中央新聞
中央新聞(ちゅうおうしんぶん)は、1891年(明治24年)8月16日から1940年(昭和15年)まで、東京で発行された新聞。1910年(明治43年)以降、立憲政友会の機関紙だった。
歴史編集
1883年(明治16年)1月22日から発行された小新聞の『絵入朝野新聞』は、1889年5月5日、号数を通計しながら『江戸新聞』と名を変えた[1]。
1890年(明治23年)6月、大岡育造がそれを買収して『東京中新聞』と改名し、さらに1891年8月16日、『中央新聞』とした。紙面は大岡の政治的足取りにつれ、1892年6月から国民協会の、1900年9月から立憲政友会の、機関紙的に編集された。伊藤博文が立憲政友会の総裁だった。社屋は、1905年まで、現在の銀座三越の所にあった[2]。
1905年(明治38年)9月、日露戦争後の講和条件を不満とする日比谷焼打事件の時は、自重を説いた。
1910年(明治43年)5月、立憲政友会が大岡から買い取って機関紙とし、合資会社組織に変え、鶴原定吉が社長に就いた。社屋は、麹町区内山下町(現・内幸町一丁目)の政友会の所へ移った。
1914年(大正3年)のシーメンス事件では、山本権兵衛内閣を支持して、非難の群衆に襲撃された。
1923年、株式会社とし、野田卯太郎が社長を勤めたが、1925年、入閣を期に辞し、1927年山口恒太郎代議士が副社長になった。1928年(昭和3年)、寺岡弥三郎が経営権を委託されて専務理事となり、翌年、山口が副社長に戻った。1931年、堀川勝造が社長を継いだ。
1940年(昭和15年)7月、政友会が新体制運動に同調して解党した。
1941年(昭和16年)1月、中央新聞は『日本産業報国新聞』に変わり、杉原三郎が社長になった。直接の関係は明らかにできないが、当時、『大日本産業報国会』『産業報国会』などの勤労者組織が、体制派の指導で作られていた。
『日本産業報国新聞』は、大東亜戦争の敗色濃い1944年(昭和19年)5月30日、廃刊した。
『中央新聞』の発行部数は、1896年(明治29年)に大阪朝日新聞の9.5万に対し7万、1903年に10.4万に対し4.1万だったと言う[3]。
社員編集
政治政論の記事ばかりでなく、時代順に次の様な社員も在籍した。
- 広津柳浪(作家):『東京中新聞』時代の1890年に入社し、『絵姿』(1891年)・『変目伝』(1895年)、『黒蜥蜴』(1895年)などを連載した。
- 幸徳秋水(思想家):1895年(明治20年)入社して翻訳を担当し、翌1月から論説を書いたが、1898年初の第3次伊藤内閣発足を嫌って年退社した。まだ社会主義者でなかった。
- 岡本綺堂(劇作家・劇評家):1893年 - 1913年在籍。
- 松居松葉(劇作家・劇評家):1895年 - 1896年。
- 岡村柿紅(劇作家・劇評家):1901年 - 1909年。
- 石橋思案(作家):1901年前後。
- 永代静雄(作家):1909年頃。
- 若山牧水(歌人):1909年に5ヶ月。
- 若杉鳥子(作家):1909年 - 1910年。
- 今井邦子(歌人):1910年 - 1911年。
- 野村秀雄(ジャーナリスト):1911年から短期。
- 中平文子(後の武林無想庵の妻):1916年入社、ルポ記事『お目見得日記』を連載した。
- 青木槐三(鉄道ジャーナリスト):1919-1921年
出典編集
- 片山隆康:『明治新聞物語』、大阪経済法科大学出版部(1989)ISBN 9784872040111
- 成沢光:『大岡育造』、(吉川弘文館:『国史大辞典2』p.523)
脚注編集
外部リンク編集
- 神戸大学図書館 1912年 - 1916年の中央新聞の記事の一部
- 中央新聞の歴史 - ウェイバックマシン(2009年6月8日アーカイブ分)
- 中央新聞 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)