中山冷泉為尚

江戸時代前期の公卿。従二位権中納言

中山冷泉 為尚(なかやまれいぜい ためひさ)は、江戸時代前期の公卿

 
中山冷泉為尚
時代 江戸時代前期
生誕 慶長9年2月20日[1]1604年3月20日
死没 寛文2年7月5日1662年8月18日
戒名 一行院観叟覚心
官位 従二位権中納言
主君 後水尾天皇明正天皇後光明天皇後西天皇
氏族 中山冷泉家今城家
父母 父:中山冷泉為親、母:五条為経
兄弟 為尚尊済
今城定淳
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生涯 編集

慶長16年に叙爵され、2年後の同18年11月8日1613年12月19日)、10歳で元服し、同日侍従になる。その後も昇叙し続け、寛永12年、従三位となり公卿入りを果たした。同18年正月には正三位に昇叙、同12月28日には参議となるも翌日には辞退している。権中納言に任じられた慶安2年2月30日1649年4月11日)、帯剣を許される。同年4月には、病気のために権中納言を辞退した[2]寛文2年(1662年)、59歳で薨去。法号は一行院観叟覚心[3]

系譜 編集

官歴 編集

脚注 編集

  1. ^ 『公卿補任』明正天皇寛永十二年条。『系図纂要』には「慶長元年二ノ廿生」とあるが、同じく『纂要』のうち「寛文二年七ノ五薨六十」との記述と年齢が合わない。恐らく誤記か。
  2. ^ 『公卿補任』後光明天皇慶安二年条。
  3. ^ 『系図纂要』第六冊、p.557。

参考文献 編集