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世尊寺 行尹(せそんじ ゆきただ、弘安9年(1286年) - 正平5年/貞和6年1月14日1350年2月21日))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿能書家従二位経尹の第4子[1]で、世尊寺家第12代当主となり、官位従三位宮内卿に至る。後世、藤原行成世尊寺行能とともに世尊寺流の三筆と称された[2][3][4]

目次

略歴編集

行尹は延慶2年(1309年)に正五位下、延慶4年(1311年)に左兵衛権佐文保2年(1318年)に従四位下に昇進した。しかし、それ以後20年間の動向がはっきりしない。『入木口伝抄』によると、行尹は文保のころ、籠絡されて鎌倉に没落したとある[5]

第11代当主である兄の行房延元2年/建武4年(1337年)3月、金ヶ崎城落城時に自刃し、世尊寺家は年若い当主を失った。そして、行尹が第12代当主となり、世尊寺家は命脈を保つことができたが、行尹がいつ鎌倉から戻ったのか、その詳細は不明である。ただし、『公卿補任』によると兄の死の翌年(1338年)1月に行尹は従四位上に昇進したとあり、20年ぶりに官位が変化している。よって、このころに行尹はに戻り、世尊寺家の家督を継いだと考えられる。

行尹は延元4年/暦応2年(1339年)1月に宮内卿、翌年4月に正四位下に昇進し、それ以後、能書活動が記録されるようになった。その記録は『園太暦』に詳しく、興国5年/康永3年(1344年)から正平3年/貞和4年(1348年)までの活動が見え、特に晩年期の活躍が著しい。例えば、「正平2年/貞和3年(1347年)9月25日、光厳上皇広義門院が竹林院入道西園寺公衡三十三回忌仏事を営むにあたり、菅原在成起草の願文を清書す。」[6]などとある。

興国7年/貞和2年(1346年)、従三位に至るが、能書のゆえの栄進である。宮廷で持明院統北朝)と大覚寺統南朝)とが対立する中、行尹は北朝に仕え、公式の書役をつとめた。南北両朝の戦塵の中に行尹の能書活動が迎えられたのである。行尹の真跡として、『七首和歌懐紙』[7]、『五首和歌懐紙断簡』[8]、『諸徳三礼』[9]などが伝えられるが、確実なものは遺っていない。しかし、三条西実隆日記実隆公記』に、行尹の書いた伝奏番文筆跡を称賛した記録があり[10]、彼の筆跡が優れていたことは明らかである[2][4][11][12]

行尹は兄・有能の子である行忠養嗣子に迎えた。行忠は第13代当主となり、正二位参議に至り、家門の面目を十二分に発揮した[2][11]

尊円法親王と世尊寺家編集

行房・行尹の兄弟は尊円法親王書法の指導を行った。尊円法親王は、『入木抄』という書論の著者として、また、御家流の創始者として日本の書道史上、欠くことのできない存在であり、その書流明治時代になるまで和様書道の中心的書風として知られる。

御家流(尊円流)の流行
室町時代後期に一条兼良が編纂したとされる『尺素往来』によると、「近日は、尊円親王の書が流行の兆しを見せはじめ、全国津々浦々で行われた。(趣意)」[13]とある。また、『六朝書道論』付録の「六名家書談」で日下部鳴鶴は、「徳川末期の書風は尊円親王から出た御家流といふ書風が行はれて居(を)って、当時に在っては、御家流にあらざれば書にして書にあらずといふやうな偏見が一般の頭脳に留まって居ったことは事実である。(中略)当時の公文書は御家流に限られてあったから一般民間の書風も、全然御家流の天下であったのである。」と記しているように、御家流(尊円流)は室町時代後期から明治時代の初期に至るまで全国に広まっていたことがわかる[14][15]

正平7年/文和元年(1352年)11月14日、尊円法親王が55歳のとき、行房・行尹兄弟から受けた秘説を思い出すままに記した『入木口伝抄』という本が遺っており、その奥書に、尊円法親王と世尊寺家との関係を語っている。以下、その内容を要約する[11]

『入木口伝抄』の奥書
応長元年(1311年)12月、尊円法親王は14歳で入木道を志し、経尹を師匠として入門を要請した。経尹は尊円の腕前を知るため、覚尹僧都(経尹の第5子、延暦寺)を使いとして、尊円の筆跡を要求してきた。尊円は一紙を書き送ったところ、見所があるから稽古を積むようにとの返答が来たが、経尹はすでに65歳であったので、老体を理由に師範を拒否し、代わりに子の行尹を「器量の者」として推薦してきた。そして、尊円は行尹について16歳までの2年間、精進を重ね、行尹も熱心に教えた。尊円はぐんぐんと腕をあげていったが、17歳になると尊円は修行が忙しくなり、手習いの時間がなくなった。文保のころに、行尹は籠絡されて鎌倉に没落したので、尊円は師匠を失ってしまったが、行尹が帰洛するまでの間、行尹の兄・行房が代わりに多くの口伝を授けてくれた[4][11][12]

『入木口伝抄』には、秘伝を受けた年月日が記録されており、それによると、元亨2年(1322年)3月25日(尊円25歳)からの記録となる。この時、行尹はすでに鎌倉にいたので、この聞書の執筆は行房を師匠としてからのことである。例えば、「嘉暦三年四月八日行房朝臣来。額事習之。問云、(中略)。答云、(後略)」などとあり、その質疑が問答形式によって示されている。帰洛してからの行尹の講説もある[11][12]

脚注編集

  1. ^ 渡部清 p.127
  2. ^ a b c 村上翠亭 pp..116-117
  3. ^ 春名好重 pp..106-107
  4. ^ a b c 小松茂美(上) pp..226-227
  5. ^ 入木口伝抄』に、「文保之比、行尹朝臣牢籠没落于関東。」とある(小松茂美(上) p.204)。
  6. ^ 小松茂美(上) p.227、渡部清 p.129
  7. ^ 署名に「虎若丸」とある(小松茂美(下) p.134)。
  8. ^ 署名に「道成」とある(小松茂美(下) p.134)。
  9. ^ 署名なし(小松茂美(下) p.135)。
  10. ^ 実隆公記』に、「伝奏番文於御前拝見。殊勝手跡也。行尹卿筆歟。」とある(渡部清 p.129)。
  11. ^ a b c d e 小松茂美(上) pp..203-206
  12. ^ a b c 渡部清 pp..127-130
  13. ^ 尺素往来』に、「近日者、和字、漢字、共ニ以青蓮院尊円親王ノ御筆為規範。而都鄙翫之。」とある(渡部清 p.41)。
  14. ^ 渡部清 pp..41-42
  15. ^ 日下部鳴鶴 p.212

出典・参考文献編集

関連項目編集