名が見える。

広島藩家老家→男爵家の上田家

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上田家
 
本姓 清和源氏小笠原氏庶流
種別 武家
士族
華族男爵
主な根拠地 尾張国
安芸国
広島県広島市
支流、分家 旗本上田家(武家,士族)
凡例 / Category:日本の氏族

江戸時代の広島藩家老家で明治以降に華族の男爵家となった上田家は、信濃小笠原氏の一族と称す[14]

尾張国愛知郡星崎(現:愛知県名古屋市南区)に移住して丹羽長秀に仕えていたが、上田重安の代に浅野長晟に仕えた[14]。重安は剃髪後に宗固と号して茶人として活躍し、上田流の一派を起こした[15]

その子孫は江戸時代には広島藩家老家として続き、1万7000石を知行した[14]。また重安の次男重秀の家系は近江国野洲郡で5000石を知行する旗本家として続いた[14]

維新後ははじめ士族に列したが、明治17年(1884年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『爵位発行順序』所収の『華族令』案の内規(明治11年・12年頃作成)や『授爵規則』(明治12年以降16年頃作成)では旧万石以上陪臣が男爵に含まれており、旧広島藩家老家の上田家も男爵候補に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では旧万石以上陪臣は授爵対象外となったためこの時点では上田家は士族のままだった[16]

明治15年・16年頃作成と思われる『三条家文書』所収『旧藩壱万石以上家臣家産・職業・貧富取調書』は、当時の当主上田亀次郎について所有財産は空欄、職業は広島県社饒津神社祠官と記されている[16]

旧万石以上陪臣の叙爵が開始されていた時期である明治33年(1900年)5月9日に至って亀次郎は華族男爵に叙せられた[16]

その息子宗雄の代に上田男爵家の邸宅は広島県広島市古田町古江にあった[15]

上田有沢男爵家

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上田家
 
家祖 上田有沢
種別 華族男爵
出身地 阿波国
主な根拠地 東京府東京市
凡例 / Category:日本の氏族

華族の男爵に叙せられた上田有沢陸軍大将の家。有沢は徳島藩上田秀高の息子で、分家して一家を創立した[17]。明治初年に陸軍に入隊。萩の乱、西南戦争、日清戦争などで武功を挙げる[17]。日露戦争中に第五師団長、台湾守備軍司令官として功があったため、明治40年9月に華族の男爵に叙せられた[17]。さらに近衛師団長や朝鮮駐劄軍司令官を務め、明治45年に大将昇進[17]

大正10年11月30日に有沢が死去すると、長男上田兵吉が爵位と家督を相続[17]。兵吉も陸軍軍人となり、日清日露で武功を挙げ、その後侍従武官長も務め、大正6年に陸軍少将に昇進するとともに第24旅団長に就任した[17][18]。昭和6年9月6日に兵吉が死去した後は、その長男が爵位と家督を相続[17]。稔も陸軍軍人で陸軍工兵大佐まで昇進した[17]

昭和前期の上田男爵家の住居は東京市渋谷区千駄ヶ谷にあった[19]

脚注

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  1. ^ 「大江広元と息子たち一族の盛衰」横浜歴史研究会 長尾正和
  2. ^ 太田 1934, p. 721.
  3. ^ 『寒河江市史 大江氏並びに関連史料』p.93
  4. ^ 宝治元年(1247年)早世。
  5. ^ 北条時宗の死去により出家、霜月騒動で安達氏に与し討死。42歳。
  6. ^ 霜月騒動の時15歳で自害。
  7. ^ 『群書系図部集 3, 第 2 巻』p.298 佐々木系図。
  8. ^ 霜月騒動の時10歳で自害。
  9. ^ 佐々木氏信の養子となり佐々木少輔弥二郎を名乗った。
  10. ^ 霜月騒動で討死
  11. ^ 信濃国井上入道の婿となる。
  12. ^ 信濃国井上に住んだ。
  13. ^ 東松山市平成22年度きらめき市民大学課題研究のまとめ「歴史探訪 武蔵松山城から陣屋まで 郷土学部B班」
  14. ^ a b c d 森岡浩 2012, p. 91.
  15. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 484.
  16. ^ a b c 松田敬之 2015, p. 135.
  17. ^ a b c d e f g h 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 237.
  18. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 644.
  19. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 643.

参考文献

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  •  太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 上田 ウヘダ」『姓氏家系大辞典』 第1、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年4月1日、719頁。 NCID BN05000207https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/433 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724 
  • 森岡浩『日本名門・名家大辞典』東京堂出版、2012年(平成24年)。ISBN 978-4490108217 
  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994年
  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001年