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世尊寺(せそんじ)は、奈良県吉野郡大淀町比曽にある曹洞宗の寺院である。
古くは比蘇寺(ひそでら)と呼ばれ大規模な伽藍を構えていたが、現在の世尊寺は江戸時代に整備縮小して再興されたもの。かつての寺域は、1927年昭和2年)4月8日に「比曽寺跡」として、国の史跡に指定されている。聖徳太子霊跡第7番。

世尊寺
世尊寺 20100405.JPG
山門
所在地 奈良県吉野郡大淀町比曽762
位置 北緯34度24分16.7秒
東経135度49分52.7秒
座標: 北緯34度24分16.7秒 東経135度49分52.7秒
山号 霊鷲山
宗派 曹洞宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 飛鳥時代頃
開基聖徳太子
別称 吉野寺、比蘇寺、現光寺、栗天奉寺
札所等 聖徳太子霊跡7番
文化財 史跡(国指定)
木造十一面観世音菩薩立像(県文化財)
公式HP 曹洞宗霊鷲山世尊寺
法人番号 2150005007486
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歴史編集

古くは、吉野寺、比蘇(比曽)寺、現光寺、栗天奉寺とも呼ばれ、聖徳太子が建立した48か寺の一つと伝えられている。同寺に残っている瓦や伽藍配置などから、少なくとも飛鳥時代7世紀後半)には存在していたようである。 奈良時代には、吉野寺比曽山寺と呼ばれ、後述する現光寺の由来となった仏像が安置された。渡来僧の道璿は晩年、比蘇山寺に入り、修禅に精励し他と伝わる。また著名な僧侶・神叡が住み、20年間三蔵を学んで自然智を得たという。平安時代には宇多上皇藤原道長などが吉野への参詣の途中に訪れ、大いに栄えたが、その後は衰退した。 鎌倉時代に入り、1279年弘安2年)に金峰山から春豪聖人が比蘇寺に移り、再興に努めた。また西大寺を復興した叡尊留錫により真言律宗となっている。さらに1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)には文観が先達となって後醍醐天皇が行幸し「栗天奉寺」と命名され、勅願寺となっている。

その後、再び衰退し荒廃するが、江戸時代に入って、伽藍を整備縮小し禅宗寺院として、霊鷲山・世尊寺と改め復興し、現在に至る。

現光寺の由来編集

現光寺という寺院名に関しては、本尊の阿弥陀如来座像と木造十一面観世音菩薩立像が光を放っていたことに由来している。このことは、古くは日本書紀に載せられている。

  • 阿弥陀如来座像
日本書紀巻第十九 欽明天皇の条。治世14年夏5月
河内国から「泉郡の茅渟の海(大阪湾)から、雅楽の音が聞こえ、それは雷のように響くほどで、また、麗しく照り輝き日の光のようです」との報告があった。天皇はあやしんで、溝辺直(いけべのあたい)を使わし、海の中を探させた。溝辺直は海の中で照り輝く樟木を見つけ、これを取って持ち帰り、天皇に奉った。天皇は匠に命じて、仏像2体を造らせた。これが今の吉野寺に光を放っている樟の仏像である。
  • 木造十一面観世音菩薩立像
日本書紀巻第二廿 推古天皇三年三月 または 聖徳太子伝暦
土佐国の南海に毎夜、雷光のように光を発する「沈水香(じんすいこう)」という木があり、翌四月には、淡路島に漂着した。島人は、これを薪として火にくべたところ、非常に良い香りがしたので、天皇に献上した(香木の日本の史書における初見)。
これを見た聖徳太子は、この木が南海に自生する栴壇(せんだん)という香木からできた沈水香であると、天皇に奏上した。天皇は喜び、匠に命じて、この香木で観音像を作らせ、吉野の比蘇寺に祀った。この像は、時々光を放った。

現存する東塔編集

 
三井寺の三重塔

比蘇寺には東塔と西塔があったが、そのうち東塔の三重の塔は、1594年文禄3年)豊臣秀吉によって伏見城に移され、さらに1601年慶長6年)に徳川家康によって近江園城寺(三井寺)に移建され、現在も残っている。なお、西塔は戦乱により焼失している。

その他編集

江戸時代には、松尾芭蕉が訪れて、句を残している。句碑は納骨堂の裏にある。

「世にさかる 花にも念佛 まうしけり」

建造物編集

  • 本堂
  • 太子堂 - 奈良県指定有形文化財(建造物)
  • 山門(一の門) - 江戸時代初期に吉野山から移転。
  • 中門(二の門) - 江戸時代、享保年間に建立

文化財編集

  • 木造十一面観音立像 - 奈良県指定有形文化財(彫刻)
  • 現光寺縁起絵巻
  • 比曾寺跡 - 国の史跡

アクセス編集

近鉄吉野線六田駅より奈良交通バス「比曽口」下車、徒歩15分。

よどりバス、幹線ルート・循環ルート「北野台5丁目」下車、徒歩5分。

よどりタクシーに「世尊寺前(東6)」という乗降場所があるが、利用できるのは、事前登録を済ませた大淀町民に限られる。

外部リンク編集