与根飛行場(よねひこうじょう)あるいは 海軍糸満秘密飛行場は、第二次世界大戦中日本軍が沖縄に建設、あるいは建設中だった18の飛行場の一つで、沖縄県糸満市の海岸から豊見城の与根にあった。1944年夏頃から建設が始まるが、未完のまま沖縄戦を迎えた。戦後、米軍が接収し負傷兵を野戦病院に送る小型機用の小飛行場として使用した。戦後の基地としての使用は確認できなかった。

与根飛行場
海軍糸満秘密飛行場
沖縄県豊見城市与根
Itoman (Yone) cub Airfield.png
1945年12月10日米軍撮影空中写真
沖縄戦とその後、米軍が小飛行場として利用
旧日本軍が建設した飛行場.png
旧日本軍が沖縄島に建設した飛行場
施設情報
管理者旧日本陸軍
歴史
建設1944

概要編集

日本海軍 与根飛行場編集

1944年3月22日、大本営命令により大本営直轄の第32軍 (沖縄守備軍) が新設され、第32軍と台湾軍に「十号作戦準備要綱」が発令された。これにより、小型特攻機用の発進基地として、3つの飛行場の建設が始まった。

また日本海軍も小禄飛行場の補助飛行場として糸満と豊見城村与根にまたがる平地に秘匿の飛行場を計画し、土地を接収、1944年12月31日に建設が始まった[1]

  • 与根飛行場(糸満秘密飛行場)

いずれの飛行場も、未完成のままアメリカ軍の上陸をむかえ、使用されないまま放棄された。

 
西海岸の台地の小飛行場。大砲を設置するパイパーL-4機や傷病兵救助用のヴァルティL-5機が利用する。(1945年7月16日 米空軍撮影)

米軍による使用編集

1945年6月10日、沖縄戦で南下する米軍は糸満まで到達するが、南部の激戦地から負傷した兵士を退避させる際の水上経路の確保は、沖のサンゴ礁と日本軍の攻撃のために不可能であった。そのため負傷兵を L-5 連絡機を使って退避させることが開始された。連絡機は糸満の北のコンクリートの道路を利用した与根の小飛行場 (cub strip) に着陸し、そこから患者を北谷の野戦病院に運ぶというものだった[2][3]

沖縄戦終結の後、1945年12月の空中写真では滑走路が西側に作り直されているように見えるが、米軍がこの飛行場の継続使用の状態は資料からは確認できなかった[4]

戦後編集

民有地であったため、戦後、自然発生的に地主が使用を開始した[5]

参考項目編集

脚注編集

  1. ^ Okinawa City, A Guide to Battle Sites and Military Bases in Okinawa City (2012), p. 11. PDF
  2. ^ HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 16]”. www.ibiblio.org. 2022年3月20日閲覧。
  3. ^ 写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館”. www2.archives.pref.okinawa.jp. 2022年3月20日閲覧。
  4. ^ Location Map (Restricted) Base Development Facilities and Area Assignments Okinawa-Ie Shima, 31 August 1945, drafted and overprinted by 3020th Engr. Top. Co. (Corps)
  5. ^ 沖縄県「旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書 第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」